その手で触れて

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「凄いね。その人、仏みたい。」 サンドイッチを頬張りながら飯田は言う。 「ゲロ吐いた見ず知らずの人を家に入れるのも嫌だし、ベッド使わせてあげるとか本当に凄いね。」 飯田の顔面に‘ゲロ’という言葉は本当に似合わない。 「もうそれってさ、北根ちゃんのことめっちゃ好きか、本物の仏かどっちかだよね。」 私は何も言えずに俯く。  結局休み中に飯田に家に来てもらうことはなかった。眠れる限り眠り続けて、目が覚めてお腹が空いていれば食事をとった。外の世界から隔離されていれば、真っ黒だった私の中身が少しずつ浄化されていく。今回そのきっかけを作ってくれたのは隣人である宮島さんだ。  いやいやながら電車に乗ってもとりあえず吐き気をもよおさずに出勤出来た月曜日の今日、デスクで昼食をとりながら隣に座る飯田に金曜日のことを大まかに話した。本当に大まかに。当然、宮島さんが私に好意があるかもしれないと思ったなんてことは口にしていない。なのに飯田はそんなことを言う。私と同じくらい、恋愛にも恋話に興味がなさそうなのに。 「凄いね。仏くん、凄いと思う。」 3口でサンドイッチ1切れを食べきり、手を拭いた飯田はシンプルな黒い水筒を手に取る。 「それは、ゲロに怖じ気づかないって意味で?」 水筒の中身を一口飲んで蓋を閉めながら飯田は薄く笑う。 「それもあるけど。どういう意図にしろ、それだけ他人に優しく出来るって凄いよね。」 確かにそうだな、と思う。たぶん私は今目の前で飯田が吐いたとしても、迷わず手を差し伸べることが出来ないだろう。飯田でも、だ。それこそ、ただの隣人だとか同じマンションの住人だとかそういう理由で、自分が汚れるリスクを侵してまで人に優しくしたいとは思えない。出来るとも思えない。だから宮島さんが私にしてくれたことは、好意があろうとなかろうと私には出来ない凄いことだったのだ。 「一緒にいて、しんどくなかったの?」 飯田は最後のサンドイッチを手に取る。 「···まぁ、気まずさはあったけど。汚いとか気持ち悪いとかはあんまり思わなかった。」 「ふーん。それも凄いね。」 私はたぶん、99%の人を汚いとか気持ち悪いと認識して生きている。でもその99%の内の大多数とは、一応会話も出来るし表面上はうまく接することが出来ていると自分で思う。ただ時々それすら出来ないくらい拒絶感が拭えない人がいる。  残りの1%は、不思議と嫌悪感を感じない本当にごく一部の人。ここ数年は妹と飯田だけだった。あと、たぶん宮島さんもそうなのだと思う。ただこの1%の人とも、手を繋いだり抱き合ったり、スキンシップをとることは出来ればしたくない。妹や飯田にも触れられない。二人もそれに気付いているから触れてこない。宮島さんと友達になったとしても、きっとそれは変わらない。  あっという間に1週間が終わった。駅前のコンビニで買い物を済ませ、普段より早足でマンションに向かう。  マンションの入口が見えた所で、マスクをつけたままなことに気が付いた。この辺りにゴミ箱はない。もう家までつけて帰るしかない。 「こんばんは、蘭さん。」 エントランスホールで郵便物を取り出していると、後ろから宮島さんの声がした。 「あ、こんばんは。お疲れさまです。」 会釈をしてすぐにポストから離れる。宮島さんのポストはうちのポストの隣だ。 「隣に住んでてもなかなか会わないもんですね。」 軽く会釈を仕返した宮島さんは、さっきまで私がいた位置に立ってポストを開ける。何も入っていなかったらしく、すぐに扉を閉めた。 「先週は、本当にありがとうございました。」 深々と頭を下げると、宮島さんの笑う声が聞こえた。 「この前より顔色は良さそうですけど、風邪ですか?」 そう言われて慌ててマスクを外す。 「違います。これは、その、電車に乗る時に必要で。」 宮島さんは察してくれたらしく2、3度頷く。 「車、その後どうなりました?」 「···一旦手放すことにしました。相手が無保険で。私の保険でも、修理にしろ買い替えにしろお金がかかり過ぎて。」 「うわ、酷いな。じゃあこれから不便ですね。」 「元々車がなくても生活出来る場所を選んだので。朝の渋滞を考えたら、電車の方が早いし。買い物も一人分ならなんとでもなります。」 そう、本当にただ電車に乗りたくないから買っただけの車だった。私の収入から考えれば、維持費がかなり高くつく。マンションの駐車場代も馬鹿にならない。だから車がなくてもなんとかなる。···と、自分に言い聞かせて諦めた。