二年仲夏 鹿角解つ

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*  翠国の皇太子一行が帰国することになった日は、朝から小雨が降っていた。  英賢は出発前のひと時、奏薫を宮城の庭園に誘った。  蓮池のほとりに建つ木亭(あずまや)からは一面に広がる蓮が見渡せる。立体的に敷き詰められたような葉の上に、花弁(はなびら)の先がほんの少し薄桃色に色づいた白い蓮の花が、立ち上がるように咲いていた。  そぼ降る雨に濡れて静かに佇む蓮の花の姿は、どこか物悲しくもあったが、灰色の空の下でも凛として見えた。 「綺麗……」  木亭で立ち止まり思わず奏薫が呟いた。 「今朝、この蓮の花を見て、柳副使を思い出したんですよ」  そう言いながら、英賢が木亭の(きわ)まで進むと、奏薫も少し間を空けて英賢の横に並んだ。 「泥水の中からでも、真っ直ぐに伸びて咲く蓮の花は貴女に似てる」  そう言って英賢が横を見ると、戸惑いがちに見返す奏薫と目が合った。  英賢はその青灰色の瞳にしばし見惚(みと)れた。  奏薫が翠国へ帰ってしまったら、しばらく会うことはないだろう。  そう考えると、胸の奥がチリチリと痛んだ。  今なら、奏薫は手の届くところにいる。  しかし、二人の間には、奏薫が置いた一歩分の距離がある。この一歩を詰めようと踏み出せば、奏薫は逃げてしまうかもしれない。  焦ってはだめだ。  英賢は奏薫を(のが)したくなかった。距離を保ったまま、敢えて口調を朗らかにして言った。 「……それに、根は食べられて実用的ですしね。蓮には無駄にする部位がない」 「……それは、褒めていただいているのですか?」  以前よりも気安さが感じられる奏薫の返しに英賢が微笑む。 「もちろん褒めてますよ」  そして続けた。 「貴女はきっと、どんな状況であろうと、蓮の花のように何事もないような顔で立とうとするでしょう。でも、貴女の周りには、貴女を助けたいと思う者がいることを覚えておいてほしいんです」  奏薫は自分自身を無造作に扱うところがある。自分の存在への見積もりが驚くほど低い。  せめて、奏薫に味方がいることを、大事にしたいと思っている者がいることを、知っていてほしいと思った。 「私も、貴女の力になりたいと思っています。何かあったら必ず頼ってください」  奏薫はぎこちなく目線を手すりに置いた自分の手に移し、素直にこくりと頷いた。  それを見て英賢はつい笑みをこぼす。  奏薫は時折、普段の素っ気ない雰囲気にそぐわない仕草を見せる。それは英賢にはひどく愛らしく感じられた。  やはり、奏薫が帰ってしまう前に、昨日自覚した自分の気持ちを伝えておきたい、と英賢は思った。  つい先ほど焦らないようにと自戒したのに。  そう苦笑した英賢を奏薫が見上げた。  英賢は奏薫に微笑むと、青灰色の瞳を捕えて言った。 「貴女のことが好きです」   奏薫の瞳がはっきりとわかる程に揺らいだ。  ああ。やはり困らせてしまったかな。  英賢は奏薫が気に病まないようにと、できるだけさり気なく言った。 「すみません。驚かせてしまって。でも、だからどうしてほしいというつもりではありません。ただ、知っておいて欲しかったんです」  奏薫は揺れる瞳を隠すように、切れ長の目を伏せた。そして英賢の目から逃れるように俯くと、はい、と小さく呟いた。  二人は理淑が時間だと呼びに来るまで、雨に濡れる蓮を黙って見つめていた。 *  翠国皇太子の一行の出発準備が整った頃、宮城の青龍門に英賢が見送りに現れた。奏薫がそれに気づくと、一旦乗った馬車から降りてきた。 「濡れますよ」  英賢が少し驚いて傘をさしかける。雨を避けるためではあるが、傘の下での距離は一歩分より近くなった。  しかし青灰色の瞳は伏せられたままだ。  目を合わせてくれない奏薫に、気持ちを伝えたのはまずかったかな、と英賢が瞳を隠す睫毛を見る。 「また来てください。待ってます」  英賢が柔らかく声をかけると、奏薫の長い睫毛が震えた。そして、何かを言いたげに見上げた。  英賢と目が合うと、青灰色の瞳が揺れ、白い頬がほんの少し薄桃色に染まった。  それはまるで、今朝見た蓮の花のように英賢の目に美しく映った。  思いもしなかった奏薫の表情に英賢は胸を衝かれた。 「……奏薫殿……」  英賢が初めて奏薫の名を口にした。  その時。 「兄上!! 危ない!」  理淑の声に顔を上げると、大男が剣を持ち、直ぐそばに駆け寄って来たところだった。 「延士!」  奏薫が目を見開いた。 「おのれ! 奏薫!!」  目の血走った大男が奏薫に向かって剣を振りかぶった。  英賢は傘を男に向かって投げつけ、咄嗟に奏薫を自分の体で覆った。  斬られる。  覚悟してそれを待つ。  しかし、耳をつん裂く金属のぶつかる音が背後で響いただけで、衝撃は襲って来なかった。 「理淑様!!」  佑崔の叫び声が聞こえた。  振り向くと、英賢の背後で理淑が大男の剣を受けていた。  しかし、受けた体勢が不安定であったのと、角度が悪かったのだろう、理淑の細い剣がばきりと折れた。そして、折れてもなお襲ってくる相手の剣を避けようとした理淑の肩口と脇を、その刃がざくりと切った。  理淑は低い唸り声を上げながら、なおも体をひねって手に残っていた折れた剣で大男の首筋に切りつけた。  短くなった理淑の細い剣が急所に届いた。  大男は獣のように咆哮すると、首から血を吹き出しながら、どう、と倒れた。  理淑は大男が倒れるのを目で追いながら、自身も崩れ落ちた。  一瞬の出来事だった。 「理淑!!」  英賢が目の前で起こった事から我に返ると、倒れた理淑にすがりついた。  理淑の名前を呼びながら抱きおこす。佑崔がそこに駆けつけた。  翠国の護衛がようやく倒れた大男を取り囲んだ。  (こま)かかった雨が、打ち付けるように激しくなった。 「……兄……上、大丈夫……?」  返り血と自身から流れる血で染まった理淑が顔を歪めながら、英賢の無事を確認しようとする。  降り注ぐ雨が地面に血だまりを広げる。 「何言ってる! 私のことよりも……理淑……!!」  傷口から流れ出る理淑の血を止めようとして英賢が取り乱す。押さえても血は流れ続ける。  佑崔が跪き、青い顔で傷口を見た。  理淑は英賢の腕の中で、真っ白な顔に脂汗を浮かべてうとうととし始めた。 「理淑様!」  佑崔が理淑の名を呼ぶと、視線が佑崔の方へ彷徨った。  重そうに瞼を持ち上げて、焦点の合わなくなった目で佑崔を見つけると、へへ、と弱々しく笑いかけた。 「……失敗……しちゃった……。……ちょっと……まずい……かも」  そう言って、そのまま理淑は意識を失った。
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