その手で触れて

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 朝から気持ちが良いほど晴れていた。洗濯を済ませベランダに出す。昨夜とは違う、明るいベランダ。当然そこに宮島さんの気配はない。物干し竿に洗濯物を掛け終えて、一瞬耳を澄ます。遠くで車の音がする。それだけだった。  部屋の掃除を終えると9時半を過ぎていた。約束の時間まではまだ30分ある。やることがなくなりソファに座る。窓から入る風が冷たくて心地良い。気付けば季節が変わっている。秋も中盤に入り、そろそろ冬がやってくる。コートやマフラーを出しておかないと。電車通勤になると、駅までの道を歩くことになる。今までのように暖房の効いた車の中にいる間に会社に着くわけではない。 ーーーピーンポーン 驚いて目を開けた時、時計の針は知らないうちに約束の時間を過ぎていた。慌ててソファから立ち上がりインターフォンに応答する。 『蘭ちゃん、来たよー。』 聞き慣れた声。 「今開けるね。」 1階のエントランスを解錠した。  1分程で今度は部屋のインターフォンが鳴る。ドアを開けると2ヶ月ぶりに会う妹の菫(すみれ)が立っていた。 「蘭ちゃん、寝てた?」 顔を合わせるなり菫は笑う。  膨らんだお腹に手をあてながら歩く菫の姿を見るのは2度目だった。 「ごめんね、遅れて。ケーキ屋さん10時開店だったからさ。」 そう言ってここの近所にあるケーキ屋の箱を渡される。 「ありがとう。別に気にしなくて良いのに。」 「蘭ちゃんのためでもあるけど、私のためでもあるから良いの。こういう時じゃないと堂々とケーキ食べれないもん。」 2つ下の菫は、私と同じ名字、同じ環境で育ったにも関わらず至極真っ当に成長し、もうすぐ2児の母になる。旦那は中学生の時から付き合っていた瑛士(えいじ)くん。彼は私が最高に病んでいた時期も知っている。 「今日、瑛士くんと大河(たいが)は?」 手を洗うために洗面所に向かおうとした菫に尋ねる。 「公園行くって言ってたよ。迎えに来る時には大河寝ちゃってるかもね。」 大河は菫と瑛士くんの子ども。3歳のやんちゃな男の子だ。大河も私が誰なのか認識出来る程顔見知りではあるけれど、菫と一緒にうちに遊びに来たことは殆どない。大河と顔を合わせるのは専らビデオ通話だ。菫のスマートフォンを覗き込み、画面いっぱいに写った大河は可愛い。他の子どもは可愛いと思えないのに。‘らんちゃん’と舌足らずな感じで名前を呼ばれると自然と返事をするこちらの声も高くなる。でも、私は大河に触れられない。目の前に立つ、リアルな大河に向き合うことが出来ない。心のどこかで思うのだ。子どもは汚いんだよ、と。 「ケーキ開けるね。菫、どっち食べる?」 「選べなかったから両方半分こしよ、蘭ちゃん。」 ソファに座った菫は笑う。昔から甘えるのが上手な可愛い妹だった。  顔のよく似た姉妹だと言われて来た。でも実際は菫の方がずっと可愛くて、甘え上手で人懐っこいのに芯のしっかり通った性格は周りに人を集めた。妬みこそしなかったけれど、羨ましいとは何度も思った。両親は私と菫を比較するようなことはなかったし、何より菫が私のことを好きでいてくれていた。菫は私を傷付けないし裏切らない。大事な妹だ。  2つのケーキを半分ずつに切り分け、両方をそれぞれの皿に乗せる。フルーツタルトと、モンブランだった。 「何飲む?コーヒー?」 「お水下さい。」 「水?」 「···体重増加へのせめてもの抵抗。」 口をへの字にして言う菫に、‘ケーキもやめといたら’とはとても言えない。 「そんなに増えてるの?」 グラスに水を入れて、ケーキと一緒にソファの前のテーブルに運ぶ。 「うーん、ギリギリ怒られないくらい。ちょっと気を抜くとすぐ増えちゃうの。」 大きくなったお腹。確か出産予定は年明けだった。  少し間を開けて、菫の座るソファに私も腰を下ろす。最初から私が座る位置を分かっていたかのように、菫は私が座っても横にずれることはない。ちょうど良い距離を保って私の傍にいてくれる。 「ケーキおいしい。甘い物最高。」 自分で買ってきたケーキをおいしそうに食べる菫。今日の私はそれ程甘い物を欲していない。それはたぶん昨夜食べたシュークリームのせい。 「ねぇ、蘭ちゃん。」 モンブランを先に食べ終えた菫が、静かにフォークを置く。つられるように私も持ったばかりだったフォークを皿の上に置いた。 「話が2つあって、」 そう前置きする横顔を見て、あまり良い話ではないのだろうなと予感する。 「1つはね、この前お母さんから連絡があったの。」 一瞬止まった息を、ゆっくりと鼻から吐き出す。 「···そう。」 