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コンコンと、水槽を叩く音が収蔵庫の片隅に響いた。
「おはようござイます。元気デすか?」
コンコンコン——少女はまた水槽を叩いた。
「オイディア、やめなさい」
きちんと密閉された分厚いガラスの水槽。そこには透明な液体が満たされ、一人の少女の遺体が浸かっている。オイディアと呼ばれた少女はその遺体に向けて話しかけていたのである。
コンコンコンと、オイディアは三度水槽をノックした。遺体からの応答は当然無い。
遺体の白い首には、ムカデがぐるりと一周巻いたような縫い痕がある。それと同じ痕が、オイディアにもある。それらが何を意味するのかは、ハイオはオイディアに話してはいない。
「オイディア。その子は起きませんよ」
死んでいますから——と、ハイオは四度目のノックをしようとするオイディアを制した。
それでもオイディアはまた、元気でスか、と水槽の遺体に呼びかけた。ハイオが 彼女にこの水槽を見せて以来、毎日こうしているのだ。
どうしたものかとハイオが困っていると、誰もいないのかと、声がした。
店の方からである。
「はい、今行きます」
声が届かないことを承知でハイオが応えると、オイディアに白衣の袖を引っ張られた。
「ハイオ、私が行ク」
「え?」
ハイオが答える前に、オイディアは収蔵庫を出ていってしまった。仕事熱心なのは良いことだが、ここまで活発なのも困りものである。
収蔵庫に一人取り残されたハイオは、水槽に手を触れた。その冷たさに、手の温もりが瞬時に奪われていく。
きっとこの中はもっと冷たいのでしょうねと、ハイオは水槽の少女に語りかけた。
少女はもちろん応えない。
今、この収蔵庫で生物と呼べるものはハイオ一人である。
他は全て、死んでいる。
翼を広げるペガサスも、宝石が煌めくカーバンクルも、弓を引くケンタウロスも、皆——死んでいる。
ここに置いてある物は全て、ハイオによって作られた標本たちなのである。
ビーと耳障りなブザーが短く響いた。
オイディアからのSOSだ。
ハイオは水槽から手を離し、オイディアの救助へと向かった。
この時間に来る客といえば、物好きな富豪——の、使いか。あるいは熱心な蒐集家——の、使いくらいだ。どちらもクセのある客だが、オイディアならもう問題なく対応できるだろう。となれば、来客はもっと厄介な、オイディアの手に負えない人物だったのかもしれない。
「お待たせしました」
カウンターに出るなりハイオが丁寧に言うと、まったくだと客人は偉そうに応えた。
「J様でしたか」
これは失礼致しました、とハイオは丁寧にお辞儀をした。
黒のロングコートを着たこの傲慢な紳士は、この奇妙な店の常連なのである。しかし彼の本当の名前はもちろん、年齢も国籍も、ハイオは知らない。その方がお互い都合が良いのだ。
「まったく。いきなりこんな娘が出てきたから驚いたぞ」
「一般の人間かと?」
Jは、いやいやいやとしつこく、そしてゆっくりと手を仰いだ。
「なめるなよ。自分の性格に多少難がある事は自覚しているが人を見る目はあるつもりだ。そこの嬢さんが一般人共と違うことくらい判る」
それに、とJは続ける。
「この時間は我々しか店に入ることはできない。この店の扉は実に優秀だ」
だろ——とJはハイオの顔を伺う。
「ええ、まあ」
日没以降は、一般の人間には店の扉が開けられないようになっている。一般人向けの品物を売っているのは昼間だけなのだ。
「私が驚いたのは、なぜこんな子供が店番なんかしているのかという事だ」
「何か問題でも?」
「いいや。我々の界隈ではよくある事だ。実年齢と外見が合わないなんて事もザラにある」
だがな、と言ってJはオイディアの方へ顔をずいと近づけた。目を大きく見開いてオイディアを凝視する。
「これは一体、何なのかと思っ——おっと」
言葉の途中でJが仰け反った。ハイオが割り込んだのだ。
