富籤

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 亭主が這い蹲っている。  褪せた畳に額を擦りつける痩せ男。どうにもみっともないその様に、みつは飲み込み切れない溜息を吐き出した。陽の射しこむ破れ障子の向こうからは長屋の子供たちの笑い声など聞こえて来るものだから、余計に肩身の狭いような、お天道様に申し訳も無いような。  痛む頭で天井を仰ぐ。その耳に、がりり、と妙な音が引っ掛かった。眼前に平伏した亭主の指先が古い畳の目を掻いているのだ。そう、と。叱られた子供の様に此方を窺う目つきの卑屈な事。 「なあ、みつ。おみつ。頼むよ。この通り」  なあ、なあ、おまえ。亭主がこんなに頭を下げてるんじゃないか、なあ。  四半刻も前から繰り返している言い様を再び繰り返して、亭主は殊更みじめったらしく畳に額を擦りつける。見慣れた仕草だ。二年も前ならばみつとて絆されてやらぬい事も無かったのだが、生憎とこの亭主と一緒になって三年が経とうとしている。愛想とやらが尽いたのは随分と前の事だ。 「そんなこと言って、あんた。つい先月だっておんなじように頭を下げていましたけどね。その時のお約束はまだのようだけど」  呆れの滲むみつの言葉に亭主はがばりと顔を上げた。少々窪んだ眼に眼光ばかりが揺れて。ああ、やだやだ。昔に酒で狂い死んだ父親も、確かにあんな目をしていたじゃあないか。  畳を掻きむしり四つん這いの亭主が赤ん坊の様に膝元へ寄って来るので、思わずみつは身を引いた。  なんでそんな事を言うんだ。お前はなんて冷たい女なんだ。貰い手の無かったお前を嫁にとってやった俺の恩を忘れたのか。亭主をなんだと思っていやがるんだ。誰のおかげで飯が食えると思っていやがるんだ。  呻きのような恨みつらみ。よくもまあ、毎度のように同じ言葉を繰り返せるものだ。 「なに言ったって無い袖は振れません。うちに富籤を買う金なんてどこにありますか」  人に借りた金を返すのも滞っているというのに。大家に店賃さえ待ってもらっているのに。一体どこにそんな金があるというのか。  床屋にも行けず髪も伸びたまま。手にした金は端から酒に博打に使ってしまう亭主の為に、一体どれほどの苦労をさせられてきた事か。今みつの手元にある金はどうにかやりくりと内職の末に溜めた雀の涙ほどのへそくりばかり。富籤なんて高価なものの為にそれさえ寄越せと強請られるのだからたまったものでは無い。 「だから、おまえ、向かいと隣の亭主と金を出し合うと言ってるじゃねえか。当たりゃあおまえ、山分けしたって借金帳消しにして釣が来る。良い暮らしが出来るってのに」 「そんなもん、当たりゃしませんよ」 「買わなきゃ当たるもんも当たらねえだろう!」  裏返った亭主の声が壁の薄い長屋に響く。  そんな事を言い張って、何度同じように籤を買ってなけなしの金を捨てるような真似をしてきたと思っているのか。己にも堪忍袋というものがある。今度という今度こそは、この男に一文たりと渡すものか。  と、みつが拳を握った瞬間。  弾かれたように亭主は立ち上がり傍の箪笥へと飛びついた。 「ちょっと、あんた!」  驚きに目を見開くみつの眼前、亭主は箪笥の引き出しを順に抜き出し逆さに返してしまう。数えるほどしかないみつの着物、家財道具を畳へとばらまいては次の引き出しへと手をかける亭主を止めようと縋りつくが、火事場のなんとやら。女房よりも細く痩せた手足からは想像できぬほどの力で跳ね飛ばされ、みつは畳へ尻をついた。その間にも頭上に亭主の褌が降って来る。 「止めておくれってば、あんた!」  たしかに、以前、みつは箪笥の奥底にへそくりを貯めていた事もある。だが半年も前にそのへそくりを見つけ出した亭主に一文残らず博打に注ぎ込まれてからというもの、隠し場所を変えたのだ。隠し場所を変えぬ訳も無い。  箪笥の引き出しを空にし終えた亭主は漸く、その事に気が付いたのか両の目を左右へ走らせ目につく物を片端から逆さにし始めた。  みつの静止にも耳を貸さず六畳を這い回る亭主。上り框から転がる様に土間へと落ちた彼の手は下駄を放り灰の中まで引っかき回し。やがて隅に置かれた水瓶の裏へと回ると、途端、歓声じみた声を上げた。  持ち上げられた亭主の手の中には擦り切れた財布。  みつのへそくりが収められたそれを首級の様に掲げた亭主は一目散、障子戸を開け外へと走り出した。  あんた、待ちな、あんた。女房の声など耳に届かぬ様子で駆けて行く亭主の背へ歯噛みすると、みつは戸口へ背を向け亭主とは逆の方向へと駆けだした。  階段を駆け上がり二階へ。  万年床を蹴り飛ばし物干し台へ。  欄干から身を乗り出せば木戸の前に亭主の背が見える。  背が木戸を潜る間際、渾身の力を持って手にした下駄を亭主へと投げ付けた。  弧を描き落ちて行く下駄。  汚れた鼻緒が遠ざかり、下駄は亭主の背へと着地した。  唐突に背へと襲った衝撃に亭主が上げた叫びが裏長屋に響き渡る。たまらずその場に倒れた亭主の姿に何事かと遠巻きに人が集まる様を物干し台から眺め、みつは大きな溜息を吐き出した。  博打も富籤も好かないが。なるほど、確かに。やってみなければ当たる物も当たらぬらしい。
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