後編

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 その日の夕空は火のように燃えた。  木々の隙間をつき、山の深くまで赤い光線が差しこむ。辻架はそれを警告と取ったが、先を急いだ。  あと少し登れば、神の座所・聖域がある。  辻架がまねかれたことはなかったが、大蜥蜴の青女は別だ。彼女は自慢ついでに口を滑らせた。 「あなた、山をおりて薬売りにでもなったらいかが? 山頂にはまだ仙草が生えていてよ!」  それもすでに遠い記憶である。異変が起きた今、草が無事だという保証はない──   考えに沈んでいると、不快な悲鳴が空気を裂いた。  ハッと上を見た顔に葉がふりかかる。  猿の群れが口々に吠え、木から木へと逃げ惑っていた。みな狂乱におちいり、歯をむき出してふり返る。  辻架もそちらへ向いた瞬間、すさまじい風が押し寄せた。足元をすくわれ、とっさに岩陰へ伏せる。どうっと山が揺れた。  森が割れ道が開ける。  そこから群れを追うものが現れた。  それは、引き連れる力の大きさに反し、小さな姿をしていた。  朽ちて黒ずんだ葉を集めたような、ぼろぼろの人の形。  両手をゆるやかにかかげて走っている。  顔は虚空へ向けられ、目と口らしき場所にぽっかり穴が開いていた。 「うっ……!」  あまりの忌まわしさに顔をそむけ、辻架は悟る。  黒の走者には一切の臭気がない。それは生死をこえたもの、神の証。  山神は沈黙の下で邪に転じていたのだ。  豪風が轟き、ちっぽけな存在をあざ笑う。地に叩きつけられた猿たちが断末魔をあげる。辻架は風の切れ目を見つけ、死骸の上をひと息に越えた。  彼女は無力だった。しかし、山が終わる前にふたりの人間を救うことならできる。己を鼓舞して一心に駆け、聖なる地へ飛び込んだ。  すでに陽は沈みつつあり、山上にひらけた野原は刻々と影を濃くする。辻架はするどく目を走らせた。  すると、なだらかな起伏の一点が淡く光っていた。  丸い葉をつけた、輝く草。仙草だ。  獣の眼に喜びがあふれた時、視界の奥で薄闇が揺れた。  野の尽きるところ、深い草むらから歩み出す者がある。まっすぐな黒髪と藍色の装束、間違えようのない人姿── 「青女!」  辻架は駆け寄ろうとして立ちどまる。様子がおかしかった。  青女はがくりと頭を垂れていた。  それが徐々に起こされてゆく。つややかな髪に白い額がのぞき、すっと通った鼻すじがつづく。ゆらりと踏み出す一歩にあわせて、懐かしい細面が前を向いた。  狼の眼が見開かれる。 「ああ青女、何ということ……!」  頼るべき旧知の妖は、首から胸もとまで無惨に切り裂かれ、死霊と化していた。白く濁った目が吊り上がり、笑う。 「つじ、か」  その瞬間、命の絶えた傷口から燐光が噴き出し、襲いかかってきた。  本能が辻架を動かす。彼女はひと飛びに回りこんで仙草を噛み千切ると、矢のように身を返した。  駆け下りる地面が震え、低く重く山が鳴く。ざわめく木々の向こうに(かや)の屋根が見えてきた。  そして、少女の声がした。 「辻架。どこ……」  妖狼は耳を疑う。  沙也は怯えて惑いながらも、彼女の身を案じていた。異様な夕陽に誘われたのか、と心臓が冷える。  小さな影へと走りながら、人姿に変わった── 変わろうとした。  しかし狂神の余波がそれを許さなかった。  気配を感じた少女がハッとふり向く。  闇と風の中に()なるものが立っていた。  人の顔に獣の眼。白銀の髪から突き出した耳は狼と同じ。装束の袖からのぞく手を毛皮がおおい、するどい爪が伸びる。  人狼は、そこにかすかな光を握り締めていた。  沙也の目が大きく開き、唇が震える。  わが身の異変に呆然としていた辻架は、刃を受けたように身をすくめた。  だが少女はまっすぐに駆けてきた。 「辻架!」  人間の手が異形の手をつつむ。ひたむきに見あげてきた顔が、泣き出しそうにゆがむ。 「気づけないでごめんね。同じだったの、同じ……」  おなじ優しさ。  声にならない思いが瞳にあふれ、こぼれる。それは冷たくもあたたかく妖の心を濡らした。 「沙也、私は……」  吹きつける突風が言葉をさらう。あばら家がひしゃげ、崩れていく。 「あっ、お宿!」  悲しげに伸ばした沙也の手を、辻架が取った。仙草を握らせ、しかと視線をあわせる。 「これで病が晴れる。持ってお行き」  沙也は息を飲んだ。 「だめ。一緒に、里に」  辻架はすがりつく少女を押し下げ、山上をふりあおぐ。  青女も神も、逃げればどこまでも追ってくるだろう。山中で気を引きつづければ、沙也は里に帰れるはずだ。  彼女は澄んだ瞳に決意をこめた。 「私は山に生きるもの。ここで始末をつける」  大枝がしなり蔓が舞う。ふたりの間の道が閉じていく。悲痛な叫びが風を貫いた。 「辻架、いかないで!」  強く求められた辻架は、もう弱さを隠せなかった。  ふり向いて手を伸ばす。心細く切なく、最後のぬくもりを求め沙也の胸に飛びこむ。  清い首すじに唇を寄せて想いを残すと、少女の腕が背中を締めつけた。  それは刹那の抱擁だった。  荒れる風、草木がふたりを隔て、分かつ。  道が閉じる直前、仙草の光は少女とともにあった。それを見届けた眼が前を向く。  この後は脚の尽きるまで。終焉の山に一匹の妖が走り出した。   ( 了 )
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