その手で触れて

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 幼い頃に思い描いていた未来が夢に出て来たのは、大人になってから初めてのことだと思う。それくらい、遠いものだった。今の私には関係ないと断言出来るほど掛け離れたもののはずだった。なのに目覚めた後もずっと頭の中から消えない。  公共交通機関は総じて嫌いだ。満員の電車もバスも、吐き気と鳥肌が付き纏う。嫌で嫌で仕方なかったから、安い給料をコツコツ貯めて2年前ようやく車を買った。初めて車で通勤した日の朝味わった清々しさは今でも覚えている。マイカー通勤万歳。もう二度と電車には乗らない。  そう心に決めて2年。マンションのエントランスから出た瞬間、何かがぶつかるような大きな音がした。急いで駐車場の方へ向かうと、見たことのある古そうな白い軽自動車が、私の大事な大事な車に盛大にめり込んでいた。左側の扉はおそらくもう開けられない。白い軽自動車の運転席から、腰の曲がったお婆さんが出てくる。辺りを見回し、私の姿を捉えた瞬間慌てて駆け寄ってくる。 「ごめんなさいね、あれってあなたのお車かしら。」 このマンション内では恐らく有名なお婆さんだ。あちこちでぶつけたボロボロの車をいつまでも乗り回す危険な人。 「はい、私の車ですね。」 出来る限り最大級の笑顔を向けたつもりだったけれど、お婆さんはたじろぐ。修理費とか謝罪の仕方とか、そんなことは二の次。土下座したって許さない。大事な車に乗れなくなった私は、2度と乗らないと誓った電車に乗らなければならない。さよならマイカー通勤。免許返納しろよ、クソババア。  最悪の週始めだった。 「それで今日はそんなに顔色が悪いのね。」 笑いを堪えるように飯田は言う。 「珍しく遅刻してきた上にそんな顔してるから何事かと思った。」 「本当に朝から気分悪いわ。」 デスクの隅にあるプラスチック製の箱から除菌シートを取り出す。隣のデスクから飯田が何か言いたげに私の手元を見ている。 「何?」 「いや、今日も病んでるなと思って。」 「ほっといて。」 懇切丁寧にデスクの隅から隅まで拭き上げる。このフロアには朝一番に出勤してきて共用の布巾で全員のデスクや棚を拭き掃除する社員のおば様がいる。どうしてもやりたいと言うのならせめて除菌シートにして欲しい。もちろんデスク毎に新しいシートに取り替えて。私のデスクはやらなくても大丈夫だと言ってるのに、彼女にはそれが遠慮しているように聞こえるらしい。一体なんて言えば伝わるのだろう。出来れば波風をあまり立てたくない。 「帰り、誰か車通勤の人に送って貰えば?」 「無理だよ。頼むのも乗るのも。それに吐いたら失礼でしょ。」 「吐き気をもよおす前提で喋るのやめなよ。」 「無理無理。飯田の車に乗るのがギリギリセーフだと思う。」 「私は車買う気ないよ。」 同期の飯田は小動物のような可愛らしい見た目に反して根っからのアイドルオタクだ。私と同程度の給料を、最低限の生活費を残す以外はほぼ全て推しのアイドルに貢いでいる。私から言わせてもらえば、飯田も病んでいる。  飯田の外見は普通よりもかなり可愛い。しかも、‘万が一、推しの視界に自分が入るようなことがあった時に、ブスだと思われたくない’という謎のポリシーから、可愛らしさも清潔感もピカイチだ。飯田のオタクっぷりも病みっぷりも知らない女の子達は、男に媚びていると悪意たっぷりの噂話をしているけれど、当の本人は推し以外に何の興味も持っていない。ちなみに推しのアイドルは女の子だ。  私自身も病んでいる自覚はある。それが飯田の病み方とは全く違うということも分かっている。好きな物をひたすら追い求める飯田と違って、私は不快な物からひたすら逃げる生活を送る。それは自分でも苦しいし、悲しいほどに生きづらい。でもやめられない。だってこうしなきゃ私は生きていけない。  帰宅ラッシュを避けるために残業をしてから帰路についたけれど、電車はなかなかの混雑具合だった。職場から駅までの道中にあるドラッグストアで、風邪でもないのに不織布マスクを箱買いした。公共交通機関を利用する時の必需品だ。朝も本当はつけたかった。  人、人、人。知らない人達が私を取り囲む。誰が座っていたか分からないから椅子には座れない。何が付着しているか分からないから吊り革を持てない。