後編

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後編

 姿なき疾走に遭った日から、山の調子は一層外れていった。  空をゆく鳥が突然落ちる。  岩清水の流れがとまり、しかし枯れることもなく(よど)んでいる。  けたたましい鳴き声がしたと思えば、数匹のイタチが眼をむいて共食いをしている……  不穏な影はふもとに近いあばら家までも降りてきたが、沙也はそれにかまわずかよってきた。 「こんにちは」  小さくあいさつをすると、辻架が「お入り」と返すまで待っている。ぱたぱた寄ってくるわりに、恥ずかしそうにはにかみ、口数も少なかった。  何を求めているのかと見つめれば、里に咲く花が差し出される。 「浅葱水仙か」 「珍しくって、きれいだなって…… けど、お山にたくさん咲いてた」  ばつが悪そうな少女に、辻架はほのかな笑みを向けた。 「この一把(ひとは)はよく香る。ありがとう」  沙也はくすぐったそうな笑顔で応え、せわしなく腰をあげた。  あばら家を「お宿」と呼ぶほど気に入っていたものの、父親を案じ、けして長居しなかった。  辻架は一旦見送るふりをして、狼の姿で帰り道を護衛する。何も知らない沙也は無邪気に彼女をなで、時にはぴたりと身を寄せた。  贈られた花々は、腐らずに形を保って枯れた。  捨ててしまうのも忍びなく、辻架は花頭を切り、次々と盆に並べていった。  座敷に乾いた花壇ができようかという、ある日。  戸をくぐってきた少女の表情が、いつになく沈んでいた。 「ごめんね。今日は、お花ないの」  ぽつりと言う声もうつろに響く。辻架は薬草を煎じる手をとめ、膝を向ける。 「父親の具合がよくないのか」  沙也は首を横にふった。目を伏せてこちらを見ようとしない。  その姿は妖の胸を騒がせた。思わず手を伸ばし、きつく握られたこぶしに触れる。 「あっ」  少女が驚いて顔をあげると、真摯なまなざしがそこにあった。 「沙也。里で何があった」  超然とした美しい薬師は、あからさまにうろたえていた。大きな瞳の底が不思議に輝く。  魅入られたように動きをとめた沙也は、やがて明るい笑顔を返した。 「なんでもない! 辻架は優しいね」    しかし、その後の別れ際。  彼女は狼の辻架を強く抱きしめた。頬と頬を寄せ、小さくささやく。 「さよなら。元気でね」  ──あの子は何を隠しているのか。  少しの時間を置き、辻架は里を訪れた。  草陰から様子をうかがえば、家屋の前に馬がとまっている。のどかな景色に不似合いなけばけばしい鞍をつけており、女性達が遠巻きにしていた。 「いやだ、昨日も来てたよ」 「沙也は逃げられないね。気の毒に……」  噂話をかき消すように、戸の奥から酒焼けした声が響く。 「あんたがそんな身体じゃ娘っ子も困るだろうよ。うちで働かせりゃ、返すどころか金が入るぜ」 「それだけはご勘弁を。残りのお金は、かならず私が……」  沙也の父親は、ぜいぜい息を漏らして頼みこんでいた。  少女はそこにいるようだが、ひとつの言葉も発しなかった。  あばら家へ引き返した辻架は、床下にうずくまる。  沙也には年の離れた兄がいた。  だが彼は都で悪い遊びに溺れ、借金を作って失踪してしまった。肩代わりした父親が病を得て、返済が滞る。  取立てに来た遊郭の下男が、可憐な妹に目をつけたというわけだった。  山を離れた、人の世のできごと。  妖には関わりのないことだ。忘れてしまえ──  きつく閉じたまぶたの裏に、野に伏した少女の姿が浮かぶ。  暗い緑に浮かびあがる白い足。  何かが絡み、食らいついている。  それは強靭な棘を生やしたいばらの蔓で、じわじわとうねり、華奢な身体を這いあがっていた。
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