「特に何かしたいとか、そういう連絡ではなかったんだけど。『蘭ちゃん、元気?』って。」 「···そう。」 「蘭ちゃんとは連絡取れないからって。」 「変えた番号教えてないからね。」  「そっか。」 菫は肯定も否定もしない。どちらにせよ私はきっと上手く返事が出来なかったと思う。 「もう1つは?」 「もう1つはね、」 菫は再びフォークを手に持って、タルトに乗っている苺を刺して口に入れた。 「成(なり)くん、結婚するんだって。」 「そうなんだ。」 2つ目の話は、息を止めることなく私の中にすんなりと入って来た。そうか、結婚するんだ。 「結婚式にね、私達招待されて。で、成くんが蘭ちゃんも来るかなって。」 私の声色に合わせるように、菫の声も1つ目の話より僅かに明るかった。 「私は行かないよ。何年も会ってないし、もう今は何の関係もないんだから。」 「いや、一応親戚だし。」 「···まぁそうだけど。」 成くんは、私の1つ上、菫と瑛士くんの3つ上のお兄さんだ。近所に住む幼馴染のお兄さんだったけれど、今では本当に菫の兄だ。 「瑛士も、蘭ちゃん来てくれたら嬉しいって。」 優しい瑛士くんはきっとそう言ってくれるだろう。 「成くんは、たぶん来て欲しくないんじゃないかな。」 心からそう思う。  菫の旦那の瑛士くんは、成くんの弟。家も歳も近かった私達はよく一緒に遊んでいた。瑛士くんはずっと菫のことが好きで、私はずっと成くんのことが好きだった。  一度だけ経験したセックスの相手は成くんだ。成くんが悪かったわけじゃない。全部私が悪かった。あんなに好きだった成くんと結ばれることが出来たのに、私はそれを汚いと思った。成くんを求めたのは私の方だったのに。成くんはたぶんそれに応えてくれただけだったのに。思い返すだけであの時の嫌悪感が鮮明に蘇る。成くんが汚かったわけじゃない。あの行為が、私の頭の中に流れる映像が、ただただ汚かった。 「成くんは、たぶんそんなこと思ってないよ。」 私から菫に、成くんと何があったのかを詳細には話していない。菫から聞いてくることもなかった。ただ菫の様子を見ていると分かる。たぶん、成くんから聞いて知っているのだろう。私がどんなふうに成くんを拒絶して、どんなふうに傷付けたのかを。 「もう11時半か。そろそろ迎えに来てもらおうかな。」 2つの話を終えた後は、いつもと変わらない楽しい時間だった。菫がうちに長居しないのもいつものことだ。瑛士くんと大河を連れてくることなく、1、2時間程滞在して帰っていく。 「ーーーもしもし、」 瑛士くんに電話を掛け始めた菫をソファに残して、私は食器を持ってキッチンに向かう。 「蘭ちゃん、すぐ来るみたい。下で待ってようかな。」 お腹を支えて立ち上がる菫の顔は幸せそうで。 「蘭ちゃん、どうかした?」 菫が首を傾げる。 「ううん、なんでも。幸せそうで良かったなって思っただけ。」 そう答えると菫はほんの少し、眉尻を下げて笑う。  靴を履いて玄関を出ると、すぐそこに人影があった。 「あ、蘭さん。こんにちは。」 野球のユニホームを着た宮島さんがちょうど玄関の鍵を開けようとしていた。 「···こんにちは。」 「昨日はどうもご馳走様でした。」 所々泥がついたユニホーム。左頬も少し黒くなっていた。 「蘭ちゃん、お待たせ。」 トイレに行っていた菫が遅れて出てくる。菫と宮島さんが同時に驚いた顔をする。2人の視線が私に向き、何を言いたいのかなんとなく伝わって来る。 「あー···宮島さん、この子、妹です。で、こっちがお隣さんで、···‘お友達’の宮島さん。」 お互いにそう紹介すると、2人ともまた何か言いたげな顔をする。それを飲み込むようにして2人が目を合わせる。 「妹の友利(ともり)菫です。姉がいつもお世話になってます。」 「宮島哲です。こちらこそいつも蘭さんにお世話になってます。」 頭を下げ合う2人。 「あ、菫。そろそろ瑛士くんたち着くんじゃない?」 この3人でいる空気に耐えられなくて、私は菫を急かす。 「すみません、宮島さん。また。」 通り過ぎざまに頭を下げて、菫を連れてエレベーターへ急ぐ。エレベーターの扉が閉まった瞬間、菫は‘ふふ’と笑った。 「もしかして付き合ってる?」 「まさか!」 否定すると菫は少し驚いた顔をする。 「なんだ。でも、宮島さんだっけ?あの人、蘭ちゃん平気なんだね。すごい。」 菫の感想は飯田と同じだった。 「···まぁ、うん。体調悪かった時に助けて貰ったことがあって。最初から平気だったの、あの人。」 「そっか、そうなんだ。」 そう呟くように言った菫の横顔は柔らかかった。 「でも、無理だよ。」 何かを期待するような表情の菫に言う。 「うん、分かってる。分かってるよ、蘭ちゃん。」 