二年仲夏 蝉始めて鳴く

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二年仲夏 蝉始めて鳴く

 理淑は太医署に運ばれた。  英賢は、理淑が医官たちに手当されるのを見ていることしかできない自分に苛立ち、気持ちばかりが焦った。治療台に寝かされた、意識のない理淑の白い顔を見て、手と足の震えが止まらない。  壮哲の執務室にいた昊尚や縹公らが急ぎ足でやって来た。 「理淑は?」  理淑を小さな頃から我が子のように可愛がってきた縹公が真っ先に聞いた。厳つい顔が更に険しくなっている。 「……出血が酷くて……」  英賢は言葉に詰まり、医官たちに囲まれた理淑を振り返る。震えが止まらない手をもう片方の手でぎゅっと掴んでみるが、麻痺しているのか感覚がない。 「……大丈夫だ」  縹公の大きな手が英賢の肩をたたいた。  壮哲も力強く頷く。壮哲にとっても理淑は妹同然の存在だ。心配しているのが顔色からもわかる。 「理淑を信じましょう。うちの医官たちは腕が良い。最善を尽くしてくれます」  英賢は昊尚の言葉に頷くと、感情が漏れ出さないように奥歯を噛み締めた。  理淑から目を離したくはなかったが、治療の邪魔にならないように隣室で待つことになった。英賢は理淑のいる部屋へ続く扉の前に立ったまま動かない。 「英賢殿、雨に濡れたままでは身体に障ります」  昊尚が着替えるように言っても、英賢は、せめて手当てが終わるまで、とその場を離れようとしなかった。  医官たちの処置が続く。傷が大きく、出血も多いため、かなり手間取っているようであった。  待つしかできず、じりじりと焦りばかりが積もっていく部屋に、範玲が青い顔で駆け込んで来た。 「兄上、理淑は……? ……き……斬られた……って……」  史館から走って来たのだろう。苦しげに息をついている。英賢を見つけると、転びそうになりながら英賢の袍を掴んだ。 「……今、治療を受けてるんだ……」  袍を掴む範玲の手が震えているのに気づき、英賢は可能な限りいつもの口調を心がけた。 「……り……理淑……は、……大丈夫……ですよね……」  範玲が瞬きもできないで英賢を見上げる。碧色の瞳が恐怖で揺れている。  英賢は範玲の肩を安心させるように撫でた。 「当たり前じゃないか。……あの理淑だよ……大丈夫に決まってる」  英賢が呪文のように何度も自分に言い聞かせている言葉だ。"万が一"のことなど考えようものなら、おかしくなってしまいそうだった。  英賢は気を失いそうな範玲を椅子に座らせた。隣に座って範玲の肩に手を回す。範玲を落ち着かせようとすることで、英賢は理性を保つことができた。  無言で待つ時間が過ぎる。  永遠にこの時間が続くかと思った頃、扉が開いた。太医署の年配の医師が顔に疲労の色を濃くして現れた。 「……理淑は、どうですか……」  英賢が聞きながら、医師の肩越しから中を覗く。理淑は顔を横にしてうつ伏せに寝かされていた。こちらを向いている理淑の目は閉じられていた。不意にこめかみが冷たくなる。 「…… 傷口は縫い合わせることができました。出血はこれで取りあえず止まるはずです。肋骨も折れていましたが、幸いにも内臓には損傷がないようです」  医師が静かに言った。  英賢は目を瞑って大きく息を吐く。範玲は嗚咽を漏らした。 「……もう理淑は大丈夫なのですよね」  範玲が涙を(こぼ)しながら恐る恐る聞くと、医師は眉間に皺を寄せた。 「今できることはいたしました。ただ、……出血が多かったのが気になります。傷も化膿しないように気をつけないといけません……」  ずっと意識をなくしたままの理淑を振り返る。 「あとは目を覚ましてさえくだされば……」  苦い顔で呟いた。  理淑は治療を受けた部屋から別室に移された。  寝台の上に意識なく横たわる理淑は、とても小さく見えた。いつも快活で屈託がなく、いるだけでその場を明るくした理淑とはかけ離れた姿に、皆少なからず動揺した。  血色の良かった頬は白く生気がない。  その頬には拭いきれていない血がまだ少しこびりついて残っていた。範玲が理淑の頬を濡らした手巾で拭い、綺麗になった頬を撫でる。  身体の横に置かれていた理淑の手を取ってみると酷く冷たかった。