「何、とは?」
「それは、詮索をするな——という意味か?」
「自由に解釈していただいて結構です」
Jは数秒だけハイオを見下ろして、試すように口角を上げた。
「まあ良い。お前が知らないはずはないしな。そんな事より早くあれを持ってこい」
Jがようやく本題を切り出した。
「人魚の色彩保存標本でしたね」
「ああ、そうだ」
「今取りに行きますので」
ハイオはオイディアに手伝うよう声をかけ、先程いた収蔵庫とは別の、液浸標本専用の部屋へと向かった。
途中で、オイディアがハイオの名を呼んだ。
「どうしました?」
「あの黒い人、嫌イ」
ハイオの袖にオイディアが掴まる。それがまるで暗闇を恐れる幼子のようで、ハイオは少し驚いた。
「どうしてですか?」
袖を掴まれる力が強くなるのを、ハイオは感じた。
「眼ガ、怖い」
なるほどとハイオは得心した。
Jの目付きは悪いのである。いつも眉間に皺を寄せているし、彫りが深く、瞼がふっくらと厚い。そのせいで常に威圧的で不機嫌そうな顔をしている。そんな目でオイディアは見つめられたのだから、彼女なりに身の危険を感じたのかもしれない。
「大丈夫ですよ。確かに人相は悪いですが、獲って食いはしません。でもこれは本人に言ってはダメですよ」
ハイオは口元に人差し指を立てて言った。
Jは本人が自覚しているより酷い性格をしているのだが、あれでいてなかなか羽振りが良いのだ。目的の物には金は惜しまないというのがJの性分らしい。
「またあの人が来たら私が対応しますから——あ、これですね」
棺を思わせる長い水槽の前で足を止めた。中には、美しい人魚が眠るように収まっている。
下半身こそ魚類のそれに類似しているが、上半身だけ見れば人間の女性とそう大差ない。
顔は作り物かと思うほど美しく、肌は人間のそれよりも滑らかで、鱗は宝石のように煌めいている。一般的には、空想上の存在とされている生物だ。
そんな特殊な生物を多く扱ってきたハイオだが、人魚を扱ったのはこれが初めてであった。普通、人魚は生きたままで取引されるからだ。研究に使うにしても鑑賞するにしても、人魚の真価が発揮されるのは生きた姿だからである。
本来、ハイオのもとに人魚の依頼が来ることなど、だから無いのだ。
それも、今回はいつものようなただの液浸標本ではない。色彩保存標本である。髪も肌も、もちろん魚類部分も。全ての色素が、生きていた頃のまま鮮やかに残っている。
これがホルマリン漬けであったならば、こうはいかない。ホルマリンでは、時間の経過と共に色素が抜けて、やがては標本が白くなってしまうのだ。
色鮮やかな人魚を見て、我ながら良い出来だと、ハイオは自画自賛した。世の中にはまだまだ変態な輩もいるものだと呆れると同時に、そういった輩に感謝さえしていた。
ハイオもまた、変態なのである。
「お待たせしました」
台車に乗せられた水槽が、Jの許へ到着した。
「一応、木箱で梱包しておきまし——」
「素晴らしいッ」
人魚を見るなりJは両腕を広げた。今にも抱きつきそうな勢いである。それを不気味に感じたのか、オイディアはハイオの背後へ隠れてしまった。
「まるで生きているようじゃないか。こんな仕事ができるのはお前だけだよ。一体どうやるんだ」
「グリセリンを使うんですよ。それ以上は企業秘密です」
ハイオの言葉はJには届いていない。Jは相当興奮しているようで、人魚の顔の辺りのガラスをもどかしそうに撫でまわしている。
「今回はオークションですか? それともコレクション?」
Jは闇競売を仕切っている人物であるそうなのだが、彼自身も蒐集家という一面を持ち合わせているのだ。
ハイオが尋ねると、Jはフンと鼻を鳴らした。
「お前にだってそんな事は明かせないさ」
ですねと、ハイオは同意するも、おそらく競売に出されるのだろうと予想していた。蒐集家というものは、手に入ったコレクションを自慢したがるものだ。
