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「こいつは難儀だな」
カシャ、カシャ、カシャ、と、目にかけたルーペの度を調整しながら老人が言った。
ほのかな化学薬品の香りに、青年は鼻をひくつかせる。
「やはり難しいものでしょうか」
「こうも完全に壊れてしまうとな。部品が足りんかもしれん。ゼンマイや針や……。ともかく、分解してみんことにはわからんな」
青年が頷くと、老人はドライバーを取り出した。汚れた真鍮のネジにあてがって、瞬きする間にバラバラにしてみせる。
「これが壊れたのはいつ頃だ?」
「わかりません」
「では、最後に動いているのを見たのは?」
「……わかりません」
青年が俯きながら答えると、老人は解体を続けながら、不思議そうに尋ねる。
「壊れた時期がわからん、というのは理解できる。しかし、最後に動いていた時期がわからん、というのはどういうことだ? 元々動いていたかわからんものを持ってきたというわけか?」
「……はあ。その通りですね」
「大抵、ここに品々が持ち込まれる理由は、在りし日の思い出を復活させたいという想いからだ。……しかし、君にはその思い出が無いという」
「……母の、形見なんです」
青年がぼそりとこぼすと、老人は少し悪いことを聞いたな、と思った。
手にした小さなからくりを解体しながら中身を確認すると、中に小さなレコードが見えた。青年が修理を頼んだのは、手巻き式の小さな蓄音機のからくりだった。
レコードは木製の箱の中にしっかりと埋め込まれていた。その様子から、このからくりが様々な音楽を楽しむものではなく、ただ一つの音を、しっかりと守るために作られたものだということがわかる。
「ゼンマイ部分に埃がたくさん溜まっていたな。これでは巻き上げられまい。あとは……歯車が一ついかれている。
普通はこんな壊れ方をしないと思うが……これを君か、君のおふくろさんは、分解して落としたことがあるかね?」
「いえ、どうでしょう。ぼくには、思い当たる節が無くって」
「ふむ」
「でも、母は……その、素敵な人ではあったんですが、慌ただしいというか、そそっかしかったので。そういったことがあったかもしれません。
ぼくが小さな頃なんかひどくてね。眼鏡をかけながら顔を洗おうとしたり、針で指を刺したり、あちこち体をぶつけたり」
「こう言っては何だが、ずいぶん不注意な人だったのだね」
青年はばつが悪そうに背中を丸めて続けた。
「ええ、ええ。ですが、こんなのは序の口で……。例えば、ぼくが外に出ているのをすっかり忘れて、家の鍵を閉めちゃったこともありました。確か冬の寒い日でしたから、凍えましたよ。日が暮れるころになって、家に子どもがいないことに気付いたんでしょうね。青い顔をして飛び出してきまして。
他にも、ピクニックで行った山に置いていかれそうになったこともありましたし、賞味期限切れの食材を使った料理でお腹を壊したこともありました」
老人が眉をひそめると、青年は手を振って否定した。
「ああ、いえ、こういう話ばかりをすると家族関係に問題があったようですが、そうではありません。まあ、確かに、一般的に見れば複雑な家庭環境であったかもしれません。
ですが、そそっかしいところも含めて愛嬌のある、可愛らしい人でしたよ。女手一つで、ぼくのことを育ててくれましたし」
「複雑な家庭環境というのは?」
「ああ。いえ、こんな場所でお話しするようなことじゃありませんね。……ともかく、そんな母が、時折寂しそうな目で見つめていたのが、そのからくりなのです。
遺品を整理するときに見つけたのですが、どうも取っ手の部分が動かなくて。こうしてどうにか修理できないかと、持ち込んだという訳なんです」
「なるほど」
老人はそこらに散らばった工具を几帳面に並べ直してから続けた。
「どうにも、これはこの場ですぐに直すのは難しいな。やはり部品が足りないし、取り寄せようにも、これだけ古いものだとぴったり嵌るものはそう見つかるものでは無い。
一週間ほど時間をもらうことはできるかい。……それでも、必ず直ると保証することはできないが」
「……ぼくはただ、母がどうしてあのような顔をしていたのか、知りたいだけですから。直らなかったら、その時は諦めます」
「わかった。では、一週間後に」
青年が出て行くと、老人はからくりを持って、工房に下がっていった。
* * *
一週間後、そこにはピアノの美しいメロディが流れていた。
「ショパンの『幻想ポロネーズ』だな。……どこで、誰が演奏したものかはわからないが」
手巻きのからくりから流れてくるのは、どこか不安定で、しかし温かみのある音色だった。レコードという媒体から聞こえる音がノスタルジーにさせるのかもしれないし、ひょっとしたら、これを奏でた誰かの想いが現代に復活しているのかもしれない。
「在りし日の思い出を復活させたいという想いからここに品物が持ち込まれると、あなたは言いました。ぼくには、この音色に関する思い出はありません……ですが、きっと母にとっては、何かの意味がある音色なのでしょう。
そういう意味では、死んだ人の思い出を蘇らせている、ということになるのでしょうか」
「蘇ったとはいっても、どんな想いなのか、どんな気持ちなのか、我々には想像することしかできんがね。だが少なくとも、こうして聴くことはできる」
からくりが止まると、青年はからくりを手にして、ぺこりと礼をした。
老人が興味無さそうに工房の方に向き直ると、青年はその背中に向けて言った。
「このからくりは、母の仏壇に供えようと思います。たまには、この音を聴きたいかもしれませんから。……この度は、ありがとうございました」
青年が出て行くのを横目で捉えると、老人はそそくさと工房に戻っていった。
* * *
「よき親であろうと、努めてきました。ああ、でもそれはもう、限界なんです。ああ、憎い、憎い。憎くて憎くて、もう、この身震いを抑えることができません」
工房では、女が独白していた。
「私が、そういう体だと知りながら……あんたは、素性も分からない女と作った子を連れ込んで、責任も取らずに逝ってしまった。身勝手でいい加減で。結局最期までそうだった。
私に、この子をどうしろというのですか。この子の眼差しから、私はあんたの面影が感じられない。ならばこの目は……。考えるだけで、不快で胸がいっぱいになります。
私は、この子を殺してしまうかもしれない。そうなったとて、私のどこに責任が? あろうわけもありません。これまでに何度も、その暗い気持ちを抑え込んできました。
次はもう、だめかもしれません。ああ、憎い。この笑顔が、この声が、全てが憎た……」
老人が針を上げると、女は独白をやめた。
小さなターンテーブルの上で、ぼろぼろのレコードが回転している。
老人は思いを馳せた。からくりの玩具には、壊れそうになりながらもその役目を全うするものがある。
この声の主もそうだったのだろう。心は分解できないから、からくりと違い、壊れてしまえば簡単には修理できない。壊れた心は伝染する。歯車が壊れてしまえば、隣の歯車も止まってしまうように。
永遠の眠りについたこの想いは、復活させるべきではない。老人はレコードをつまむと、廃棄用の箱に放り投げた。
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