どんな臭いや菌が漂っているのか分からないから十分に息を吸えない。出来る限り窓の外を眺めながら何も考えないようにする。  フラフラになりながら下車した。改札を出て人が散り散りになっていくとようやく肺いっぱいに酸素が行き渡る。つけていたマスクは駅前のコンビニのゴミ箱に捨てる。息苦しさから解放される。長かった。たかだか10分程の乗車時間がとてつもなく長く感じた。  マンションに到着し、エントランスホールにあるポストから数通の手紙を出してエレベーターに乗る。ボタンは指では押せない。周囲に誰もいないことを確認して、肘で押す。  3階の角部屋が私の家だ。このマンションは、エントランスもエレベーター内も各階の通路もいつも綺麗に保たれている。駐車場もごみ捨て場も、特別汚れていると思ったことはない。かと言って触りたいとは思わない。  鍵を開けて玄関に入り、靴箱の上にポストから出した手紙を置く。靴を脱ぎながらその中の1通が目にとまる。私宛てではない。住所はこのマンションの306号室。うちは307号室だった。  隣人には会ったことがない。半年程前に空室になった306号室は、気付いたら新しい人が住み始めていた。引っ越しの挨拶もなかったし、鉢合わせたこともない。 『宮島哲』 書かれた宛名を見て気分が下がる。どう見ても隣人の名前は男のものだった。  脱ぎかけた靴を履いて外に出る。一瞬目の前にあるインターフォンを押そうと思ったけれど思いとどまる。どんな人かも分からない人と至近距離で話をしたくない。とてつもなく不潔そうな人だったら、今すぐ引っ越してしまいたくなる。知らないままでいた方が良い。玄関の鍵を掛けてエレベーターに向かおうとした瞬間、306号室のドアが開いた。驚いた私は小さな悲鳴をあげて後ろによろける。 「うわ、すみません。人がいると思わなくて。」 なんとか尻もちをつかずに済んだ。でも壁に手をついてしまった。洗いたい。一刻も早く洗いたい。 「あ、いえ。こちらこそすみません。」 目の前には同世代と思われる男が立っていた。部屋着なのかジャージにパーカー姿だ。着古した感じはあるけれど、不潔だとは思わなかった。 「これ、落ちましたよ。」 男が床から何かを拾う。私に差し出す途中で男の手が止まる。 「それ、うちのポストに間違えて入ってました。」 男が何かを言う前に早口で言う。何も疚しいことはないのだけれど、不審者とは思われたくない。 「あ、ありがとうございます。」 男は特に不審がることもなく言う。‘爽やか’という形容詞がとてもよく似合う表情で。 「じゃあ私はこれで。」 とりあえず不潔な感じの隣人ではないことが確認出来た。1階のポストまで行く必要がなくなったのは良かった。綺麗にされているマンションとはいえ出来る限り共用部をあちこち触りたくはない。 「あ、もしかして」 私の背中に向かって男は少し大きな声を出す。 「今朝、車ぶつけられてたお姉さんですか?」 その言葉に私はゆっくり振り返る。 「···そうですけど。」 訝しむ私の顔を見て男はやや困ったように笑う。 「俺、あの時横通ったんすよ。酷いぶつけ方されてたけど大丈夫でしたか?」 あの時間ならマンションの住人が駐車場内を歩いていても不思議ではない。恐らくこの男以外にもたくさんの人に目撃されていたのだろう。 「大丈夫ではなかったですね。」 夕方修理についての電話が掛かって来たけれど、直すより買い替えた方が良いんじゃないかと言われた。それくらい私の車はボコボコにされていた。 「災難でしたね。何か困ったことあったら遠慮なく言って下さい。って、初対面の奴に言われても何も頼めないっすよね。」 本当に爽やかに笑う人だ。 「ありがとうございます。お気持ちだけ頂きます。」 そう言って頭を下げて、私は部屋に戻った。  幼少期の私はこんなふうではなかった。普通に人と触れ合い、普通に様々なものに触れる。いたって普通の子どもだったと思う。それが突然、この世界のありとあらゆるものが汚く感じるようになった。目に見えない汚れやウイルスに怯え、全てが怖いと思った。学校にも行けない時期があった。  昔、私には夢があった。特別な夢ではない。この世界にありふれた存在である‘お母さん’になりたかった。  私のお母さんはとても素敵な人だった。私と妹を分け隔てなく、とてものびのびと育ててくれた。