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成くんを好きになったのは、潔癖症になるよりもっとずっと前のこと。
初めて会ったのは幼稚園の時。家が近所で、幼稚園の送迎バスが同じで、母親同士の仲も良かった。小さな菫の前でお姉ちゃんとして振る舞ってきた私にとって、初めての年上で頼れる存在だったのが成くんだった。成くんの前では、素直に甘えられた。成くんは時々面倒くさそうに私を扱ったけれど、結局いつも優しくて私は成くんの後ろを追いかけてばかりだった。
男の子として好きになったのがいつなのかは明確には覚えていない。でも私は出会った頃からずっと成くんが好きで、ずっと特別だった。
私がクラスの男子にからかわれていたことを、恐らく成くんは知らない。とても大きな小学校だった。校内で成くんと会うことはほぼなかったし、私も成くんが学校でどんなふうに過ごしていたのかを知らない。菫が気付いて助けてくれた時も、親にも成くんにも言わないで欲しいと頼み込んだ。お母さんが菫より先に気付いていたということは後から知ったのだけれど。
潔癖症になってしまってからも、私はそれを必死に隠して生きていた。知っていたのは家族だけ。家の中は平気だった。お父さんもお母さんも菫も、外から帰って来たばかりの姿じゃなければ普通に接して普通に触れることが出来た。
あの頃から私が怖かったものは、家族以外の人、人が触ったもの、人がいた場所。とにかく、他人が怖かった。家の庭でなら、土の上に座ることも怖くなかった。今だって、自分の部屋のベランダなら怖くない。雨の跡や、明らかな汚れもあるけれど、ここには私以外の人が入ることがない。他人の痕跡がない。どんなに綺麗にされていようと、そこに他人の痕跡があれば駄目なのだ。ベランダに出ただけなら、もう1度お風呂に入ろうとは思わない。でも玄関から外に出るとそこはもう他人の痕跡だらけ。外は怖い。どれだけ汚れているか分からない。何がついているのか分からない。汚れたくなかった。もう、誰からも‘汚い’と思われたくなかった。
成くんも、私が潔癖症になってしまったことには気付いていなかったのだと思う。汚い、気持ち悪いと思う気持ちを出来る限り押し込めて過ごしていた。人が見ていない所で何度も何度も手を洗い、なるべく誰とも体を接触させずにいられるように常に気をつけていた。
それに、成くんのことは汚いとも気持ち悪いとも思わなかった。そう思えたのは家族以外で、あの時は成くんだけだった。やっぱり成くんは特別なのだと再認識し、成くんへの思いを強めた。小さな頃より少し無口になった成くんは、時々面倒くさそうにしながらも私と一緒にいてくれた。手が触れてしまっても、腕がぶつかってしまっても、成くんなら大丈夫だった。こんな汚い世界の中で成くんは特別だった。成くんとなら、いつか結婚して素敵なお母さんなりたいという私の夢を叶えられるかもしれないと思った。そんな夢を見ながら、私は手や体を洗い続ける。汚い世界の中で、普通に生きていくために。
成くんが中学を卒業したら、もうあまり会えなくなることは分かっていた。成くんが進学する高校は、私が受験するつもりだった高校とは違っていた。電車に乗って少し遠くまで通学することになる成くん。電車が怖かった私は、自転車で通える距離の高校にしか行けない。
卒業式の後、成くんから「付き合おうか」と言われた。嬉しくて舞い上がった。成くんと一緒にいる時は、普通の女の子でいられる気がした。そう、思おうとしていた。
しばらくして、手を洗ってもお風呂に入っても、汚れが取れていない気がする日が時々出て来た。幼稚園の時からずっと通っていたピアノ教室に行くのが怖くなった。同じ教室に通ういろいろな子や先生が触れた鍵盤がとてつもなく汚く感じるようになった。それまで家の外で我慢出来ていたことが、だんだん苦しくなって我慢出来なくなった。それでも我慢すればする程、帰宅してから苦しくなって、胃やお腹が痛くなったり、蕁麻疹が出たりする日もあった。でも私は普通でいたかった。成くんと結婚してお母さんになる夢を叶えるためには、普通でいなければならない。成くんの前では、普通の女の子でいなければならなかった。
ーーー汚い手で俺に触るな
ーーー蘭、好きだよ
ーーー蘭ちゃん、お母さんはね
ーーー嫌だ、こんなの汚い
飛び起きるようにして開けた目からは涙が出ていた。まるで警告のような夢。忘れられるわけもないのに、私の心の奥底から誰かが叫ぶ。絶対に忘れちゃいけないよ、と。
12月も中旬に差し掛かり、毎日寒い日が続いていた。残業を終えて帰宅する7時過ぎ、駅は人で溢れていた。
外とはガラリと空気が変わる、暖房の効いた電車が嫌いだった。息苦しいのはマスクのせいではない。ドアに押し付けられるように立つ私は、ただその場で浅い呼吸を繰り返す。
