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「あ、起きました?」
天井はいつもと同じなのに、それ以外の景色と匂いが違っていた。
「···今何時ですか?」
「11時過ぎですね。良かった、顔色随分良くなってますよ。」
初めて会った時と同じジャージとパーカーを着た男が、部屋の真ん中に置かれたローテーブルの前で立ち上がる。気を遣ってくれているのかベッドに近付いては来ない。
「ごめんなさい、こんな遅くまで。」
体を起こすと、まだ頭痛は残っていたけれど吐き気は消えていた。目の奥の痛みも随分落ち着いた気がする。
「俺いつも寝るの遅いんで。まだまだ平気です。」
爽やかに笑う。こんな顔をしているけれど、本当は心の中では物凄く迷惑がっているのかもしれない。
「···すみません、私臭くないですか?」
男は笑う。
「それ、そんなに気になります?」
「···気になります。吐いたし。しかも駅のトイレで。」
「とりあえず俺は気になりませんよ。」
男は笑ってキッチンに向かう。
「これ、未開封なんでどうぞ。」
冷蔵庫から出した水の入ったペットボトルを差し出された。お礼を言って受け取ると、男はローテーブルの前に座った。
「今さらなんですけど、お姉さんの名前なんて言うんですか?」
一口飲んでペットボトルのキャップを閉める。
「北根です。北根蘭(きたねらん)と言います。」
「蘭さん、ね。すみません、名字も名前も知らなかったからずっと‘お姉さん’って呼んでて。」
名字ではなくさらっと名前を呼ぶ。フレンドリーと言えば聞こえは良いけれど、もしかしたら軽い男なのかもしれない。
「ごめんなさい、私も名前分からなくて。」
「俺は宮島哲(みやじまてつ)です。お姉さんって呼んでたけど、もしかしたら俺のが年上かもしれないな。27っす。」
「私は28。お姉さんで合ってましたね。」
そう言うと男は笑った。
「あ、そうだ。何か食べます?お粥とかうどんとか。」
「あ、いえ。大丈夫です。」
さすがにそこまでしてもらうわけにはいかないし、お腹が空いているのかどうかもよく分からなかった。すると男は何か考え込むように一瞬黙り、また真っ直ぐ私を見た。
「さっき潔癖症って言ってたじゃないですか。それって、俺が作ったものを食べるのはアウトなんですか?」
男の顔は真剣だった。
「···出来れば、アウトですかね。」
男は真剣な表情のまま頷く。こんなに親切にして貰っているのに汚いもの扱いをしてしまっているようで申し訳なくなった。
「あ、いや···食べようと思えば食べれるんです。」
「あ、すみません。別に気を遣わなくて大丈夫です。聞いてみたかっただけなんで。」
真剣だった表情を崩して笑ってみせた。1つしか歳は変わらないはずなのに、そんなふうに笑っているともっと年下に見えた。
「さっきのペットボトルの水は大丈夫なんですか?」
「···未開封だったので。」
「ていうか、潔癖症じゃなくても知らない男の飲みかけの水はダメですよね。」
男はテーブルの上に置かれているノートパソコンを閉じる。
「もしかしてお仕事中でした?」
「いや、ただのゲームです。」
そう答えながらもテーブルの横には仕事用と思われる黒い鞄があって、そこからはみ出したクリアファイルはついさっきまで使用されていたように見えた。申し訳ない気持ちでいっぱいになって来た。
「本当にすみません。いろいろご迷惑かけてしまって。」
そう言うと男は笑う。
「俺、捨て猫とかどんどん拾ってくる子どもだったんです。弱っているものを放っておけないタチで。まぁそのせいで実家に猫が今5匹いるんすけど。」
クリアファイルを鞄にしまい、部屋の隅に立て掛ける。
「蘭さんのことも、放っておけなくて俺が勝手に声掛けただけなんで。むしろ気にさせちゃってすみません。」
どうしてこの人はこんなにも口から優しい言葉が次々と出てくるのだろう。私には出来ない。簡単に人に触れることも。優しく手を差し伸べることも。
「あと、蘭さんと話してみたかったんです。」
ほんの少し照れ臭そうな顔をして、初めて男の方から目をそらした。
「隣に住んでたってことは、本当にこの前手紙を届けて貰った日に初めて知って。ただ駐車場とかエントランスですれ違ったことは何度かあったんです。」
全然気が付かなかった。
「いつも背筋伸ばして歩いててかっこいいなって。あと、ちょっと仕事で落ち込んでた時に、普通に挨拶してくれて。笑った顔が、優しいなって思ったんです。」
すれ違うマンションの住人には、とりあえず挨拶はするようにしていた。確かにマンション内の交流は希薄で、挨拶を返してくれない人もいる。でも、たったそれだけのことで覚えてくれていたなんて。
「その節はどうもありがとうございました。」
「そんな、だって私覚えてないし、しかも挨拶しただけなんですよね?」
「滅多打ちにされた時って、ちょっとしたことでも救われることないですか?」
男は笑う。その表情も声も、選ぶ言葉さえ優しく感じる。
「じゃあ私が今日宮島さんにして貰ったことは、物凄く豪華ですね。」
「そう思って貰えたなら良かったです。」
その笑顔を見ていたらなんだか泣けてきた。大人になってから人前で泣いたことなんてなかったのに。
