その手で触れて

8/15
前へ
/15ページ
次へ
 昨夜と同じくらいの時間に帰宅し、お風呂から出るとスマートフォンに通知があった。宮島さんからのラインだ。‘準備できたら連絡下さい’そう書かれていた。準備が出来たことを伝えるとすぐに‘了解’のスタンプが返ってくる。  風もなく、穏やかな夜だった。ほぼ同時に隣の窓が開く音がして、慌ててサンダルを履く。 「こんばんは、蘭さん。いつもより寒くなくて良かったですね。」 顔を覗かせた宮島さんは、黒い暖かそうなパーカーを着ていた。 「これどうぞ。今日のお供です。」 そう言って袋から取り出したピザまんを渡された。 「ありがとうございます。···温かい。」 両手で受け取り、しばらくカイロ代わりに手のひらの中におさめる。 「温かいうちに食べましょうか。」 宮島さんも自分の分を袋から取り出して、すぐに一口頬張った。私も袋を開けて一口かじる。 「うま」 「おいし」 同時に出た言葉に、顔を見合わせて笑う。 「あ、そうだ。蘭さん、九州の食べ物で好きな物ありますか?」 「好きな物ですか?」 「はい。食べたい物があればお土産に買ってくるんで。」 「いや、そんな良いですよ。お構いなく。」 「じゃあ俺が勝手にオススメ選んで来ます。」 やや不満そうに宮島さんは言う。 「いや、でも、」 「蘭さんと、ここで一緒に食べられそうな物選んで来ます。」 そう言われて言葉が続かなくなる。そんなふうに言われたら、いらないとは言いづらい。 「···九州のどちらなんですか?」 お土産の話題から少し話をそらす。 「熊本です。行ったことありますか?」 「いえ。九州はどこにも行ったことないです。」 「そっか。俺の実家はものすごく田舎で、海とみかん山に囲まれてるんですよ。観光地らしいものは近くに全くないんですけど。」 「みかん山なんて見た事ないです。」 「うち、爺ちゃんがみかん作ってて。家にみかんが入ったコンテナが毎年山程積んであったんです。そのせいで一時期みかん嫌いだったんですよね。」 そう言って宮島さんは笑う。 「蘭さんはずっとこの辺りに住んでるんですか?」 「はい。県外に出たことほとんどないんです。」 「本当ですか。旅行とかは?」 「小さい頃はあちこち連れて行ってくれていたみたいなんですけど、あんまり覚えてなくて。私が潔癖症になってからは、もうどこにも行ってません。修学旅行も欠席したし、友達と旅行なんかも行けなくて。本当になんだか、上手く出来なくて。いろんなこと、もっと普通に出来たら良かったんですけど。」 宮島さんは何も言わずにゆっくり2度頷いた。 「蘭さんの言う‘普通’が、どんなふうなのかなんとなくは分かりますよ。でも別に俺は必ずしも、‘普通’が1番良いとは思いません。」 少し時間を掛けて、いつもよりゆっくりとした口調で宮島さんは言う。 「俺はわりと周りに流されるタイプだったんで、気乗りしないことも流されたままやっちゃうんです。面倒臭いなと思っても、修学旅行を欠席する勇気なんて絶対になかった。」 「修学旅行、行きたくなかったんですか?」 「そうですね。結構捻くれてて。文化祭とか体育祭も、表面上は楽しく参加してましたけど、何でこんなことやらなきゃいけないんだろうなとか実は思ってました。」 「意外です。宮島さん、クラスの中心になってはしゃいでそうなイメージなのに。」 そう言うと宮島さんは苦笑する。 「どんなイメージですか。··まぁそれが‘普通’だったから。むしろ‘やらない、やりたくない’って言ったら駄目だって思い込んでたんでしょうね。もちろん俺だけじゃなくて、そういう人たくさんいたと思います。」 宮島さんは、ピザまんを一口かじる。 「蘭さんから見たら俺は‘普通’かもしれないけど、俺は‘普通じゃない’蘭さんにちょっと憧れます。」 その言葉の意味が分からず、私は首を傾げる。 