その手で触れて

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 ある日突然、同じクラスの男の子が言った。 ーーー蘭の名字って、‘きたねぇ’って書くの? 笑う男の子達。やめなよ、そんなわけないでしょ、そう言いながらもどこか可笑しそうな女の子達。私はただ恥ずかしくて、俯いたまま何も言い返すことが出来なかった。  地べたに座ったあとズボンやスカートに土がついているのを見て、‘きたねぇ’と笑われた。どうしても体操座りをしないといけない時以外、地べたに座ることが出来なくなった。皆だって、お尻にたくさん土をつけていたのに。  給食を少しでもこぼすと、‘きたねぇ’と笑われた。シミが目立つような白い服は着られなくなって、人前で食事をするのが怖くなった。皆だって、服や机に給食をこぼしていたのに。  風邪を引いて学校を休んだ後、‘ちゃんと手洗ってなくてきたねぇから風邪引くんだ’と笑われた。汚れが取れているのか分からなくて、何度も何度も手を洗った。皆だって、風邪を引いて学校を休むこともあったのに。  皆だって同じように汚れているのに。そう思っているのに、そう分かっているのに、学校に行くのが怖くなった。でも、それを口にする方がもっと怖かった。同じ名字を持つ家族が知ったら傷付いてしまうんじゃないかと思った。  私の異変に気付いたのは同じ小学校に通っていた菫だった。ある日突然教室にやって来て、私を汚いと笑った男の子を蹴り飛ばした。学年が2つ違う、自分より大きな男の子を、菫は相手が泣くまで蹴った。先生に止められた菫は、泣いて蹲る男の子に向かって大声で言った。 ーーー蘭ちゃんに謝れ! ーーー蘭ちゃんはどこも汚くなんかない! それからは誰も、私を汚いと笑うことはなくなった。  でも、‘私は汚い’そうすりこまれた心は簡単には元に戻れなかった。綺麗でいなくちゃ。綺麗でいないと、またあの頃に戻っちゃう。汚れているから綺麗にしなくちゃ。外に出た後は手も体も全部洗わなくちゃ。何がついているか分からない。外は汚い。外にいる人は汚い。触っちゃダメ。汚れちゃう。私が、また汚くなっちゃう。  帰宅してすぐ、執拗に体を洗う私に、家族は誰も何も言わなかったし、止めもしなかった。‘大げさだよ’とか‘そんなに汚くないよ’とか、そんな気休めの言葉を向けられることもなかった。菫は私と同じように、帰宅後すぐにお風呂に入ってくれるようになった。お父さんとお母さんもそうしてくれるようになった。  本当は、私の異変に最初に気付いていたのはお母さんだった。菫は、お母さんに頼まれて教室に私の様子を見に行ったりクラスの子に話を聞いたりしていたらしい。 ーーーだって蘭、あんなに似合ってた白やピンクの服を一切着なくなったでしょう。 そう言った時のお母さんの顔は、笑っているのにどこか悲しそうだった。  外の世界と関わりながら、懸命に過ごした。潔癖だということを、本当は友達のことも汚いと思っていることを、気付かれないように必死に隠した。  菫とお母さんとお父さん、好きだった成くん、汚いと思わずに一緒にいられたのはごく一部の人だけ。でもそれだけいれば十分だった。決して私を傷付けることのない人達がいる。その信頼が、あの時の私を生かしていたと思う。だから、それが壊れてしまった時の立ち直り方を私は知らなかった。 「北根さん。」 会社の最寄り駅に着いた時、聞き覚えのある声に呼び止められた。外はもう暗い。 「···佐橋さん。」 この前非常階段で聞いた噂話によれば、彼女がいるとか。しかも社内に。そんな噂を立てられていることをこの人は知ってか知らずか、会社の誰が近くにいるかも分からないこんな場所で声を掛けてくる。やめて欲しい、本当に。 「この前話してた店なんだけどさ、今週の金曜日どうかな?」 随分前から食事に誘われていた。