その手で触れて

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「うわ、雨降ってきたね。」 隣で飯田が窓の方を見ながら呟く。天気予報通り、昼休憩が始まる頃から暗くなり始めた空は今大粒の雨を降らせている。  連絡先を交換してから2日。宮島さんから連絡が来ることはなく、私からも連絡していない。‘週末’というのが今日なのか明日なのか明後日なのか分からないまま、先週一緒にシュークリームを食べたのと同じ金曜日を迎えた。宮島さんの言う‘週末’が今日だったとしても、この天気ではベランダで会うことは出来ない。···そんなことを考えながら気付く。甘い物を一緒に食べることではなく、宮島さんに会うことが目的になっていることに。恥ずかしくなって俯くと、飯田がこっちに視線を向けた。 「どうかした?」 「···どうもしてない、大丈夫。」 顔を上げて誤魔化すように水筒のお茶を飲んだ。 「そういえばさ、昨日下のフロア行った時聞いたんだけど。北根ちゃん、彼氏出来たの?」 今日の天気について話すような調子で飯田が尋ねる。驚いた私は飲んでいたお茶にむせて、何も言えずに飯田を見る。 「駅で、2人でいるの見たって。」 噂を流したのは佐橋さんだろうと直感する。 「···たぶん、宮島さん。」 「宮島って、仏くん?」 頷くと飯田は、‘ふーん’と興味なさげに頷く。 「佐橋さんに絡まれてる時に偶然会って助けて貰っただけ。」 そう、それだけ。私と宮島さんはただの隣人。最近少し親しくなっただけの友達。 「あぁ、佐橋さん。だから下のフロアで噂流れてるのか。」 飯田も噂の出どころを察したらしい。  昼休憩が終わって午後の仕事が始まっても、降り出した雨は勢いを増すばかりだった。6時過ぎには会社を出た。駅に向かう道中で足元はすっかりびしょ濡れになり、皆が濡れた傘を持つ湿気った車内は普段とは違う空気の悪さがあった。  電車を降りると、1度濡れた足元がとても寒く感じた。傘をさして駅を出る。止む気配のない雨の中を急いで帰ろうとしたけれど、私の足はいつものコンビニの前で止まった。さしたばかりの傘を閉じ、店内に足を踏み入れる。  雨で冷えた体は、お風呂に浸かると徐々に熱を取り戻してきた。電車通勤にも多少慣れて来たけれど、こういう日は普段以上に車が恋しくなる。これからどんどん寒くなる。昔よりマシになったとはいえ、冬は余計に目に見えないものが気になる。咳をしている人、明らかに風邪を引いていそうな人には近付けない。別に風邪をひいたって数日で治ることくらい分かっているけれど、風邪をひくことそのものが未だに怖い。執拗に手洗いを繰り返す自分に嫌気がさしているのに、一向にやめられない。わかっているのに。汚いから風邪をひくわけじゃないって。風邪をひいたからって、汚いわけじゃないって。  風呂を出て洗面所で髪を乾かす。化粧を落とした自分の顔はあまり好きではない。よく似ていると言われる菫の顔とはやっぱり違う。クラスや学年で1番可愛いと言われて来た菫と違って、私は可愛い女子の中に名前が入れば良い方だった。男の人がよく話し掛けてくるようになったのは、大学に入り化粧をし始めてからだ。綺麗にしていれば人が寄ってきた。汚いなんて誰も言わなかった。だから思った。‘きたねぇ’と言われ続けたあの頃の私は、本当に汚かったんじゃないかって。今だって、化粧をやめて外に出ればまた昔みたいに戻ってしまうんじゃないかって。そう思ったら、化粧なしで人に会うのが怖くなった。  男の人に好きだと言われる度に、相手を汚い、気持ち悪いと拒絶する私は酷い人間だと思う。でも、相手も恐らく‘化粧をした私’を好きだと言っているだけで、素顔のまま潔癖症を晒したら絶対に逃げていくはずだ。だから信じられない。受け入れられない。‘化粧をした私の顔’は、私の汚さを隠す鎧だった。  リビングに戻り、カーテンの隙間から真っ暗になった外を覗く。雨が止んでいた。予報ではこのまま日曜日まで降り続くはずだったのに。暗闇の中で分厚い雲が途切れて、時々ぼんやりと霞んだ月が見える。大きく欠けた月。テーブルの上に置いたスマートフォンには何の通知も来ていない。宮島さんからの連絡もない。こんな天気なのだから仕方ない。さっきまでのあの雨の中、ベランダに出ようだなんて私も思っていなかった。  