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気がつくと、英賢の足は理淑のいる部屋へ向いていた。
たどり着いた扉を開けると、理淑は昼休みで来ていた範玲と楽しそうに話をしていた。それを目にして英賢はほっと一息つく。胸の痛みが少し和らいだ気がした。
「兄上」
理淑が英賢に気づき、何かを期待した目で見た。
「あれ? 兄上だけ?」
しかし、英賢の背後に目をやって理淑が当てが外れたように言う。
「ん? どうして?」
範玲の横に座りながら英賢が聞くと、範玲も目を瞬かせている。
「柳副使がいらしてたのをお見かけしたから、てっきりご一緒だと……」
英賢は先ほどえぐられた胸が再び痛みだすのを誤魔化して、平静を装う。
「ああ……。柳副使は昊尚のとこに話があって行ったよ」
「この間のこと何か分かった……ってて」
理淑がつい無造作に身を乗り出して傷に障る。
「大丈夫かい?」
顔をしかめる理淑に英賢が手を差し伸べる。
「だ、大丈夫。……それよりどうだった?」
英賢は奏薫から聞いたことを、できるだけ自分の感情を切り離して語った。
「何それ、最低」
話を聞き終えると、理淑が心底嫌そうな顔で言った。
「……柳副使は大丈夫ですか……?」
範玲が心配そうに眉を顰める。
「……ああ……」
英賢は言葉を濁した。
全く大丈夫ではないだろうと思うのだが、奏薫は英賢にこれ以上立ち入らせてくれそうになかった。
先ほど奏薫を引き止めなかったことは、英賢の心の奥にしこりとして残っている。
「……柳副使には後でお会いできますか?」
範玲が浮かない顔の英賢を覗き込む。
「いや……報告をしたら……帰ったんじゃないかな……」
「え?」
理淑と範玲が同時に声をあげた。
「もう?」
「……柳副使もお忙しいんだよ」
「そうなんだ……」
がっかりする理淑に、英賢は複雑な表情で微笑んだ。
その英賢を範玲が首を傾げて見る。
「あの……兄上、柳副使とお話ししたのって、その事だけ?」
範玲が探るように聞く。
「……そうだよ?」
理淑と範玲が顔を見合わせる。
「兄上、よかったの?」
「何がだい?」
腑に落ちないという顔で聞く理淑に、英賢が微笑んで返す。いつもの優しい笑顔だが、どこかぎこちないのを理淑も感じている。
「柳副使はもう帰ってしまったんですよね」
「柳副使の国は翠国だからね」
「そういうんじゃなくて」
はぐらかすように言う英賢に、理淑がもどかしそうに自由に動く方の右手で布団を叩く。
「あの、兄上と柳副使は、その……」
理淑の後を引き取ってみた範玲だが、何と聞けば良いのかと言いあぐねる。すると回りくどい言い方が苦手な理淑が、我慢できずに口を出した。
「ああ、もう聞いちゃう。兄上は柳副使が好きなんでしょう? 柳副使とはどうなったの?」
理淑の直截な言い方に英賢が面食らう。範玲がそれをはらはらして見る。
返事を催促する理淑の眼差しに、英賢はつい窓の方へと視線を逸らした。
「……柳副使とはどうにもなっていないよ……。第一、あんなことがあったんだ。柳副使も深く傷付いてるし、それどころではないだろう。……理淑が怪我を負ったことにも、とても責任を感じてる。……思い出すのは辛いと思うよ……。……理淑だって……」
歯切れ悪く、言い訳じみた物言いだ、と英賢は思った。
しかし、英賢が理淑のことを心配しているのも本当だった。
理淑は禁軍の兵士ではあるが、まだほとんど実戦を経験していない。今まで人に致命傷を与えたこともなかったはずだ。
理淑には心から感謝する一方で、あんなことをさせてしまった、とやり切れない気持ちでいる。
「兄上」
理淑の声に呼ばれて視線を戻すと、その目が英賢を真っ直ぐに見ていた。
「……あのね、私ね、兄上が斬られそうになってたから、ああするしかなかったと今でも思ってる。でもね……あいつの命を取ってしまったこと、思い出すと、怖くて手が震えるんだ」
理淑が自分の手を見る。
「……だけど、私は蒼国や大切な人たちを守るために羽林軍に入ったんだよ。いつかそんな時が来るかもしれないとは覚悟してた。……私は、兄上と柳副使を守ることができたんだから、後悔なんてしてない。それに、また同じようなことがあったら、やっぱり同じようにする。だから、私のことは心配しなくていいよ」
手元から上げた理淑の揺らがない目が英賢を射る。
英賢は、自分が思っていた以上に、理淑が覚悟を決めて羽林軍に入ったことを知った。
あの事件に怯えているのは、理淑ではなくてむしろ自分なのだ。
……では奏薫は……?
