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前編
人間の匂いがして、辻架は首をもたげた。
長い口吻の先でとらえた血の気配。遅れて耳を立てると、かぼそいすすり泣きが聞こえた。
──女人がひとり、こんな所に?
狼の妖は数か月ぶりに身体を起こした。
あばら家の床下を出れば、春の陽ざしに緑が透ける。銀色の毛におおわれた四肢を伸ばすと、血の香をたどって歩き始めた。
みだりに走ることはない。
山を騒がすと神の不興をまねくと伝えられており、その神の息吹が感じられなくなってからも習慣は消えなかった。
ここ数年、山の植物は荒々しくしげり、すっかり人々を遠ざけている。
すさんだ野辺で泣くのは何者か。辻架は怪訝に思い藪を抜けた。
すると、草に埋もれかけた小さな身体があった。
十三、四才だろうか、質素な身なりの少女が細い手をつき、懸命に上体を起こしている。
どうやら斜面を滑り落ち、いばらに踏みこんでしまったらしい。質素な単衣の裾がめくれ、太く硬い蔓が片足に食らいついていた。
辻架はのそりと脚を進めた。
「あっ」
顔をあげた少女が身をすくませる。ほつれた髪が丸みのある輪郭にかかり、ひな鳥のような弱々しさを強めた。
辻架はなるべくゆっくり首をさげ、歯と爪でいばらを千切り始めた。
やがて枷は外れる。山の妖としての役目を果たした辻架は、くるりと背を返した。
それと同時に、少女が解放された足を引き寄せた。
白い肌に走る跡。
生きた血の滴りが眼に焼きつき、突きあげた衝動が獣を動かした。
気がつけば辻架は、すべすべとやわらかい感触を舌に感じていた。清らかな赤が口中に広がり、起き抜けの身体に力がめぐる。
少女は驚いていたが、怯えてはいないようだ。傷口からとくとく速まる鼓動が伝わってきた。
いばらの傷は思いのほか深かった。
化膿する恐れがあると判断した辻架は、木陰に駆け込み、しばらくぶりに人間の姿へと変わった。狼に呼ばれた体を装って顔を出す。
「そこの者、怪我を?」
「は、はい。足に棘が」
少女が安堵を見せて答えたので、辻架は手を差し伸べた。
「この先に私の宿がある。手当てをしよう」
薬師の端くれだと言い張るには、辻架の人姿は華美すぎた。
上衣も裳もきらびやかで、長く豊かな髪は黒銀色に煙る。その上、顔立ちがくっきりと整っていた。
「薬屋さんをしているの、ここで?」
あばら家に招かれた少女は戸惑ったが、辻架は自分から問いかけてごまかした。
「山は外見より深く、危険なもの。どうしてひとりでやってきた」
相手は沙也と名乗り、素直に理由を話した。
里で父親と暮らしているが、彼が胸を病んでしまった。暖かくなっても具合がよくならず、毎日苦しんでいる。
彼女は祈るように言う。
「それで、大婆様のおとぎ話を思い出したんです。この山に何でも治せる仙草が生えてるって……」
辻架は黙って膏薬をとり、足に擦りこんでやった。沙也がおそるおそる尋ねる。
「仙草、ないの?」
「私は知らない。けれど、ここには来ない方がいい」
と、開けはなした格子戸へ首をめぐらせる。
陽光をじりじりとはね返す草木。自然なざわめきは消え、意思を持ったような平静が据わっていた。
辻架の目がするどく細まる。
「山が衰えている。神が沈み、戻らない」
「さっきの狼は、神様じゃないの?」
少女が不思議そうにまばたきした。ふいをつかれた辻架は柳眉をあげ、困って首をふる。
「あれは、ただの獣……」
「そうかなあ、とてもきれいで立派だったよ。それに、優しかった」
沙也は嬉しそうにはにかんだ。
しかし辻架は視線を落とす。
神であるどころか、その恩寵を取り戻す術を知らない一介の妖。自分は無力であるとの思いが湧きあがり、大きな瞳を陰らせた。
彼女は人間のまなざしを避け、うつむいて告げた。
「これで傷は膿まない。里にお帰り」
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