冷蔵庫から、さっきコンビニで買って来たシュークリームを出す。雨だと分かっていたのに2つ買ってしまった。入っていた袋ごと持って、窓に近付く。もう1度雨が降っていないことを確認して窓を開けた。  外は随分寒かった。壁に立て掛けてあったベランダ用のサンダルに足を入れると、靴下越しでもその冷たさが分かった。換気のために窓を開けて網戸にしたまま、先週宮島さんと話した位置まで進む。その辺りは降り込んだ雨で足元が濡れていた。別に今日は、特別甘い物が食べたかったわけじゃない。どちらかと言えば温かい鍋なんかを食べたい気分だった。それなのに、1人でこんな寒い中濡れたベランダにシュークリームを持って出て来た。馬鹿だなと思う。本当に。  口の中に広がる甘いシュークリームを、今日はそれ程おいしく感じない。それはそうだろう。だって今日は鍋が食べたかったんだから。それ以外に理由はない。ない、と思いたかった。  1つシュークリームを食べ終えて、2つ目の封は切れなかった。お腹は空いているはずなのに、もう食べられない。分厚い雲が流れて、欠けた月を隠す。また雨が降り出すかもしれない。持ったままだった1つ目のシュークリームの空の袋をグシャグシャに丸める。家の中に戻ろうと体の向きを変えた時、隣から窓が開く音がした。  驚いて動きを止めた。ベランダに出ようとしているわけではないのかもしれない。ただ窓を開けただけ。期待して、連絡もなしにベランダにいたと思われるのは恥ずかしい。気付かないで。そう念じて目をギュッと閉じる。 「···もしかして、蘭さんいますか?」 隣のベランダから声が聞こえた。ベランダを歩くサンダルの音が聞こえる。この場所なら、相当覗き込まない限りいることはバレない。会えるかもしれないと思ってベランダに出たはずなのに、急に恥ずかしさが勝って動けなくなった。なのに、手の中に丸め込んだシュークリームの袋がカサリと音を立てた。慌てて手に力を込めるとさらに大きな音がした。 「蘭さん?」 もう隠れきることは出来ない。 「···はい。」 観念して返事をすると、隣のベランダから足音が聞こえた。私もさっきまで立っていた場所へ重い足を動かす。 「こんばんは。」 普段通りの爽やかな笑顔を向けられる。帰って来たばかりなのか、スーツ姿のままだった。 「···こんばんは。今、おかえりですか?」 「はい。ちょっと今日は遅くなっちゃって。」 「そうですか、お疲れさまです。」 空のシュークリームの袋も、もう1つ残っているシュークリームの袋も宮島さんから見えないように後ろに隠す。 「ありがとうございます。蘭さんもお疲れさまでした。」 そう言う宮島さんの息が少し荒い気がした。 「走って帰って来たんですか?」 そう尋ねると宮島さんは何故か嬉しそうに笑う。よく分からずに首を傾げると、宮島さんはベランダの下に見える駐車場を指差した。 「あそこを歩いていたら、蘭さんが見えたので。」 そう言われた瞬間、私は言葉を失い恥ずかしさでみるみる顔が熱くなっていった。バレていた。今さら隠れたって何の意味もなかった。むしろさっき隠れてしまった行動が、意味が分からない上に失礼過ぎる。何も言えずにいると宮島さんは笑った。 「今週末はもう無理だと思ってたんで。蘭さんがいるの見えたら嬉しくて走っちゃいました。なので、すみません。今日は俺手ぶらです。」 そう言って両手の平を私に向かって広げて見せる。 「全然、大丈夫です。今日約束してなかったですし。私も別に、」 ‘宮島さんを待っていたわけではありません’そう言おうとしたけれど、それはあまりにも嘘くさいと自分でも思う。 「···あの、これ。良かったらどうぞ。」 後ろに隠していたもう1つのシュークリームを隣のベランダに向かって差し出す。顔は上げられなかった。 「良いんですか?」 「···はい。」 それ以上何も言えないけれど、今日のシュークリームは全部自分で食べようと思って買って来たわけじゃない。 「ありがとうございます。」 宮島さんもそうお礼を言うだけだったけれど、気付いていないわけがないと思う。私は手からシュークリームが離れていっても、顔は上げられなかった。 「あ、」 ガサガサと袋を触る音とともに宮島さんが短い声を出す。その瞬間、額に冷たいものが落ちてきた。 「雨、また降ってきちゃいましたね。」 