「まあこんな裏の界隈に身を預けているのですから、秘密くらいは当然あるでしょう」
「秘密ね。お前こそ、そろそろ教えてくれても良いんじゃないか? 男なのか女なのか」
「性差別ですか?」
そうハイオが言うと、Jはフンと笑った。
「男より女の方が好きなもんでね。お前が女と言うならもう少し優しく扱ってやるがな」
「差別じゃないですか」
「おいおい。好きなものに優しく接するのは当然だろう。お前なら、標本と人間ならどっちを優しく扱う?」
試すような眼差しを向けられたハイオは、短く溜め息をついた。
「確かにそうですね。失礼しました」
標本と人間。その両者なら、言うまでもなく標本の方を優しく扱うだろうと、ハイオは自嘲した。実際、Jのような上客に対しても、初めこそ丁重に扱うが、気が付けばメッキが剥がれている。面倒なのだ。生きている人間は。
「さて。外に車を待たせてるんでね。そろそろ出るとするよ」
「そうですか。それなら私たちが運びましょう」
「そうだな……。外からは私の付き人にやらせるから、入り口までで良い」
そう言うなりJは、さっさと外に出ていってしまった。
「オイディア、台車を通すので道を開けて下さい」
背後に隠れているオイディアに指示を出すと、彼女は恐る恐る出てきて、
「分かっタ」
と頷いた。
店内に林立するのは、主にショーケースやディスプレイテーブルなどだ。この店の性質上、どうしても大きな店舗什器が多くなる。しかもそこに入れられている物たちは、丁寧に扱わねばならない繊細な物ばかりだ。
オイディアにそれらを慎重に移動させて通路を確保しながら、どうにか依頼の品物を入り口まで運んだ。
そこでタイミング良く、外からドアが開けられた。
「できたようだな」
Jが顔を出すと、オイディアは逃げるようにハイオの陰に隠れた。
「あとはこっちがやる」
そう言ってJが、黒い革手袋がはめられた手を二回叩くと、二人の黒服の男が店に入ってきた。男たちの顔には、白いハーフマスクが着けられている。
彼らは一言の声も漏らさず、手際良く木箱を外の車へ運んでいく。人の背丈ほどもある水槽を軽々と持ち上げることから見るに、付き人とやらはおそらく、オイディア同様ただの人間ではないのだろう。
「J様」
黒服に続いて店を出ようとするJを、ハイオは呼び止めた。
「色彩保存標本は比較的新しい技術なので、正直なところ何十年状態を維持できるかが判りません。なので、劣化の原因となる環境、直射日光……紫外線が直接当たる場所や、温度変化の激しい場所へは、なるべく置かないようにして下さい」
ハイオがそう注意すると、Jはフンと鼻を鳴らした。
「そのくらい基本だ。解ってるとも」
「そうでしたか。それは失礼しました」
「また来させてもらうよ」
そう言い残してJが店を出ていくと、閉められたドアの隅でリンと音がした。廉価なドアベルの残響はすぐに消える。
「ハイオ、黒い人、モう行った?」
「はい。もう大丈夫ですよ」
そう言ってやると、オイディアはおずおずとハイオの背後から顔を出した。
「私は商品の配置を戻しておきますから。オイディアは台車を置いてきて下さい」
「分かっタ」
オイディアはきっぱりと首肯すると、調子良く台車を押して行った。
「さて」
ハイオは仄明るい店内を見渡した。もともとそれほど広くはないが、置いてある物が多く、実際よりも狭く感じる。しかし、ハイオはそれを不満とは思っていなかった。
コキンメフクロウの剥製、ヤブノウサギの全身骨格標本、タツノオトシゴの透明骨格標本、ウシガエルのホルマリン漬け。店はあらゆる標本で溢れている。それらはショーケースやディスプレイテーブル、あるいは床に置かれた木製の台座の上で、各々好きな方向を見つめている。
標本たちが密集しているこの店内は、むしろハイオに心地よさを与えてくれている。
ハイオは、そんな標本たちに挨拶をするように時々視線を合わせながら、棚やテーブルを元の位置に動かした。