本当は電車なんか乗りたくない。手持ちのお金で買えそうな中古車も一瞬頭をよぎったけれど、誰かどんなふうに乗ったか分からない車には乗れない。  会話をしながら3階へ向かう間、宮島さんは自然にエレベーターのボタンの操作をしてくれる。ありがたかった。 「あ、そうだ。お布団、弁償しますね。」 ポケットからキーケースを取り出す宮島さんの横顔に向かってそう言った。宮島さんは何故か目を丸くして私を見る。 「汚れても破れてもないですよ。それに蘭さんが気にすると思ったので、あの日のシーツも布団カバーもちゃんと洗いました。蘭さんが寝る前と何の変わりもないです。」 「いや、でも···」 「蘭さんは気になるかもしれないけど、俺は気になりません。」 「でも何か謝罪というか、お礼というか···」 「じゃあ一緒に飯行くとかどうですか?」 「······」 「あ、もしかして外食はアウトですか?」 自分から謝罪とかお礼とか口にしたくせに最低だと思うけれど、宮島さんの問いかけに私は首を縦にも横にも振れない。不自然な沈黙が続いたあと、私は慌てて言う。 「あ、いや、行けます。ご飯行きましょう。もちろんご馳走するので。今から行きますか?」 宮島さんが声を出して笑った。 「蘭さん、無理しなくて大丈夫です。」 その顔は怒っているようには見えない。 「友達なんだから、無理なことは無理ってちゃんと言いましょう。そんなことで怒りませんから。」 宮島さんの顔が怒っていないことに安堵したことを見抜かれているようだった。驚きと戸惑いですぐに言葉が出て来ない。 「それに蘭さん、それ今日のご飯ですよね。」 宮島さんは私が持っている袋に視線を向ける。 「これはご飯というか···」 一瞬躊躇ったけれど、私はゆっくりと袋の口を広げて中身を宮島さんの方に向ける。 「あ、このシュークリームうまいですよね。」 袋の中にはシュークリームだけ。6つ買った。時々、本当に時々、ご飯じゃなくてひたすら甘いものを食べたくなる。体に良くないことは分かっているのだけれど。 「これ好きなんですか?」 「俺も時々買いますよ。」 「あ、じゃあこれどうぞ。」 袋ごと、宮島さんに差し出す。 「また改めてお礼考えるんで、とりあえず今日はこれを。」 目一杯宮島さんに向けて腕を伸ばしたのに、シュークリームを受け取ってもらえる気配はない。何か考えているような表情をしていた。 「蘭さんって、自分ちのベランダで何かするのはアウトですか?」 いたって真剣な顔で宮島さんは尋ねる。 「自分ちなら、ある程度のことは大丈夫だと思いますけど···」 意味が分からないまま答えると宮島さんは真剣だった表情を崩して、鍵穴に鍵を差し込む。 「じゃあ1時間後にシュークリーム持ってベランダ出てもらえませんか。それがお礼ってことで。」 返事に困っていると、宮島さんは爽やかに笑って玄関の中に消えていき、ガチャリと鍵の閉まる音がした。  お風呂から出ると、約束の1時間後まであと20分だった。人に会っても大丈夫な部屋着のワンピースと上着を着て、鏡の前で化粧をする。フルメイクにするかしばらく悩み、結局全行程を踏む。外は暗いとはいえ、ベランダならはっきり顔が見えてしまう。  身支度を整えて冷蔵庫からシュークリームの入った袋を出そうとした時、隣の窓が開いてサンダルが床を擦るような音が聞こえた。 「すみません、もしかして急がせちゃいました?」 慌ててベランダに出ると、隣のベランダから宮島さんが顔を覗かせた。 「いえ、大丈夫です。」 窓を閉めて宮島さんの方へ少し近づく。帰宅時より外は暗く、随分気温が下がっていた。 「あの、これさっきのシュークリームです。」 袋ごと差しだそうとすると、宮島さんは右手を伸ばしてきた。 「じゃあ1つだけ貰っても良いですか?」 袋から1つ取り出して渡すと、宮島さんの手は隣のベランダへ帰っていった。 「蘭さんも一緒に食べましょう。‘一緒に飯’です。」 優しく笑った横顔。シュークリームの封を開けて一口頬張る。私の一口よりずっと大きい。 「···これはお礼にはならないと思います。」 私も袋からシュークリームを取りだし封を開ける。いつもと同じ味。ほっとする甘い、甘いシュークリーム。 「十分です。」 そう一言言って、宮島さんは残りのシュークリームを口に押し込んだ。 「久しぶりに食べたけど、やっぱこれうまいっすね。」 この前とは違うパーカー。お風呂に入ったのか、さっきよりペタンと潰れた髪。スーツを着ていないとやっぱり幼い。  1時間後、そう言ったのは私がお風呂に入らないと部屋に入りたくないと言ったのを覚えていたからだろうか。