宮島さんの言葉に顔を上げる。一瞬のうちに雨は強くなり、服にシミを作っていく。 「中、入りましょうか。」 「···そうですね。」 束の間だった。元々ずっと雨の予報だったのだ。一瞬でも止んだ。それだけで奇跡みたいなものだったのに。何故だが無性に名残惜しかった。 「蘭さん、濡れちゃうから早く入って下さい。」 そう急かされた時、今日初めて宮島さんと目が合った。何も言えなくて、下唇を柔く噛む。宮島さんが雨に濡れている。もう、ベランダにはいられない。 「宮島さんも。···じゃあ、おやすみなさい。」 頭を下げて再び上げた時、もう1度目が合う。その視線から逃げるようにして、部屋の中に入った。靴下も部屋着も濡れていた。  着替えるために洗面所に向かう。服を脱ごうとした時、鏡に映った自分と目が合った。お風呂に入った後なのに、しっかりと化粧を施した顔。滑稽で、笑えた。  本当は、ただ会いたいと思っていた。連絡が来るのをずっと待っていたし、一瞬の曇り空の下で宮島さんが出て来てくれることを期待していた。でもそんな思いも願望も、何一つ認めたくなかった。だって私は潔癖症で、上手に生きられない。こんな面倒くささを抱えたまま、誰かの隣にいようだなんておこがましい。どうしたってうまくいくはずがない。  宮島さんのことを考えている時の感覚は、昔成くんのことを考えていた時によく似ている。どうして成くんだけは大丈夫なのだろう、そんなことを何度も考えた。最近もそうだ。こんなに生き辛い世界の中で、宮島さんは光のようだった。その光に近付いてみたいと、私は確かに思っている。でもそれ以上に怖い。怖くて仕方がない。だって、結局成くんともうまくいかなかったのだから。  リビングのテーブルに置いてあるスマートフォンが振動している。電話だった。慌てて洗面所を出てスマートフォンを手に取る。画面には‘宮島哲’と表示されていた。 「···もしもし。」 『もしもし、宮島です。さっきは、どうもありがとうございました。』 耳元で響く宮島さんの声は、いつもよりずっと優しく聞こえた。 「···いえ、こちらこそ。雨濡れちゃいましたよね。すみません。」 『大丈夫です。蘭さんこそ、お風呂上がりに冷えたんじゃないですか?』 「いえ、私は大丈夫です。」 『シュークリーム、またご馳走様でした。次こそは俺が用意するんで。』 「いえ、そんなお構いなく。···先週と全く同じ物ですみません。」 『蘭さん、用意してくれてたんですよね?』 ほんの少し、さっきまでより固くなった声色。 「···あ、いえ、あの」 肯定も否定も出来ずに、結局続けられる言葉が見つからずに黙ってしまう。沈黙が流れる。電話越しでは、宮島さんがどんな表情でいるのか分からない。 『···蘭さん、駅で会った人とはあれから大丈夫ですか?』 長い沈黙を破り、真剣な声で宮島さんはそう尋ねた。 「あ、はい。今の所は何も。」 宮島さんと恋人同士、そんな噂を流されていることは言えない。 『そうですか、なら良かったです。』 声が和らぐ。 『蘭さん、困ったことがあったらいつでも言って下さいね。』 優しい声が耳の中に直接入ってくる。心地良かった。とても。 「···はい。」 今、私はどんな顔をしているのだろう。宮島さんに近付きたい気持ちと、そんなの無理だと思う気持ち。後者の方が圧倒的に大きいはずなのに、感情がそれに付随しない。会えたら嬉しいと思ってしまう。電話が来たら嬉しいと思ってしまう。私のことを心配してくれる優しい声が、心地良くてたまらない。  一昨日駅で会ってしまってから、朝も帰りも普段より周りを気にしてしまう。同じ道、同じ駅、同じ電車、そこにその姿がないか探してしまう。でもその先に、私は一体何を望んでいるのか分からない。 『じゃあ、また連絡しますね。···あ、電話迷惑じゃなかったですか?今さらですけど。』 「迷惑なわけないです。」 宮島さんから見えるはずもないのに、何度も首を横に振った。 『良かった。じゃあ今日はこれで、おやすみなさい、蘭さん。』 宮島さんが柔らかく笑ったような気がした。 「はい、おやすみなさい。宮島さん。」 電話を切ったスマートフォンを両手で握りしめる。苦しかった。とても、苦しかった。
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