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昊尚が恭仁たちの対応を終えて、応接室に入ってきたところで、壮哲と大雅が向かい合わせて席に着いた。昊尚は壮哲の脇に立つ。佑崔と月季は後方に控えた。
「先程は月季が大変失礼致しました」
大雅が口調を改めて、壮哲に月季の態度を謝る。
「いや、それは別に気にしなくていい」
壮哲が苦笑すると、月季は大雅の後方で横を向いた。
「それで、頼みというのは何だろうか」
「無理を言って申し訳ありません。ちょっと公式にお願いにあがるのは差し障りがあったので」
大雅が壮哲に頭を下げた。
「実は、もし可能ならば、長古利……楊更真と話をさせていただけないかと思いまして」
意外な内容に壮哲が怪訝な顔をする。
「古利と?」
「ええ」
長古利こと楊更真は、蒼国の前王に危害を加えた罪で収監されている。現在、刑の執行を待つ身だ。
「……何があった?」
壮哲の問いに、大雅が昊尚にちらりと目線を送ると言った。
「実は、謐の郷が襲撃されたんです」
壮哲の背後で昊尚の眉が上がった。壮哲が振り向いて言う。
「昊尚も座って話に入れ」
昊尚が、失礼します、と断って壮哲の下座に腰を下ろした。
それを見届けると、大雅が話を続ける。いつもの朗らかさは鳴りを潜めている。
「襲撃してきたのは、土螻でした」
信じがたいという顔で昊尚が大雅を見る。
土螻というのは、四本の角を持つ羊のような怪物で玄海の奥深くに棲む。出会えば人を襲い、その肉を喰らう。
「郷の者たちは皆、無事なのか」
壮哲が聞くと、大雅が頷く。
「襲われた者は、角で突かれたのですが、軽い怪我で済んでいます。数も一頭だったので、若い者たちが応戦して、大した被害が出なかったのは不幸中の幸いです」
それを聞いて昊尚が安堵の息を吐いた。
「わざわざ土螻が謐の郷まで来るなんて、聞いたことがないな」
玄海には土螻などの常ならぬものがいる。だが、それらは通常、奥深くに進まないと出会うことはない。謐の郷は玄海の端で、今まで土螻などが郷近くに現れたことはない。そもそも玄海の怪物たちは暗い森で暮らし、陽の光の届く場所へは出てこない。
「そうなんだ。だから今、文陽が謐の郷に行って調べてる……」
文陽というのは、謐の郷出身の慧喬の側近だ。
沈黙が降りる。
「……それで、このことと古利はどう繋がるんだ?」
壮哲が改めて聞くと、大雅が眉間に皺を寄せて言った。
「実は……襲ってきた土螻は、何者かに命令されているように見えた、と言っている者がいます」
「馬鹿な……」
昊尚が思わず呟いた。
「土螻のような怪物は人の言うことは聞かないはず」
「わかってる。だが、土螻は突然引き上げて行ったらしいんだが、側に誰かいたようだと言うんだ」
「誰か、って?」
大雅が首を振る。
「それはわからない。我々も人が怪物を操って襲わせるなんてことがあるのか、と思ったが、少し似たような話があったなと思って」
大雅と昊尚のやりとりを聞いていた壮哲が唸った。
「……それで古利か……」
前王の騒動の際に、監禁されていた縹公を助け出そうと壮哲らが宮城に忍び込んだ時、禁苑で執拗に野犬に襲われた。それらの野犬は古利に操られていたのだ。
大雅が壮哲に向き直り、言った。
「そうです。古利がその術をどこで修得したのか、他に誰かそういったことができる者がいないか、それが知りたいのです。直接話ができないのであれば、古利を取り調べた際の調書でも結構です。見せていただけないでしょうか。……謐の郷の存在を知る者は僅かで、紅国でもその存在を公にはしていません。それでこちらに公式に申し込むのは差し障りがあるので、こんな形でお願いにあがりました」
昊尚が壮哲に言う。
「古利の調書に誰に、というのは書いてあったと思いますが……」
「……直接話した方がいいだろうな」
壮哲が頷いた。
窓のない部屋で待つ大雅の元へ、牢番の兵士に連れられて手を拘束された古利が入ってきた。部屋には他に月季、昊尚と佑崔が控える。