理不尽に怒られたことは一度もない。学校で何かあっても、まず私達の話を聞いてそれを当然のように信じてくれる人だった。私も妹もお母さんのことが大好きで、あんなふうになりたいと思った。お母さんがお父さんを大好きだったように、私もいつか大好きな人と結婚して、子どもを産んで、あんなお母さんになって子育てをしたいと思った。  世界のありとあらゆるものを汚く感じるようになってしまった瞬間、その夢はもう実現出来ないものなのだと悟った。1度だけ経験したセックスの思い出は、恋とか愛とか痛みとかそういうものじゃない。思い返すだけで溢れ出しそうになる嫌悪感が今でも付き纏う。もう2度とあんなことはしたくない。汚い。あんなに汚い行為の先にしか、妊娠出産は存在しない。それに今の私は、子どもを可愛いとは思えない。自分の幼少期を思い出しても、清潔とは言い難い実に子どもらしい生活をしていた。街で見かける子どもを見ても思う。一緒には暮らせない。育てることは出来ない。自分が病んでいる自覚があるからこそ、それを子どもに押し付けてはいけないのだと分かっている。  だから夢の中で、私が自分の子どもらしき子と笑い合っているのを見てとても驚いた。私には、まだそんな願望が残っていたのかと。小さな子どもが、大きくなったらお姫様になりたいとか戦隊ヒーローになりたいとか、そういう大きくなれば非現実的な夢だったのだと分かるような夢なら良かったのに。それなら誰かに話して笑い飛ばして貰える。あの頃は可愛かったよねって言える。でも、‘お母さん’になりたいのなら今だってなれる可能性がある。私がこの生き方さえ変えられれば。    2年ぶりの電車通勤は苦痛だった。混雑しない時間を探して、早めに家を出てみたり、始業時間ギリギリを狙ってみたりと数日試してみたけれど、空いている時間なんてなかった。始発で出ても会社は開いていない。始発で出社した時間から仕事を始めて、午後3時頃に退社出来たら良いのに。早起きも得意ではないけれど、その方がマシだと思うほどに私の心はボロボロだった。  追い打ちをかけたのは、保険会社からの電話だった。 ーーー相手の方、保険契約の運転者限定条件の枠外で自動車保険適用外だったんですよ。 最初は意味が分からなかった。保険会社の人か何度も噛み砕いて説明してくれて、理解していく程に絶望感が押し寄せた。どうやら、あのお婆さんが乗っていた車は元々娘の物だったらしく、それを譲り受けたものの保険契約の年齢制限を変更していなかったという。よってお婆さんは運転者限定条件に当てはまらず、保険金は下りないと。お婆さんに経済力はほぼない上に、家族は誰もいない。元々の車の持ち主である娘は亡くなっているらしい。つまり、お金を請求しても全額払ってもらえる見込みがない。しかも修理するとなるとかなり高額になるという。私の保険を使っても全額は出ない。修理するにせよ買い替えるにせよ、かなりの出費だ。最悪だった。  金曜日。朝から頭痛が酷かった。頭痛薬を飲んでも全く効かず、電車に揺られて吐き気も伴いながらとりあえず仕事をした。 「早退した方が良さそうな顔してるけど。」 チラチラと様子を伺っていた飯田が昼休憩間近になって口を開く。 「大丈夫。」 大丈夫なんかじゃないけれど、そう答えるしか出来ない。一言でも弱音を吐いたら、全部溢れ出してしまいそうだから。 「昼休憩、一緒にライブ動画とか見···」 「ない。」 飯田が黙る。推しに関することは1人で楽しみたい派の飯田が物凄く気を遣って言ってくれてるのに。最低だと思う。体調が悪いのも事故のことも飯田には何も関係ないのに。八つ当たりするように冷たい言葉しか出て来ない。波打つような痛みと湧き上がる吐き気と共に、涙が出そうになる。 「···ごめん、飯田。」 12時になったのを確認して席を立つ。せめてこれ以上飯田に嫌な思いをさせないように外に出た。  非常階段に出て風にあたる。錆びついた手すりや階段には触れられない。ただ立ち尽くすだけだった。非常階段の下はベンチがいくつか並び、誰が植えているのかいつも何かしらの花が咲く花壇がある。下から人の声が疎らに聞こえる。聞きたくない声だけが耳に吸い込まれるように入ってくる。 「またーーーしたらしいよ、北根さん。」 「えー、本当に?ーーーさんって、ーーーさんと付き合ってたんじゃないの?