頑なに連絡先も交換せず、出来るだけ社内でも顔を合わせないようにしていた。フロアの違うこの人のことは正直どんな人なのかよく分からない。私より少し年上で、人当たりは良さそうだけれど軽薄さが隠しきれていない。スタイリング剤なのだろうけれど、ツヤツヤを通り越してテカテカベトベトしているように見える。あのベタついた髪には、きっと遠目からでは分からない様々な物が付着しているのだろうなと思うと、どうしてもこれ以上近づけない。宮島さんのような、清潔感のある短髪なら平気なのに。  ここ最近、こんなふうにふと宮島さんが頭に浮かぶ。苦手な人を前にした時、この人と宮島さんは何が違うのだろうと考える。その度に思う。清潔感も、声も、私に向ける言葉も、全てが違う、と。でもその後で泥だらけのユニホームを着た宮島さんの姿が浮かぶ。今までの私だったら、あんな格好をした人に近付こうとは思わなかった。服についた泥や汗が気になって、心穏やかに会話なんて出来なかった。けれど、宮島さんは違った。あの日の宮島さんとも普通に向き合って話が出来た。汚いとか、気持ち悪いとは思わなかった。 「···ごめんなさい、予定があって。」 出来る限り距離を取りつつ答えると、佐橋さんは不満そうにその距離を詰めてくる。改札に吸い込まれていく人波から外れるようにして、券売機の方へ徐々に追い詰められていく。 「休日の方が都合良ければ土日でも。本当に美味しい店なんだ。」 笑っているその顔を見るのも嫌になって来た。うまく断われない自分も嫌だ。この人に嫌われたって何の問題もないはずなのに。この人に良い顔をする理由なんて1つもないはずなのに。はっきりと拒絶出来ないまま、のらりくらりと逃げ回る。気付いたら変な噂を立てられて、どんどん居辛くなっていく。この人が嫌い。でも、同じくらい自分も嫌い。 「ごめんなさい、休日もちょっと···」 うまい嘘が出て来ない。 「じゃあさ、そろそろ連絡先交換してよ。」 そう言ってポケットからスマートフォンを取り出す。 「ごめんなさい、急ぐので」 慌ててその場から逃げようとした瞬間、腕を掴まれた。掴まれた部分から広がるように体中に鳥肌が立つ。 「北根さん、俺本気なんだけど。」 服の上からでも感じる不快な体温。本気だろうと浮気だろうと私には関係ない。離して。離して。離して。気持ち悪い。嫌だ。離してーーー 「蘭さん?」 真っ黒になりかけた心が、ほんの少し軽くなる。振り向くと、スーツ姿の宮島さんが立っていた。 「あ、やっぱり蘭さんだ。今帰りですか?」 私の腕を掴む佐橋さんの姿が見えていないかのように宮島さんは私だけに話し掛ける。右腕の不快感は消えないけれど、宮島さんの顔を見て、宮島さんの声を聞いたら、とても安心した。それと同時に何故か溢れそうになった涙を必死に堪える。 「···宮島、さん」 呟くように名前を呼ぶと、私の腕を掴む手の力がほんの少し弱くなった。 「北根さん、知り合い?」 後ろから聞こえる声に返事をしようとした時、宮島さんが近付いて来て、私を掴んでいた佐橋さんの手を握って引き剥がした。そして、これで良いんだよね?と確認するような視線を私に向ける。頷くと、一瞬宮島さんが柔らかく笑った気がした。 「すみません、失礼します。」 有無を言わさない物言いで、宮島さんは私を連れて佐橋さんから離れる。宮島さんが、私の腕を掴むことはない。後ろで佐橋さんが何か言っているような気がしたけれど、人混みの中ではうまく聞こえない。  人の流れの中を進み電車に乗り込むと、隣に立つ宮島さんがこっちを見ていた。 「蘭さん、マスク良いんですか?」 そう聞かれて初めてマスクをつけ忘れていることに気が付いた。慌ててバッグの中から新品のマスクを出して顔につける。 「···あの、ありがとうございました。」 「いえ。こんな所で蘭さんに会えて俺はラッキーでした。」 そう言って笑う。