小さな子どもを宥めるような優しい口調で菫は言う。  エレベーターの扉が開く。先に降りた菫の後ろ姿を追う。今の菫は、私が昔夢見た‘未来の私’だ。大好きな人と結婚し、子どもを産む。子どもにたくさんの愛情をそそぎ、幸せな家庭を築く。当然のように私もそうなれると思っていた。今の私には無理だということは私が1番よく分かっている。 「マーマー!」 エントランスを出ると、離れた所から小さな男の子が走ってくる。大河だ。そのすぐ後ろを小走りでついてくるのが瑛士くん。 「たいがー!」 菫が手を振る。それを見て、走りながら大河が手を振り返す。 「菫は、すごいね。」 ポツリとそう口にすると、菫が首を傾げてこっちを見た。 「立派にお母さんやってて、本当にすごい。」 菫が笑う。 「うん、私すごいよ。がんばってる。‘お母さん’やるのって、思ってたよりめちゃくちゃしんどい。」 言葉とは裏腹に菫の表情は穏やかだった。 「蘭ちゃんもすごいよ。がんばってる。毎日仕事して、自分の力で生活してる。かっこいいよ。蘭ちゃんは、すごい。」 菫の視線は走ってくる大河に真っ直ぐに向いている。その横顔は、どこか凛々しくて、でもとても優しい。1人で生きていくことを選んだのに、時々無性に寂しくなるのは勝手だなと自分で思う。でも私は、最初から1人が良かったわけじゃない。本当は菫みたいになりたかった。人と正しく関わり、正しく交わっていける、そんな力が欲しかった。 「ママ、らんちゃん」 目の前にやって来た大河は、肩で息をしながらにこにこ笑っている。 「公園、楽しかった?」 そう尋ねる菫に向かって大河は大きく頷く。 「あのね、これ見て。」 大河はズボンのポケットに手を入れて、ゴソゴソと探るように動かす。やがて出て来た小さな手の平には、赤と黄色の落ち葉が1枚ずつ乗っていた。 「おっきい木の下にあったの。」 「そっか、綺麗だね。」 「うん!」 頷く大河の頭に、菫はそっと手を乗せる。 「ママは黄色あげる。」 黄色の落ち葉を受け取った菫は大河の頭を優しく撫でる。 「らんちゃんには赤いのあげる。」 差し出された赤い落ち葉。 「あ、大河、蘭ちゃんは···」 黄色の落ち葉を持った菫が慌てたように口を開く。私は、一瞬躊躇ってしまった手を、ゆっくり大河に向けて伸ばす。 「ありがとう、大河。」 ほんの少し、指先が震える。手の平に乗せられた落ち葉は、真っ赤だった。とても鮮やかで、とても綺麗だった。本当は、ほんの少しだって躊躇うことなく、真っ直ぐに手を伸ばせたらどんなに良いだろうと思う。 「···蘭ちゃん」 隣で菫が心配そうに私を呼ぶ。 「ありがとう、大河。」 もう一度そう言うと、大河は照れたように笑った。落ち葉を貰ったことが嬉しかったわけじゃない。大河の気持ちが嬉しかっただけだった。ママと同じように、綺麗だと思った物を私にも分けてくれようとする大河の気持ちが嬉しかった。それを、‘汚い’と踏みにじるような人間ではいたくない。ポケットに入っていたせいか、少しくしゃくしゃになっていた落ち葉が風に飛ばされてしまわないように軽く握る。 「蘭ちゃん、また大河と一緒に電話するね。」 隣で菫が言う。少し離れた所で、優しい顔をした瑛士くんが何も言わずに浅く頭を下げた。  3人が乗った車を見送って、大河に貰った落ち葉を持ったまま部屋へ向かう。誰とも会うことなくエレベーターが3階に到着した。通路の先に、さっき会った姿のままの宮島さんが見えた。 「あ、蘭さん。」 私に気付いた宮島さんは初めて会った時のように爽やかに笑って右手を軽く挙げた。 「どうしたんですか?」 さっきここで会ったのはもう10分以上前だった。 「すみません。待ち伏せ気持ち悪いとは思ったんですけど、どうしても言いたくて。」 そう言った宮島さんは一度目を伏せて、再び真っ直ぐ私を見た。 「さっき、‘友達’って言ってくれてありがとう。」 何も言えずにいると宮島さんは続ける。 「それだけっす。蘭さんがそう言ってくれたの、何か嬉しかったんで。じゃあ、すみません。こんな汚い格好のままで。」 そう言って宮島さんは部屋へ戻ろうとドアノブに手を掛けた。 「宮島さん、」 咄嗟に、ドアの向こうへ消えていきそうだった宮島さんを呼び止めた。 「私こそ、ありがとう。」 何に対するお礼なのか自分でもはっきりしない。でも嬉しかった。くすぐったくて、温かくて、この名前の分からない気持ちの片鱗だけでも宮島さんに伝えたかった。 「来週、またベランダ誘っても良いですか?」 少し、真面目な顔で宮島さんは言う。 「はい。」 つられるように私も返事をした。
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