紅国の貴人が話を聞きたがっていると言うと、古利はすんなりそれに承諾した。
古利はすっかり憑き物が落ちたようにさっぱりとした顔をしていた。相変わらず表情は無いが、以前のような不穏な空気は感じられない。
大雅が向かいの椅子に座るように促す。
「私に、何をお聞きになりたいのですか」
椅子に静かに腰掛けた古利が淡々とした口調で言った。
「じゃあ、早速聞くね。君は触れた人に暗示をかけることができるよね」
大雅が柔和な口調で話し始めると、古利は「はい」と縛られている手を見て頷いた。
「それは、誰かに教わったのかな」
聞かれて古利は何度か瞬きをした。
「……触れた人に影響を与えるというのは昔からだったようです。ですが、それと自覚して自分で意図して使うようになったのは、随分後のことです。……父が捕まって、一人になってしまった後に出会った人が教えてくれました」
「その人の名前を教えてくれないかな」
古利は大雅の意図を探るようにじっと見て答えた。
「辛先生……そう呼んでいました。……辛受叔という人です」
大雅がその名を復唱する。
「……その人は、どういった人なの?」
「辛先生は……とても博識な方でした。初め、仙人なのだと思ったのですが、修行はある程度したが仙人ではないと言っていました」
「どうやって知り合ったのかな」
古利は記憶を探るように目を細めた。
「母たちと離れ離れになって、一人で途方に暮れていたところをある屋敷で下男として雇ってもらいました。しばらく働いていたんですが、そこの娘を誑かしたとか言われて、叩きのめされて追い出されたところを辛先生に拾ってもらったんです。そこで世話になっているうちに、辛先生が私の力に気づきました」
「それで、その力の使い方を教わったと」
「……と言うか、辛先生と一緒に試しながら使い方を覚えた、と言った方が適切です」
言ってから古利は手をじっと見つめた。
「……辛先生に会わなかったら、自分がそんな力を持っているなんて気付かなかったと思います」
大雅は、なるほど、と呟くと聞いた。
「君は、動物……野生の獣なんかも同じように言うことをきかせることができるんだよね」
「ええ」
「それも、その時に?」
「そうです」
大雅が、ふう、と若干の緊張を逃すように息を吐き、最も知りたいことを聞いた。
「辛という人も獣を操ることができたのだろうか」
しかし、古利はあっさりと言った。
「いえ、辛先生は動物を手懐けることが上手でしたが、言うことを聞かせるまではできなかったと思います」
「そうなんだ……」
古利の答えに僅かに失望しつつ、気を取り直して聞く。
「辛氏は何処に住んでいるのかな」
古利は訝しむ目で大雅を見た。
「……紅国と墨国の国境辺りに庵がありましたが……。でも、それはもう何年も前のことなので……」
「もう何年も会ってない?」
「はい。ちょっと、辛先生と意見の相違があって……先生の元を出てしまったので」
「何があったの?」
古利は気まずそうに言った。
「……しばらくすると、……魔物なんかを手懐けてみろ、と言われて……」
卓の上で組んだ大雅の手がぴくりと動いた。立ち会っている昊尚も息を呑む。
「その、辛氏は魔物たちを手懐けて何をしようとしてたのか聞いていた?」
「それは聞いていません」
大雅は少し考えると、持ってきていた地図を広げた。
「その人が住んでいた所ってどの辺りかな」
古利が考えながら指で示す。謐の郷とは反対側の玄海に遠くない位置だ。
「辛先生に何かご用ですか」
考え込む大雅に古利が怪訝な顔で聞いた。
「ああ、ちょっと聞きたいことがあって」
大雅は言葉を濁すと、いつもの朗らかな笑顔を作り直した。
「ありがとう。とても参考になったよ」
古利から話を聞き終わると、大雅たちは急いで紅国へ帰って行った。
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