掴まれた右腕の不快感を洗い流してくれるようだった。人で溢れた電車の中なのに、今はいつもより息が苦しくない。  外したマスクは空のビニール袋に入れてバッグにしまう。駅を出て、宮島さんと並んで歩く。マンションから離れた場所で会うのは不思議な感覚だった。 「会社も近かったんですね。」 「そうですね、びっくりしました。もしかしたら今までも同じ電車に乗ってたことあるかもしれないですね。」 会話が進んでも、宮島さんはさっきのことに触れようとはしない。 「···あの、」 少し大きな声が出た。 「さっきのこと、聞かないんですか?」 宮島さんは目を丸くする。 「聞かれたくないかと思ったんですけど、違いました?」 そう言われて、私は何も言えずに俯く。 「何か他の楽しい話をしましょう。」 顔を上げた私に、宮島さんは優しく笑う。この人が笑うたび、心の中の黒いものが流れ出ていく気がする。 「そういえばこの前、汚い格好ですみませんでした。」 「いえ、全然大丈夫です。野球、するんですか?」 「草野球チームに入ってるんです。一応小中高とずっと野球やってたんで、社会人になってからまたやりたいなと思って。」 「野球、好きなんですね。」 「まぁずっと弱小チームで、俺自身もそんなうまくなかったんですけどね。」 そう話す横顔は楽しそうだった。 「蘭さんは何か部活とかやってました?」 「部活は何も。ピアノは幼稚園の頃からやってたんですけど、一人暮らし始めてからはもう何年も触ってないですね。」 「蘭さん、ピアノ似合いそうですね。合唱コンクールとか、伴奏係だったんですか?」 私は首を横に振る。 「そういうのやりたくなくて。弾けることすら黙ってました。」 宮島さんは笑う。 「妹はよく伴奏やってました。」 「あぁ、妹さん。この前顔見てびっくりしました。蘭さんとそっくりですよね。」 「同じ系統ってだけですよ。妹の方が昔からずっと可愛かったんです。」 「そうですか?俺は蘭さんの顔の方が好きですけど···ってこれはこれで妹さんに失礼か。」 返事に困る私に気付く様子もなく、宮島さんは何とも思っていないかのように笑っている。 「宮島さんは、兄弟いるんですか?」 「弟が1人いますよ。6つ下で、まだ大学生なんですよ。」 「歳、離れてるんですね。」 「蘭さんの妹さんはいくつ下なんですか?」 「2つです。」 「この前見た感じ、すごく仲良さそうでしたよね。」 「たぶん、1番の理解者です。あの子がいなかったら今の私はないんだろうなってくらい、本当に大事な妹です。」 そう言って宮島さんの方を見ると、とても優しい顔でこっちを見ていた。恥ずかしくなって顔をそらすと、宮島さんが小さく声を出して笑った。  マンションまでの道はあっという間だった。並んで歩くことも、途切れない会話も、全く苦痛に思わなかった。エントランスを抜けてエレベーターを待っている時、宮島さんが何か思い出したように、「あ、」と声を出した。  乗り込んだエレベーター内で‘3階’のボタンを押してから宮島さんは私の方を見た。 「週末の天気予報見ました?」 首を横に振ると宮島さんはポケットからスマートフォンを取り出して何か操作を始める。エレベーターが3階に到着して通路に出た時、操作を終えたスマートフォンの画面を私に向けて差し出した。 「見て下さい。金曜の午後から週末ずっと雨みたいなんです。」 週間天気予報の週末欄は、見事に開いた傘のマークが並んでいた。今週末は洗濯物が乾かない。出来れば布団も干したかったのに。 「洗濯物、乾きませんね。宮島さん、野球の予定でしたか?」 そう言うと宮島さんは立ち止まってスマートフォンを持つ手を下ろす。つられて立ち止まると、宮島さんは苦笑する。 「野球は今週末はないし、洗濯物もまぁ乾かないと困りますけど。」 ポケットにスマートフォンを入れて再び歩き出す。 「俺が気にしてたのは、雨だとベランダ出れないなってことです。」 