「ティッシュどうぞ。」
差し出されたティッシュを箱ごと受け取る。今は別に何も辛くも悲しくもないのに、ぼろぼろと止まらない。
「···ごめんなさい、本当に。最近嫌なことばっかりで。」
「大変でしたね。」
誰かに慰めて貰ったり、誰かに甘えたり、そんなことしなくても生きていけると思っていた。今日だって、この人に会わなかったとしても今私はなんとか生きていたのだと思う。他人を拒絶して生きていく方が楽だと、そうしようと決めたのは私。いつの間にか友達もいなくなった。会うとストレスばかりだった。会わなくても、連絡をとらなくても大丈夫になって、気付いたら誰もいなくなっていた。私が切り捨てたのか、切り捨てられたのか分からない。望んで得た孤独は、ぽっかりと心に穴を開けた。飯田と仲良くなれたのは、これ以上絶対に踏み込み合わない関係だと分かっているから。ほんの少し、他人には見せない素を見せ合って、ほんの少し、お互いの孤独を埋めるようなそんな関係。だからしんどい時に彼女を頼ることは出来ない。飯田は、飯田の世界を生きているから。
「がんばりましたね、蘭さん。」
ほんの少し、私の孤独に踏み込んできたこの男の声は驚くほどに優しく心地良かった。
気付いたら日付が変わる直前になっていた。
「蘭さんさえ良ければ、朝まで寝ていっても良いですよ。」
冗談ぽく笑う男の顔は少し眠そうだった。
「本当にありがとうございました。いろいろすみません。」
シーツも布団も洗って返したいと懇願しても、断固として拒否された。本当に申し訳ない。こんな汚い格好で、しかも他所様の布団で寝てしまった自分が信じられない。ただ、頭は随分すっきりとしていた。泣いて腫れぼったい目も、体の怠さも当分消える気配はなさそうだけれど、とりあえずなんとかなりそうな気がした。いろんなことが。
「蘭さんにお願いがあるんですけど。」
306号室と307号室の間で男が言う。その顔は少し固く見えた。お金とかを請求されるのだろうか。やっぱりこんな優しい人がその辺に存在するわけないのだ。何か買わされたり、怪しいことをさせられたり。信用してしまっていたことを後悔しながらも、あの優しさの代償なら多少のことは仕方がないのかもしれないとも思ってしまう。
「俺と友達になってもらえませんか?」
真剣な顔でそう言った男は、真正面で目が合うと恥ずかしそうに一瞬俯いた。でもまたすぐに目が合う。疑ってしまったことを猛省する。優しい人が本当にこんな近くに生息しているなんて。さっきまでして貰ったことを思い出すと拝みたくなる。
真っ直ぐに私を見る。その行為に気まずさもあるけれど、たぶん真っ直ぐな人なのだろうなと思う。幼く見えるのはこの大きくて丸い目のせいなのだろうか。短いけれど柔らかそうな真っ黒の髪。そんなに背は高くないけれど、エレベーターでもたれかかった時、ちゃんと男の人なのだなと思った。
「···ダメですか?」
男の声でハッとする。
「あ、ごめんなさい。ていうか、え、友達?」
「‘顔見知り’とか‘隣人’より、少しだけ近い関係になれたらなって。せっかくこんなふうに話せたから。」
なんとなくその声色と表情で、この人は私に好意があるのかもしれないなと思った。潔癖症だと言ったのに。あんなボロボロの醜態を晒したのに。
「私なんかと?」
「蘭さんと、友達になりたいです。」
真っ直ぐだった。
「···じゃあよろしくお願いします。」
今回は何がいけなかったのだろう。勘違いさせるような態度をとったつもりはなかったのに。やっぱり助けて貰わずに1人で家に帰れば良かったのかもしれない。そう思いながらも私は微笑む。男の表情が明るくなって、またあの爽やかな笑顔を見せる。嫌ではなかった。でも私は、この人が望むようには出来ないだろう。普通の友達付き合いも、男女の関係も、何も出来ないのだと思う。この人は、私に何を望んでいるのだろう。
「よろしく、蘭さん。」
一瞬こちらに伸ばしそうになった右手を引っ込めたのが分かった。本当は、握手がしたかったのだろうな。でも、止めてくれた。それがほんの少し、嬉しかった。
バッグは家の廊下に置いたままだった。中からスマートフォンを取り出し、靴箱の上にある除菌シートで液晶や外装を拭く。LINEの通知が来ていた。
『明日外出る予定だから、なんかいるものあるなら連絡して。ついでに寄る。』
絵文字もスタンプも何もないメッセージは、あの外見からは想像できない。返信をしようとした瞬間、新しいメッセージが届く。
『家知らないわ。いるものあるなら住所も送って。』
素直に、嬉しいと思った。踏み込んではいけないと、頼ってはいけないと、思っていたから。
『ちょっと回復した。たぶん大丈夫。』
そう、メッセージを送る。すぐに既読になる。
『ありがとう、飯田。』
返信が来る前に送る。飯田の世界に私が存在している。それを嬉しいと思う私は、やっぱり孤独を受け入れきれてないのだろう。
シャワーを浴びてベッドに横になる。あんなに寝たのに、目を閉じればすぐに眠れそうだった。
ーーーあなたは汚くなんかないです。
頭の中に優しい声が響く。躊躇なく私に触れる手はとても温かった。
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