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だが数日後、少女はふたたび現れた。
「こんにちは。辻架、いますか」
ひかえめな声が呼び、座敷に寝ていた妖は己の浅はかさを歎いた。
薬師と称したのは失敗だった。あの子は仙草を諦めきれず、私に頼ろうというのだろう。
一向に立ち去る様子がないので、仕方なく人姿になって立ちあがった。
勢いよく戸を引く。すぐそこにいた沙也の顔が、パッと輝いた。
辻架は彼女を制し、厳しく言った。
「私の警告を聞かなかったな」
「あ……」
少女の眉がさがり、頬が赤くなる。
うなだれる様はいじらしくもあったが、辻架はにこりともせず続けた。
「何が起きてもいいなら、好きなだけ山にお入り。私はとめない」
「……上には、行かないよ」
しょんぼり答えた沙也が、後ろに隠していた手を差し出した。
太陽のような橙色がふたりの間に咲く。大輪の金盞花だ。
「沙也、これは?」
驚いた薬師に花を押しつけ、少女は駆けて行ってしまった。
ぽかんとしていた辻架は、思い違いを悟る。端正な顔をしかめ、「ああ、まったく!」と髪をかき回した。
息を切らした沙也は、小川のほとりで足をとめ、目じりをぬぐっていた。
すると、せせらぎのかたわらで茂みが鳴る。ふり向いた先に美しい獣が顔をのぞかせた。
あの時の狼だ。少女の心が晴れ、微笑みが戻った。
「この前はありがとう。足、もう平気だよ」
それから恥ずかしそうにつけたす。
「辻架に叱られちゃった。でも会いたかったの、あなたにも」
と、しゃがみこんで腕を広げた。
辻架はおとなしく歩み寄った。沙也が視線をあわせて笑う。
「あなたの名前、聞いておけばよかった。もっとお話できたら……」
大きな狼をなでながらつぶやく。
「いいね、素敵なご主人さま。お姫さまみたいな薬屋さん」
首筋に顔をうずめられ、辻架は石像のようにじっとした。これほど遠慮なく触れられたのは初めてで、人間というのは存外に熱いのだと今さらに知る。
その熱に眼を閉じた時、獣の耳が異変をつかんだ。
辻架はすばやく顔をあげた。
「きゃっ!」
と手を離した沙也を守るように立ち、五感を研ぎ澄ます。
山の奥から、草木を踏み散らし枝を折る音── 狂ったように駆ける音が向かってくる。
騒々しい足音にひそむ奇妙な軽さ。それは人とも獣とも、妖とも違っており、狼の毛を一気に逆立たせた。彼女は土に爪を立てて歯をむいた。
近づくかと思われたのは一瞬で、怪異は急に道を変え、山上へと消えた。
沙也がホッと息をつく。
「ああ、びっくりした。猪かな、それとも熊?」
顔をのぞきこまれた辻架は、不安を隠し首をかしげた。山をおりてからも警戒をゆるめず、里の手前まで沙也につき従った。
夜が深まるのを待ち、辻架は動き出した。
道なき道を四つ脚で登っていくと、険しい岩場がひらける。その突端に立って低く呼びかけた。
「青女、いずこに」
昔なじみの大蜥蜴は、このあたりに巣を持っているはずだった。頭をさげてでも場所を尋ねておくんだった、と彼女は悔いる。
記憶の底から高飛車な笑い声がよみがえってきた。
「教えるはずないでしょう、あなたのような下等の妖に!」
毛皮と鱗はあいいれず、同じ山に住みながら仲はよくなかった。どこかですれ違うと、蜥蜴の姿であっても人の姿であっても青い舌を出されたものだ。
しかし、彼女の妖力は強い。それは辻架も認めるところだった。
山神の力が衰退を始めた頃にも、たまたま行きあって相談したことがあった。
青女は自慢の黒髪をかきあげ、呆れた笑みを返した。
「ええ、とっくに気づいています。上のものが動いてますから、お気になさらず」
上のものとは、上級の妖を指す。彼らは裾野に暮らす辻架を見くだし、姿も見せなかった。
「せめて私も力添えを……」
という申し出を、青女は高らかにあざ笑った。
「ああら、心づよいこと。それじゃあ時が来るまで温存していてくださいな、ぼろぼろの庵でひなたぼっこしてね」
思い返せば腹立たしいが、幾度か助けられたこともあり、頼りにできる相手だ。異変について話し合うなら彼女しかいないのだが……
諦めきれず、岩の隙間に鼻先をむける。何度か場所を変え、青女が好んでいたすみれの香を嗅ぎつけた。
そっと顔を差し入れる。
広く開いた洞はひっそりしていた。
足元を見ればしおれた花が散っている。ここしばらく使われていないようだった。
仮巣かもしれない。しかし、用心深い青女が入口を塞がずに居を空けるだろうか。
「私だ。辻架だ」
もう一度呼んでみたが、答えはなかった。
夜の岩場に春の虫が這う。小さな生き物の絶え間ないうごめきが彼女を落ちつかなくさせた。
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