英賢が奏薫のことを名前で呼ぶと、奏薫は怯えた目をする。
あの時、奏薫を名前で初めて呼んだ直後に、延士に襲われた。だから英賢が奏薫の名を呼ぶと、何か酷いことが起こる前触れだと無意識に思ってしまうのかもしれない。
だとしたら、自分が近づくことは、奏薫の心に大きな負担となるに違いない。
英賢は奏薫に、美しい礼で静かに拒絶されたのを思い出す。
……理淑の期待には応えられないだろう。
胸の痛みに耐えながら、英賢は言った。
「……でも、柳副使は私とはもう関わりになりたくないんだと思う」
「そう柳副使が言ったの?」
理淑が真っ直ぐな目で英賢を見る。
「……いや……そうじゃないけど……」
「じゃあ、どうして? 柳副使が兄上のことどう思ってるかは聞いたの?」
そう言っておいて、理淑は英賢が答える前に、はっと何かに思い当たったように目を大きく開いた。
「……もしかして、私が従兄弟のあいつを斬ったこと、柳副使は怒ってるの? それが原因?」
理淑が青ざめる。
「それはないよ」
延士が亡くなったことに関して、従兄弟でもあるし何かしら思うところはあるだろう。しかし、奏薫が終始心を痛めていたのは、理淑が斬られたことの方だった。
あれは決して上辺だけの態度ではなかった。
石の殻が割れたのだ。
「じゃあ、どうしてそんなこと言うの? ……何か兄上らしくない」
理淑がもどかしそうに天井を見上げた。
英賢も理淑の言うとおりだと思った。
”優しげな見た目と違って抜け目の無いやり手”。
英賢はよくそう評される。しかし、奏薫に関してはどうしても普段どおりにできなかった。
慎重に……臆病になっているのは否めない。青灰色の瞳に怯えた色を見つけると動揺してしまうのだ。
本当に奏薫が嫌だと思っているのならば煩わせたくはない。身内にああも酷い目に遭わされた奏薫を、これ以上傷付けるようなことだけはしたくなかった。
「兄上。柳副使って、どんな方ですか?」
黙って二人のやり取りを見ていた範玲が、真面目な顔で聞いた。
「兄上が好きになった柳副使って、どんな方なんですか?」
重ねて問われて、英賢は改めて、あの自分の感情を表さない翠国の女性官吏を想った。
石柳などと呼ばれて冷たい印象を与えるが、実は全くそうではない。
他人ばかりを優先させて、簡単に自分のことを疎かにする。自分の気持ちは二の次にすることを当たり前だと思っている。本当は誰よりも他人に気を遣う。
感情を殺すことが得意な奏薫が、ぼろぼろと溢れる涙を拭いもせずに不器用に泣く姿を思い出す。
割れた殻の中の奏薫は英賢を避けなかった。
延士に襲われる直前に見た奏薫が目に浮かぶ。
頬を染めて自分を見上げた奏薫は、なんと言おうとしていたのだろうか。
奏薫が自分に好意を持ってくれているのだとしたら。英賢と距離を置こうとするのは、英賢とは関わりたくないからではなく、他の理由なのだとしたら。
もしそうだとしたら、このまま何もせずに奏薫を翠国に帰してしまうのは、酷い失策なのではないか。奏薫の意図どおりにすることは、むしろ結果的に奏薫を傷つけることになりはしないか。
……自惚れてもいいのか……?
もやもやとした思いに囚われて考え込む英賢に、範玲が言った。
「兄上。私たち、とても嬉しかったんです。兄上が柳副使と一緒にいるとき、すごく優しい目をしてらしたから。いつも私たちばかり優先していた兄上に、大切な方ができたって。……兄上が私たちのことを想ってくださるのと同じくらい、私たちも兄上に幸せになってほしいんです」
範玲が理淑と顔を見合わせて頷く。
範玲達の気持ちはとても嬉しかった。しかし、奏薫に踏み込んでいいのか、英賢はまだ決心がつかない。
「……うん……」
煮え切らない英賢を、理淑と範玲がもどかしげに見つめる。
「兄上」
励ますように呼びかけられて、英賢は眉を下げた。
「少し頭を冷やしてくる」
そう言って部屋を出たところに、何故か理淑のためのものと思われる食事を持った昊尚がいた。
何をしているのかと英賢が聞く前に、昊尚がにこやかに言った。
「私には、自分を律するべきなのは時と場合による、と言っていましたよね」
以前、昊尚が範玲の気持ちに自分が応えていいものかと二の足を踏んでいた時に、英賢が昊尚に言った台詞だ。
「何のこと?」
念のため英賢がとぼけてみる。
「わかっていますよね。柳副使のことですよ?」
笑みを浮かべたまま言う昊尚に英賢が眉を下げる。
「盗み聞きとは趣味がよくないね」
「たまたまです。少し戸が開いてたから聞こえただけですよ」
しれっと言う昊尚の横を英賢がすり抜けようとする。
「そういえば、聞いていますか? 柳副使、辞めるそうですよ」
英賢が立ち止まる。
「辞めてどうするって?」
「さあ。何処か静かな場所で暮らすと言っていたような」
とぼける昊尚が更に言う。
「もう柳副使にお会いするのはあれが最後だったのかもしれませんね」
英賢の苦笑いが溢れる。
「昊尚、それは仕返しかい?」
「とんでもない。背中を押してるんですよ」
昊尚が笑った。
「このまま逃したくなければ、追いかけた方がいいと思います」
英賢は再び苦笑した。
「それは同感」
そう言うと、英賢は皇城の出口の青龍門へと急いだ。
青龍門には既に奏薫はいなかった。門兵に聞くと、とっくに発ったと言う。
英賢は迷った後、馬を連れに戻ろうとした。
そこへ珠李が馬を引いて走ってきた。
「英賢様! この馬をお使いください!」
英賢は駆け寄ると、何故わかったのかと問う間を惜しんで有り難く手綱を受け取った。
「すまないね」
馬に跨ると、翠国への道を駆けさせた。
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