他人の手料理も、外食も苦手なことを分かってくれたからだろうか。ここなら、私は私のテリトリーの中にいられる。誰も私のテリトリーには入って来ない。宮島さんのことは嫌じゃない。声も顔も、私に掛ける言葉の全てが優しい。心地良い程に。今私は、何の嫌な思いもせずに、他人と話し、食事をしている。 「···あの、私といるの面倒くさくないですか?」 こういう聞き方は嫌いだった。‘そんなことないですよ’その一言だけを期待している聞き方だから。 「蘭さんは今面倒くさいですか?」 そう尋ねられて私は首を横に振った。 「俺も一緒です。面倒くさいなんて思ってません。」 たったそれだけの言葉に、やっぱり私はひどく安堵した。 「そもそもこの前も今日も俺から声掛けてるのに、面倒くさいと思うわけないじゃないですか。」 宮島さんは笑う。 「···潔癖、引きませんか?」 「そういう人もいるんだなって思ったくらいです。」 「···この前も、最初から自分の布団で寝ろよって思いませんでした?」 「どんだけこの前のこと気にしてるんですか、蘭さん。」 声を出して笑った宮島さんは優しい顔でこっちを見ていた。 「人それぞれ、嫌な事の線引きって違うじゃないですか。この前のことは、俺にとっては嫌な事ではなかった。それだけです。」 「···宮島さんって、悪い人に騙されたり高いもの買わされたりしません?」 「しませんって。もう、そんなに気にしてるならシュークリームもう1つ下さい。それで全部忘れましょう。」 再び伸ばされた右手に、私は慌てて2つ目のシュークリームを渡す。宮島さんが2つ目を食べ始めた時、私はようやく1つ目を食べ終えた。  もしも、宮島さんが、宮島さんみたいな人がもっと早く私の人生に存在していたら、もう少し生きやすかったのだろうか。そんなことをふと思う。 「優しいですね、宮島さん。」 「ははは、ありがとうございます。」 冗談ぽく笑って答える。その横顔は、こんなに暗い夜の中でも明るく見えた。 「···私は、自分が面倒くさくて仕方ないです。」 「潔癖のことですか?」 頷く。きっとこんな話をされたって困るのに。分かっているのに何故か今、隣にいるこの人に話してみたかった。 「小さい頃は普通だったんです、たぶん。」 宮島さんは浅く頷く。 「きっかけは小学生の時に名字をからかわれたことで。‘北根’だから‘汚ねー’って、男の子達が。」 「···あぁ、小学生男子っぽいですね。」 「言い返せば良かったんです。それか無視するか。今思えばそれで済んだことなのに、あの頃の私には出来なくて。ほんの少しでも不潔な部分があったらまた‘汚ねー’って言われる。だから、ものすごく自分の身だしなみとか汚れとかを気にするようになって。」 あと一口分程残ったシュークリームを、宮島さんは口元から離す。 「でもその頃はまだその程度で。それから段々酷くなっていって、1番酷い時は部屋から出られませんでした。」 目を合わせられないけれど、宮島さんは黙ってこっちを見ていた。 「面倒くさいです、本当に。すごく面倒くさい。」 自分で作り出してしまったはずの沈黙に耐えかねて、袋から2つ目のシュークリームを取り出す。わざとガサガサと大きな音をたてて封をきる。2つ目も、変わらず甘かった。 「がんばったんですね、蘭さん。」 この前と同じように宮島さんは言う。この人の口から出る言葉は温かい。困らせると分かっていたのにこんな話をしたのは、たぶんこの人からのこの言葉を期待していたからだと思う。 「シュークリーム、うまいっすね。」 口元から離していたシュークリームを、宮島さんは口に放り込むように食べた。私は頷いて、2つ目のシュークリームを平らげる。甘い。とても甘い。でも少しも嫌じゃない。 「もう1つ、どうぞ。」 袋の中に残っていた最後の2つを取り出して、片方を宮島さんに差し出す。 「じゃあ、いただきます。」 伸ばされた手がシュークリームを受け取ってまた帰っていく。 「蘭さん、甘い物好きですか?」 「···はい。」 2人同時に3つ目のシュークリームの袋を開封する。 「俺の好きなやつ今度用意するんで、」 ほんの少し、緊張を含んだような声。 「また、こうやって一緒に飯、どうですか?」 照れたように笑った顔は、暗い夜の中で眩く光る。とても温かい光。思わず触れてしまいたくなるような、でも怖くて触れられない、そんな光。 「ぜひ。」 考えるより先にそう答えていた。宮島さんは一瞬驚いたような顔をして、すぐにまた笑う。気付いたら私も笑っていた。
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