範玲は理淑の手を摩りながら名前を何度も呼んだ。英賢や壮哲たちも理淑に呼びかけた。  誰が何を言っても理淑からは何の反応も返ってこなかった。  もしかしたら、と範玲が右の耳飾りをとって理淑に触れた。しかし、理淑の意識は何も感じることができなかった。  傷の縫合をするのに阿片を使用しているから、そのせいでまだ目を覚まさないのだ。そう思うことにした。  英賢は範玲のことを昊尚に任せると、雨に濡れたままの衣服を着替えに行くことにした。  廊下に出ると、少し先に(うずくま)る人影があった。その人影は、英賢に気づくと、ふらりと立ち上がった。  真っ青な顔をした奏薫だった。 「……妹君は……」  声が震えている。 「ずっとここにいたんですか……?」  英賢が狼狽して歩み寄る。  奏薫は恭仁たちと一緒にいるとばかり思っていた。理淑が斬られた時に、気が動転していたとはいえ、そのまま置いて来てしまったことを後悔する。 「……傷は縫合してもらいました。だから…大丈夫です」  それを聞いて奏薫の柳のような眉が歪んだ。奏薫は崩れ落ちるように(ひざまず)き、床に額を擦り付けた。 「……申し訳ありません……」  掠れて震える声が搾り出される。  英賢は慌てて膝をつくと、奏薫の震える細い肩に手を置いた。奏薫もあの時の雨に濡れたままで着替えてもいないようだ。 「お願いですから顔を上げてください。怪我はしていないですね? よく顔を見せてください」  言いながら自分の声も震えるのがわかった。理淑が防いでくれなかったら、自分だけでなく、奏薫の命もなかったかもしれないということを改めて思い知る。  地面に額をつけたまま動かない奏薫の顔を上げさせた。青白い頬に雨に濡れて張り付いたままの髪を払おうとすると、触れたところに褐色のものがついた。 「……あ……すみません……」  英賢が自分の手を見て、血がついてそのままだったことに初めて気付く。理淑の血なのだろう。改めて見ると、血が着いたのは手ばかりではなかった。  動揺する英賢を目にして奏薫の顔が歪んだ。 「……私のせいです……。申し訳ありません……」  理淑を斬った大男は、奏薫の従兄弟の柳延士だった。襲いかかって来たときに、奏薫の名を叫んでいた。 「ちがう。貴女のせいじゃない」  英賢が断言するが、それも効果がなかった。 「私などの代わりに……何とお詫びをしたら……。本当に……申し訳……ありません……」  掠れた声で何度も謝る奏薫に、英賢は胸が痛んだ。  理淑が斬られてしまったのはあってはならない事ではあるが、奏薫が無事で良かったと心から思っている。こんな風に奏薫に自分を責めさせたくはなかった。 「そんなふうに言わないでください。私は貴女が無事で本当に良かったと思ってるんですから。……顔を上げて。理淑は大丈夫です。とても強い子なんです。……貴女も濡れたままでは身体を壊します。着替えないと」  英賢が奏薫を立たせようとしているところに、恭仁が奏薫を探す声がした。 「奏薫……! ここにいたのか……! 大丈夫なのか……!?」  床に座り込んでいる奏薫を見つけて駆けてくる。英賢もいるのに気づくと慌てて聞いた。 「碧公……妹君は……?」 「……手当が済んで今眠っています」  英賢は奏薫がこれ以上自分を責めることがないように、理淑の状態については少々端折って言った。 「……本当に……申し訳ありません。そもそも延士は翠国で拘束されていたはずなんです……。それなのに……。こんなことになってしまった原因は、必ず突き止めますので……」  恭仁が唇を噛んで言った。 「……何故、柳副使を追って来られたのか、ですね……」  英賢が呟いた。  その言葉を聞いて、奏薫が何かに気付いたようにその肩がぴくりと動いた。そして、顔を上げ、中空を見つめる。 「……柳副使?」  英賢が声をかけても、奏薫は身じろぎもせず何かを考えている。 「……まさか……」  奏薫は微かな声で呟くと、床についた手をぎゅっと握りしめた。 「どうしました……?」  心配して英賢が奏薫の顔を覗き込むと、青灰色の瞳と合う。  その瞳は、泣き出しそうなのを必死で我慢しているように見えた。
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