「嫌なこと、やりたくないことから逃げる勇気も、すごいことだと思うんです。少なくとも俺にはなかった。‘普通’になりたかったって言ってる蘭さんにこんなこと言っても一蹴されるかもしれないですけど。」 笑って、宮島さんはこっちに視線を向ける。 「‘普通’だから良い、とか、‘普通じゃない’から駄目、とか、そういうことじゃないと思います。少なくとも俺は。」 その視線がとても真っ直ぐで真剣で、私も目をそらせなかった。 「俺は、蘭さんがこの先ずっと潔癖症でも、潔癖症が治ったとしても、ずっとこうやって話したり飯食ったりする関係でいたいと思ってるんで、」 真剣だった表情が少し緩む。 「どっちだって良いんじゃないですかね。‘普通’にやることが全てじゃないじゃないですか。」 優しく、とても優しく笑う。 「言ってる意味、分かりました?」 「···一応。」 「なら良かったです。じゃあこれどうぞ。」 笑顔になった宮島さんは、ガサガサと袋の中に手を入れてもう1つピザまんを取り出した。私の手にはまだ半分以上ピザまんが残っていた。 「食べましょう、温かいうちに。」 そう言われて、私は残りのピザまんに大きく口を開けてかぶりついた。鼻の奥がツンとする。滲む視界の中、ピザまんを食べ続ける。 「おいしいですね。」 声が掠れているのは、口の中にピザまんが残っているから。それだけだと思う。 「冬の間はずっとピザまんですかね。」 宮島さんが笑う。  ‘普通’じゃないことが苦しくて、‘普通’になれない自分がたまらなく嫌い。でも‘普通’になろうとすることも苦しくて、私はそこからも逃げている。潔癖症は普通じゃない。だから駄目なんだって、ずっと思って来た。なのに宮島さんは、それでも良いと言う。普通じゃなくたって良いと言う。私は、普通じゃない自分がこんなにも嫌いなのに。  仕事納めの27日。朝からどんよりと曇った空。予報では雨にはならないらしいけれど、どうにも疑わしい天気だった。 「···大してやることないんだから、今日から休みにしてくれれば良いのに。」 隣で飯田がブツブツ文句を言っている。毎年年末最終日は仕事が少なく、皆どこかのんびりとしている。 「お腹空いたな。」 普段は真面目に静かに仕事をしている飯田も今日はなかなか仕事モードにならないらしい。ちなみにまだ10時を過ぎたばかりだ。  ようやく昼休憩の時間になり、珍しく飯田が飲み物を買いに席を立った。 「コーヒー飲まないと午後から寝そう。」 眠そうな顔でフロアを出て行く飯田の背中を見送って、私は洗ってきたばかりの手に携帯用のアルコール消毒をかける。  夕飯の残り物を詰めた弁当を広げて食べ始めようとした時、デスクの隅に置いたスマートフォンが振動し始めた。画面には‘菫’と表示されている。菫から平日の昼間に電話が来るなんて珍しい。何かあったのだろうか。 「もしもし、菫?」 『蘭ちゃん、ごめんね。今って大丈夫?』 いつもと声色が違う気がした。 「うん、今休憩中だから大丈夫。」 開けたばかりの弁当箱の蓋を閉めて、スマートフォンを耳にあてたままフロアを出る。 「どうしたの?」 『ごめんね、蘭ちゃん。どうしても今、もう蘭ちゃんにしか頼めなくて。』 泣きそうな声。電話から聞こえる菫の声以外の音が、いつも電話する時の家の音とは違う気がした。 「どういうこと?」 『さっき破水して、今病院にいるの。』 「破水って···予定日まだ1ヶ月くらい先じゃなかった?」 『そうなんだけど、なんか産まれちゃうかもしれなくて。』 「え、」 『今、瑛士いなくて。出張中で、電話出なくて。』 不安そうな菫の声だけが耳に入ってくる。 『ごめんね、蘭ちゃん。大河を、預かってくれないかな。』
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

29人が本棚に入れています
本棚に追加