ようやく辿り着いた家の最寄り駅。人波に流されるように改札を出ると、後ろから走ってくるような足音が聞こえた。
「蘭さん。」
宮島さんが立っていた。
「帰りに会うの2回目ですね。」
1回目は佐橋さんに駅で絡まれた日だ。宮島さんは今日も私に柔らかく笑ってみせる。
「一応毎日、蘭さんいないかなって探してはいるんですけど。なかなか会わないもんですね。」
そんなことを、なんでもないことのように言う。最後に会ったのはあの雨の日。それから時々連絡を取っていたけれど、顔を見るのはとても久しぶりだった。
前に一緒に帰った時とは違い、宮島さんも私もコートとマフラーを身に着けていた。黒いコートとグレーのマフラー姿の宮島さんは、今までのスーツ姿とはまた少し雰囲気が違って見える。
「蘭さん、髪切ったのかと思ったけどマフラーで隠れてるだけなんですね。」
宮島さんの視線が私の首元に向けられる。
「本当に蘭さんなのか今日はちょっとだけ自信なくて。」
笑うと、宮島さんも笑った。
「今年ももうすぐ終わりますね。蘭さんはいつから休みなんですか?」
「28日です。宮島さんは?」
「俺も本当は28日なんですけど、前日から休もうかと。」
「どこか行くんですか?」
「ただの帰省です。休み初日だと新幹線めちゃくちゃ混むんで。」
「遠いんですか?」
「九州なんです。大学でこっちに出て来てそのまま就職したんで。」
「そうなんですか。」
どこか楽しそうに話す宮島さんの横顔を見ながら、年末年始は会えないのだな、と思う。
「蘭さんは帰省とかしないんですか?」
自然に聞かれたのだから、すぐに答えれば良かったのに。言葉が出てこずに不自然な間が空く。
「あ、いえ、私はどこにも行かないです。毎年家でじっと過ごしてますよ。」
私の返事に、宮島さんはほんの少し表情を固くする。
「···この話題、あんまり掘り下げない方が良いですか?」
困ったように薄く笑う。
「いえ、全然。もう、実家がないんです。母は離婚して出ていって、父は3年前に亡くなりました。私も菫も実家に住む予定はなかったので手放したんです。」
出来る限り明るく、何でもないことのように口にする。事実を並べただけなら大したことはない。そこに私の感情が付随しなければ、大丈夫。
「そうなんですか。」
ポツリと宮島さんは言う。言葉を選んでいるのか、会話が途切れる。
「菫もそこそこ近くに住んでるので、特に問題はないですよ。何だか暗い話になっちゃってすみません。」
「いや、俺こそすみません。無神経で。」
頭を下げ合い、顔を上げて目が合う。お互い、少し情けない顔で笑う。
マンションが見えてきた。
「蘭さん、明日って帰りの時間これくらいですか?」
「たぶん。多少前後するかもしれませんけど。」
「じゃあ久しぶりにベランダ、どうですか?」
その言葉を待っていたかのように私の心は明るくなる。
「はい、ぜひ。」
答えると、宮島さんは優しく笑う。
「蘭さん、あんまんと肉まんならどっち派ですか?」
「どちらかと言えば肉まんですね。」
「俺はピザまん派なんですけど。」
「あ、ずるいです。私もピザまんの方が好きです。というか何の話ですか?」
「明日のベランダのお供の話です。元々甘い物って話だったけど、もう寒いから温かい物にしようかと思って。」
「それならピザまんが良いです。」
「じゃあそうしましょう。今回こそ俺が用意するんで。」
同じ物が好きだった。それだけで少し嬉しかった。
部屋の前に着き、鍵を開ける。
「おやすみなさい、蘭さん。」
「おやすみなさい、宮島さん。また明日。」
洗面所に入って手を洗う。水洗いをして、石鹸をつけて洗い、流して、もう一度石鹸をつける。この手に、何がついているか分からない。1日過ごしてきた場所を思い返す。あんな所に触れた。あそこにも、あそこにも、この手はたくさんの物に触れた。洗わなきゃ。全部、洗い流さなければ。汚い。汚い。汚い。服を脱いで洗濯機に入れて、もう1度手を洗う。流れていく。水と一緒に、汚れと一緒に、普通でいるために必要なものたちがどんどん流れていく。
ーーー蘭さん
普通になりたい。宮島さんの顔を見るたび、声を聞くたびに思う。
ーーー蘭
成くんのことを思い出すたびにそれは無理なのだと、思う。
成くんの傍にいた時も、宮島さんと一緒にいる時も、その時だけは少しだけ自分も世界も汚くなくなったように感じた。それはまるで魔法のようで、解けた瞬間世界はまた真っ黒に汚れてしまう。その魔法も永遠じゃない。いつかは消える。成くんの魔法がそうだったように。
明日が早く来たら良いのに。そして魔法にかかったまま、もう二度といつもの世界に戻れなくなってしまえば良いのに。
そんなことを考えながら、何度も何度も体を洗った。
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