最低じゃん。」 耳を塞いでも、1度聞いてしまった声は頭の中から消えない。  女性社員が多い職場だから、興味本位で様々な噂が流れるのはある程度仕方ないことだと分かっている。  飯田が媚びていると噂されるのと同じかそれ以上に、いつからか私は尻軽女だと言われるようになった。病んでいるのを隠すための武装が、そう思われるらしい。嫌われないように、角が立たないように、相手を汚いと思っていることが悟られないように、出来る限り軽く、愛想良く過ごす。そういう私を好きだと言う男性社員がちらほらと現れて、気付いたら食事すらしたことのない人と寝たことになっていた。たった1度の経験しかない私を尻軽だと噂するのは笑えるけれど、確実に仕事はやりづらくなる。そのやりづらさを、また武装で隠す。気にしていないふりをし続けるのもなかなかしんどい。たぶんそれは飯田も同じだと思う。  なんとか仕事をやり終えて定時を迎える。パソコンの画面から目を逸らさずに隣で飯田が「お疲れ」と言う。小さく返事をして席を立った。  朝も昼も水を飲んだだけ。吐けるものなんて何もないはずなのに、電車に乗った瞬間強烈な吐き気が襲ってきた。痛いのは頭なのか目の奥なのか分からない。視界がチカチカと揺れる。学生が多い車内は騒がしく、大人ばかりの集団とは違う臭いがした。マスクの中で浅い呼吸を繰り返し、普段は絶対にやらないけれど壁にもたれかかる。自力で立っているより幾分か楽だった。  電車から降りて駅のトイレに駆け込む。便器に顔を近付けて酸っぱいだけの液体を吐く。それを見てさらに吐き気が増す。汚い、汚い、汚い。ふらふらになりながらトイレを出て、家に向かった。  徒歩15分程の距離のはずなのに、なかなかたどり着かなかった。ようやくマンションが見えた。安心した瞬間、足に力が入らなくなった。ハイヒールを引きずるように歩き、なんとかエントランスホール手前までたどり着いたけれど、目眩がして植え込みの前にしゃがみ込む。やばい、立てない。もう少しで家なのに。額に冷や汗が流れるのを感じた。 「···大丈夫ですか?」 聞き覚えのある声だったけれど、顔を上げることは出来なかった。 「あ、もしかして隣のお姉さん?」 あぁ、隣の部屋の男だ。ぼんやりと顔が浮かんだけれどはっきりとは思い出せない。名前も、なんだったっけ。宮田?宮本?分からない。何にも分からないけれど、波打つような痛みの中でも男の声は不快ではなかった。 「救急車呼びます?」 その問いには全力で首を横に振った。そんな大事にはしたくない。 「立てますか?部屋まで送ります。」 男の声は躊躇なかった。 「すみません、触りますよ。」 何も言わない私の左腕を掴み、右肩に担ぐように持ち上げる。ハイヒールを履いた私とそれ程身長差はない。男に引きずられるように歩きながら並んでエントランスホールに入る。男がポケットからキーケースを取り出しているのを横目に、私はハッとした。慌てて男から距離を取ろうと試みる。 「どうしたんですか?」 体を離そうとした私をやや怪訝な顔で見る。助けて貰っておいて失礼なことは分かっている。でもダメだ。 「私、さっき吐いたので、臭いとか···ていうか、汚いので、」 男は目を丸くする。ちゃんと目が合った男の顔は、この前と服装が違っているからか同一人物なのか分からない。ジャージにパーカー姿とは全く違い、今はスーツを着ていた。 「そんなこと気にするなら声なんて掛けません。良いから大人しく掴まっていて下さい。」 声はこの前と同じ。やっぱり隣人なのだろう。  並んでエレベーターに乗る。男に体を預けるようにもたれかかっているのは、体調が悪いから。さっき電車で壁にもたれかかっていたのと同じだ。ほんのり温かさを感じるこの壁は、不快どころかむしろ居心地が良かった。体調が悪いと、他人の汚さを気にするより温かさを求めるようになってしまうのだろうか。頭痛も吐き気もおさまる気配はないけれど、さっきまでより何故か楽だった。 「お姉さん、着きましたよ。」 気付いたら自分の部屋の前にいた。 「え、あ、ありがとうございます。」 慌てて男から離れる。チカチカと揺れる視界の中で鍵を開けた。 「本当に大丈夫ですか?」 さっきよりも怪訝な顔で男が尋ねる。出来る限りの笑顔を作って頷いた。 「ありがとうございました。助かりました、本当に。」 