「ハイオ、台車、終ワった」
「ああ。ありがとうございます」
ハクトウワシの剥製の台座に最後の一押しをして、ハイオは応えた。
「ハイオ、棚はもう良イ?」
「ええ。幸い、それほど大きな物は動かしませんでしたから」
ハイオはもう一度礼を伝えてオイディアの頬を優しく摩ると、オイディアはネコのように目を細めた。
「収蔵庫に戻りましょう。できれば今日中に整理を終わらせたいですからね。手伝ってくれますか?」
「ウん」
オイディアはこくりと頷き、早足に収蔵庫へと向かった。
遅れてハイオも歩きだす。店の照明は点けたままにしておいた。時刻は午後十一時になろうとしているが、この時間に客が来ることは、ないこともない。この界隈では、一般人と関わることが少なくなるせいか、一般常識というものに無頓着な者が多いのだ。
涼しい収蔵庫に戻ると、すでにオイディアが作業を進めていた。頭の上にサラマンダーの剥製を乗せて運んでいる。
あれは世界各地のサラマンダーを比較した標本で、一つの台座に、オオサンショウウオほどの大きさのサラマンダーが八個体乗っている。一見するとどれも大型のトカゲのような形をしているが、模様はもちろん、毛のあるもの、棘突起を具えるものなど、それぞれに違った形質を持つ。また、その生態もまちまちで、毒を持つものや、溶岩の中に生息する種も存在する。
幻性生物学——いわゆる幻獣と呼称される生物を学ぶ学問——の講義の資料として製作を依頼された物だが、サラマンダーの捕獲方法が確立されてからは生体が簡単に手に入るようになったため、返却されたのだ。
その剥製は台座も入れて六十キログラム近くもあるのだが、オイディアにかかれば重いうちに入らない。
「オイディア、それが終わったらこっちの火鼠を運ぶのを手伝って下さい。これは貴重な物なので私と運びましょう」
オイディアは力仕事には優れている反面、繊細な作業は不得手なのだ。加えて、彼女はまだ、標本を区別するための知識が不充分だ。
「分かっタ」
オイディアはサラマンダーたちを移動させると、ぱたぱたとハイオの元へ戻ってきた。
「これを……一度この台車に載せます」
ハイオは足元にある、雪のような白い毛色の、ずんぐりとした四つ脚の獣の剥製を指差してから、その手を隣の台車へと滑らせて言った。
すると——。
「あ」
オイディアは短く声を発して、へたり込んでしまった。
「オイディア……!」
ハイオは慌てて背中を支える。
「限界ですね……」
そう言ってハイオは、オイディアを抱き抱えた。
「ハイ……オ、私、まだやれル」
「ダメです。今日はもう、休んで下さい」
「ハイオ、私……」
「解っています。いつもの場所——ですね」
オイディアはハイオの腕の中で、こくりと頷いた。
ハイオはオイディアを抱えたまま、収蔵庫の最奥——少女が眠る水槽の前に至った。
その横にある簡易ベッドに、オイディアをそっと寝かせてやる。水槽の淡いブルーの光が、今にも眠りにつきそうなオイディアを優しく照らす。
「おやすみ。オイディア」
ハイオの言葉にオイディアはおヤすみなさいと小さく応えると、その白い手をゆっくりと水槽へ伸ばした。
曇り一つない水槽に、指先が触れる。
「おヤすみなさい……」
水槽の中の少女にそう言うと、オイディアの腕はだらりと落ちた。
「おやすみ、オイディア」
ハイオは安らかな寝顔にもう一度言って、オイディアの冷たい腕をそっとベッドに戻した。
オイディアの頬を指で撫でるが、そこに温もりは感じられない。まるで生きているように振る舞っていても、この少女の生命活動は、何年も前に止まってしまっているのだ。
「フェノ……」
ハイオは名前を呟き、水槽の少女を見る。
「いつか……いつかきっと」
目覚めさせてあげますから——妹の亡骸にそう言い残し、ハイオは収蔵庫から立ち去った。
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