私の方を見ずに、俯いたままそう言った。普段より少し小さな声で。 ーーー来週、またベランダ誘っても良いんですか? 土曜日の光景が鮮明に浮かぶ。 「あ、いや、あの、覚えてましたよ。」 「本当ですか?」 宮島さんは苦笑したまま言う。 「···なんていうか、その、本当に実現するとは思ってなくて。」 「社交辞令だと思ったってことですか?」 宮島さんの部屋の前に着く。2人並んで立ち止まり、私はただ頷く。 「俺も大人なんで、まぁ社交辞令使う時もありますけど」 宮島さんの声が少し大きくなる。 「蘭さんに言ったことで、社交辞令とか嘘はたぶん1個もないです。」 はっきりとそう言う顔は、真剣だった。 「···はい。なんか、ごめんなさい。」 圧倒された、というかその真っ直ぐさに戸惑って謝ることしか出来ない。すると真剣だった表情を崩して宮島さんが笑う。 「だから、蘭さんも俺には社交辞令とかいらないです。無理なこととか嫌なことははっきり断って下さい。」 この前、ベランダに誘われた時に私がした肯定の返事は社交辞令なんかじゃなかった。でも今恐らく宮島さんは、そうは思っていない。 「···天気のことは全然考えてなくて。でも、‘週末っていつかな’とか、‘どんなタイミングでベランダ出たら良いのかな’とかは、本当にちゃんと考えてたんです。···こんなふうに偶然会えないと聞けないし、社交辞令だったのかなとも思って。」 ごにょごにょと、言い訳のように並べる言葉を宮島さんは黙って聞いていた。 「さっき、駅で一緒にいた人からは何度も食事に誘われてて。でも行きたくなくて。うまく、断れなくて。」 佐橋さんからの好意は、不快としか思えなかった。 「宮島さんと会うこと、嫌だとか面倒とか本当に思ってないんです。」 宮島さんからの好意は、まだ戸惑うこともある。この人が、私に何を望んでいるのか分からないし、恐らく私はこの人が望むようには出来ないのだと思う。 「···信じて貰えますか?」 他人に対するこの感情が、私にとってどれ程特別なことなのかどうやったら伝わるのだろう。 「分かりました、信じます。」 穏やかな声。 「雨、降らないと良いな。」 宮島さんの顔はさっきまでより明るい気がした。一応、伝わったのだろうか。少なくとも、宮島さんと佐橋さんに対する気持ちが全然違うということくらいは。 「···あの、宮島さん」 バッグを持つ手に力が入る。とても緊張していた。手の平がしっとりと濡れている。 「連絡先、交換してもらえませんか?」 ほんの少し、声が震えた。でも出来るだけ真っ直ぐ、目をそらさないように宮島さんの顔を見た。丸くなった目をこちらに向けるだけで、宮島さんは何も言わない。駄目だったのだろうか。さすがに図々し過ぎたのかもしれない。どうしよう、言わなければ良かった。湧き上がる後悔が、手の平をより一層湿らせていく。 「あの、」 「良いんですか?」 やっぱいいです、そう言おうとした瞬間、宮島さんは少し大きな声でそう言った。私は黙って頷く。宮島さんはさっきしまったばかりのスマートフォンをすぐにポケットから取り出した。 「連絡先、教えて下さい。」 嬉しそうに笑う顔。私が連絡先を交換しようと言ったことを、たぶん嬉しいと思ってくれている。それが嬉しかった。佐橋さんとの間には1ミリも生まれなかった感情が、今私の心の中をいっぱいにしてぐるぐると巡る。  連絡先を交換し終えて、お互いスマートフォンをしまい鍵を出す。 「じゃあ蘭さん、おやすみなさい。」 そう言って鍵を持った右手を軽く挙げる。 「おやすみなさい、宮島さん。」 お辞儀をして、顔を上げると目が合った。 「週末、連絡しますね。」 「はい。」 もう1度お辞儀をし合って、部屋の中に入った。
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