前編

1/2
前へ
/4ページ
次へ

前編

 人間の匂いがして、辻架(つじか)は首をもたげた。  長い口吻の先でとらえた血の気配。遅れて耳を立てると、かぼそいすすり泣きが聞こえた。  ──女人がひとり、こんな所に?  狼の妖は数か月ぶりに身体を起こした。  あばら家の床下を出れば、春の陽ざしに緑が透ける。銀色の毛におおわれた四肢を伸ばすと、血の香をたどって歩き始めた。  みだりに走ることはない。  山を騒がすと神の不興をまねくと伝えられており、その神の息吹が感じられなくなってからも習慣は消えなかった。  ここ数年、山の植物は荒々しくしげり、すっかり人々を遠ざけている。  すさんだ野辺で泣くのは何者か。辻架は怪訝に思い藪を抜けた。  すると、草に埋もれかけた小さな身体があった。  十三、四才だろうか、質素な身なりの少女が細い手をつき、懸命に上体を起こしている。  どうやら斜面を滑り落ち、いばらに踏みこんでしまったらしい。質素な単衣(ひとえ)の裾がめくれ、太く硬い蔓が片足に食らいついていた。  辻架はのそりと脚を進めた。 「あっ」  顔をあげた少女が身をすくませる。ほつれた髪が丸みのある輪郭にかかり、ひな鳥のような弱々しさを強めた。  辻架はなるべくゆっくり首をさげ、歯と爪でいばらを千切り始めた。  やがて枷は外れる。山の妖としての役目を果たした辻架は、くるりと背を返した。  それと同時に、少女が解放された足を引き寄せた。  白い肌に走る跡。  生きた血の滴りが眼に焼きつき、突きあげた衝動が獣を動かした。  気がつけば辻架は、すべすべとやわらかい感触を舌に感じていた。清らかな赤が口中に広がり、起き抜けの身体に力がめぐる。  少女は驚いていたが、怯えてはいないようだ。傷口からとくとく速まる鼓動が伝わってきた。  いばらの傷は思いのほか深かった。  化膿する恐れがあると判断した辻架は、木陰に駆け込み、しばらくぶりに人間の姿へと変わった。狼に呼ばれた(てい)を装って顔を出す。 「そこの者、怪我を?」 「は、はい。足に棘が」  少女が安堵を見せて答えたので、辻架は手を差し伸べた。 「この先に私の宿がある。手当てをしよう」  薬師の端くれだと言い張るには、辻架の人姿は華美すぎた。  上衣も()もきらびやかで、長く豊かな髪は黒銀色に煙る。その上、顔立ちがくっきりと整っていた。 「薬屋さんをしているの、ここで?」  あばら家に招かれた少女は戸惑ったが、辻架は自分から問いかけてごまかした。 「山は外見より深く、危険なもの。どうしてひとりでやってきた」  相手は沙也と名乗り、素直に理由を話した。  里で父親と暮らしているが、彼が胸を病んでしまった。暖かくなっても具合がよくならず、毎日苦しんでいる。  彼女は祈るように言う。 「それで、大婆様のおとぎ話を思い出したんです。この山に何でも治せる仙草が生えてるって……」  辻架は黙って膏薬をとり、足に擦りこんでやった。沙也がおそるおそる尋ねる。 「仙草、ないの?」 「私は知らない。けれど、ここには来ない方がいい」 と、開けはなした格子戸へ首をめぐらせる。  陽光をじりじりとはね返す草木。自然なざわめきは消え、意思を持ったような平静が据わっていた。  辻架の目がするどく細まる。 「山が衰えている。神が沈み、戻らない」 「さっきの狼は、神様じゃないの?」  少女が不思議そうにまばたきした。ふいをつかれた辻架は柳眉をあげ、困って首をふる。 「あれは、ただの獣……」 「そうかなあ、とてもきれいで立派だったよ。それに、優しかった」  沙也は嬉しそうにはにかんだ。  しかし辻架は視線を落とす。  神であるどころか、その恩寵を取り戻す(すべ)を知らない一介の妖。自分は無力であるとの思いが湧きあがり、大きな瞳を陰らせた。  彼女は人間のまなざしを避け、うつむいて告げた。 「これで傷は膿まない。里にお帰り」
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加