最後は男の顔を見る余裕もなく、玄関に入った。奥に薄暗い部屋が見える。手探りで玄関の電気をつけて靴を脱ぐ。倒れそうだ。でもまだ寝れない。お風呂に入らなきゃ。こんな汚いまま部屋に行けない。ベッドに入れない。その場にバッグを置いて洗面所のドアに手を掛けようとした瞬間、目の奥がぐるりと回転するような感覚に襲われて、その場に倒れ込んだ。壁で頭を打った。大きな音がしたような気がする。でもあまり痛くはない。ただ体のどこにも力が入らなくて、立ち上がれなかった。 「お姉さん、入りますよ!!」 大きな声と、玄関が開く大きな音。気付いたら隣に男が座っていた。 「絶対何もしないんで、布団入るまで見届けます。」 この人が、そういうことをするつもりじゃないことはなんとなく、たぶんだけど絶対、大丈夫なのだと思う。でも違う。私が気にしているのはそういうことじゃない。 「掴まってて下さい。」 男が私の腕を肩に回す。体が持ち上がる。ダメ。待って。嫌だ。 「····離して!!」 渾身の力で男を胸を押した。動きを止めた男の顔は見ることが出来なかった。再び廊下に座り込んだ私の頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。 「···すみません。」 男が謝る。さっきまでよりずっと小さな声で、自信なさげに。 「違うの。違うんです、本当にごめんなさい。」 視界が揺れる。廊下の木目が歪む。顔を上げることは出来なかった。 「私、潔癖症なんです。」 男は何も言わない。 「本当に、こんなふらふらで何言ってんだって感じだと思うんですけど、ダメなんです。こんな汚いままで、お風呂も入らずに、部屋にもベッドにも行きたくない。」 涙が溢れた。 「汚くて。なんか全部が汚く感じて、今私も汚い。だから触っちゃってごめんなさい。本当にごめんなさい。」 本当の始まりは、世界のありとあらゆるものが汚かったのではない。‘私’が、何よりも汚かったのだ。顔見知り程度の隣人に一体何を言っているのだろうと思う。誰にもこんなふうに話したことはなかったのに。 「お姉さん、」 頭上から男の声が降ってくる。 「じゃあとりあえず、俺んち来てください。」 男の声が目の前にやって来た。わけが分からず、顔を上げた。 「お姉さんは、今のまま自分のベッドでは寝れないんですよね。でもとてもじゃないけど今風呂は無理だと思います。」 男は真っ直ぐ私を見る。 「俺は、初めて会った時から今まで一度もお姉さんを汚いと思ったことはありません。だから、お姉さんが俺に触っても、俺の家に上がっても、俺のベッドに寝ても、何にも嫌ではありません。」 この人は一体何を言っているのだろう。 「俺が使ったシーツが嫌なら、洗ったやつがあるんで取り替えます。良いですか?」 「いや、そんなこと···ダメです。そんな迷惑掛けられません。」 「じゃあ病院行きましょう。」 「···それもダメです。」 「どっちか選んで下さい。」 有無を言わさない雰囲気を纏いながらも、男の顔は初めて会った時と同じように爽やかに笑っていた。 「あなたは汚くなんかないです。」 突然はっきりとそう言われて、ぼろぼろと涙が溢れた。  ちゃんと、分かってはいるのだ。私がおかしいんだって。電車に乗ったって、エレベーターのボタンを指で押したって、誰かに触れたって、どうにかなってしまうわけじゃないってちゃんと分かってはいる。人が触ったもの、外に出た服、1日働いた体、どうして吐きそうになる程汚いと感じてしまうのか、それも分かっている。もう、頭から離れないのだ。‘私は汚い’とすりこまれた過去の私が、いつまでも私を離そうとしない。綺麗でいなくちゃ。綺麗でいないと、またあの頃に戻っちゃう。それは嫌。私はもう汚くない。汚れたくない。綺麗なままでいたいの。···でもそれは、時々とても苦しい。 「行きますよ。」 男に両手を引かれて立ち上がる。涙は止まらないのに、さっきより少しだけ体が軽い気がした。子どもみたいに声を出して泣く私を見て、男が少しだけ笑った気がした。  手を引かれて初めて訪れた部屋は、落ち着く匂いがした。涙が止まらないまま、知らない匂いのするベッドでいつの間にか眠りに落ちた。
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