二年季夏 温風至る

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 英賢は青龍門を発って青鶯門から城外へ出ると、奏薫の乗った馬車を追いかけた。  馬車を見つけると、追い越して前に立ちふさがった。馬車は止まり、随行の兵士が緊張した面持ちで英賢の前に進み出たが、その正体を認めると驚いた顔を向けた。  戸惑う兵士と御者に手を上げて謝り、英賢は馬から降りると馬車の横に立った。 「柳副使」  呼びかけに困惑した声が返ってきた。 「……碧公……ですか?」 「そうです。突然すみません。お話があるので出て来ていただけますか」  英賢が言うと、馬車の中から「出られません」と声がした。 「では、私がそちらに行っていいですか」  そう英賢が返すと「お待ちください」と声がして、少しすると俯いた奏薫が馬車から降りてきた。 「申し訳ない。柳副使をお借りしますね」  戸惑う随行の兵士に断ると、馬車から少し離れた欅の木の元へと移動した。 「……何のご用でしょうか」  英賢が向き合うと、奏薫が目線を合わせないまま、抑揚をおさえた声で聞いた。  俯く奏薫の長い睫毛は濡れていた。鼻の先も赤い。 「泣いていらしたんですか?」 「……違います。砂が舞って目に入っただけです……」  奏薫が目元に手をやろうとする。 「(こす)っては駄目ですよ」  そう言って英賢が奏薫の手首を握ると、奏薫は視線を避けるように顔を横に向けた。 「……離してください……」  奏薫が小さく言う。英賢が顔を傾けて見ると奏薫の目元は泣き腫らしたそれだった。今砂が入って涙が出たようなものではない。 「奏薫殿」  びくりと奏薫の肩が震えた。  やはり名前を呼ぶことに反応する。 「……もう何も悪いことは起こりませんよ」  英賢が穏やかな声で言う。しかし奏薫は肩をすくめたまま動かない。  本当に自分のしていることは正解なのか。  怯える奏薫の様子を見て英賢は迷った。  しかし、このまま帰してしまうことはできない。もしかしたら、これで会えなくなるかもしれないのだから。それはごめんだ。  英賢は賭けに出ることにした。 「貴女が好きです。この間は、知っていて欲しいだけだと言いましたが、訂正します。貴女の気持ちが知りたい。私はどうしても貴女の笑った顔が見たい」  英賢の視線の先で、まだ濡れたままの長い睫毛が震えた。青灰色の瞳に涙が溜まるのが見えた。 「……駄目です……」  奏薫が手を引こうとする。しかし英賢は離さなかった。 「何が駄目なのです?」  覗き込まれるのを避けようとして動かした青灰色の瞳から、はらりと涙が(こぼ)れた。 「私のことが嫌いならば、そう言ってください」  英賢の静かな声に、奏薫の柳の葉のような眉が歪んだ。 「……駄目です……」  声は冷静さを装うが、奏薫の長い睫毛の下から涙が幾つも落ちていくのが見えた。  英賢は掴んでいる手を引いてそのまま奏薫を抱きしめた。今度は自制しなかった。  奏薫は英賢を押し返そうと抵抗した。  腕の中の奏薫は折れそうに細かった。英賢は壊してしまわないように、しかし逃さないように腕に閉じ込めた。 「……駄目です。私の従兄弟は理淑様を傷つけたのですよ」 「それを言うなら、理淑も貴女の従兄弟を斬りました」 「……駄目なんです……。本当に……」 「何故?」  駄目だとしか言わなかった奏薫が、ついにほろりとこぼした。 「私などに関わったら、不幸になります……」  その言葉に、糸口が見えた、と英賢は思った。  英賢が奏薫を抱きしめ直す。 「どうしてそんなことを」  抵抗する力が弱くなった。 「……叔父が……」  奏薫の声が詰まって言葉が途切れた。  ”お前に関わると皆不幸になるな”。  敬元が恭仁の衛兵に捕縛される際に、嘲笑って言った言葉が奏薫の耳にずっと残っていた。 「馬鹿なことを」 「……でも……」  英賢の手の下で薄い肩が震えた。 「実際に、私に情をかけてくださったばかりに、理淑様があんなことに……。……碧公が私を助けようとしたせいであんな目にあったのです……。……怖いのです。……私のせいで……碧公に何かあったら……これ以上碧公に災いがふりかかるのは……嫌なんです……」  すっかり殻の剥がれた奏薫が涙声で言う。  潮が満ちるように愛しさが英賢の胸に寄せてくる。  奏薫が距離を置こうとした理由はわかった。自惚れても良かったのだ。  もう迷う理由はなくなった。と英賢は思った。 「私を不幸にしたくないと思うのならば、私から離れて行かないでください。貴女に会えないのは私にとって不幸なのです。貴女が必要です」 「……駄目です」 「私では嫌ですか?」 「……駄目です……。離してください……」  自分の気持ちを言わないまま、同じ言葉だけで拒絶する奏薫を離してやるつもりはなかった。 「……では、嫌だと言ってください。そうしたら、離してあげます」 「……」  奏薫が黙り込む。 「……嫌だと言ってください」  英賢が優しく言った。  涙声の奏薫がぽつりと呟く。 「……碧公は……意地悪です……」  英賢は嫌だと言えない奏薫がたまらなく愛しかった。 「たまに言われます」  そう言って笑うと、大人しくなった奏薫の背中をあやすように叩いた。 「もう諦めなさい。諦めて私のことが好きだと認めてください」 「……」  奏薫の緊張が英賢に伝わる。迷っているのもわかった。  英賢は急かすことはしないで奏薫を待った。  沈黙の後、奏薫が英賢の袍をおずおずと掴んだ。 「……」  小さく何かを言った。 「ん? もう一度お願いします」  英賢が頭を下げて奏薫に耳を寄せる。 「……好き……だと、思います……」  顔を上げないまま、自信なげに奏薫が言った。 「随分頼りない言い方ですね」  英賢が小さく笑いを漏らすと、奏薫が肩をすくめた。 「……本当にそうなのか、自信がない……のです。……碧公のことになると感情が……乱れます……。……碧公に名前を呼ばれると鼓動が早くなります……。でも、また恐ろしいことが碧公に起こるのではないかと……怖くもなるのです。……碧公に迷惑をおかけするのは嫌で……どうしても嫌で……でも……もうお会いできないのだと思ったら……苦しくて……悲しくて……涙が止まりませんでした……」  訥々と口にするその言葉を一つ残らず、奏薫と一緒に抱き締めなおす。  ああ。この人を諦めた方がいいかもしれないなんて、馬鹿なことを考えたものだ。  英賢は心の中で自分に言った。  賭けに出てよかった、と心から思った。 「大丈夫です。合ってますよ。私も同じです。貴女のことになると冷静な判断ができなかった。貴女と会えなくなるのは我慢できなかった」  英賢は穏やかに言い聞かせるように続けた。 「……貴女の気持ちは確かに聞きましたからね。取り下げは認めません」  えぐられた英賢の胸は奏薫への愛しさで埋まる。 「名前を呼んでも?」  英賢が聞くと、腕の中の肩が少し緊張するのが分かった。 「奏薫殿」  言いながら固くなった肩を安心させるように撫でる。 「慣れてください」  英賢が笑うと、腕の中で奏薫は肩の力を抜いて英賢に身を預けた。  腕の中ですっかり大人しくなった奏薫との距離を、英賢はもう一歩詰めるつもりだった。 「仕事は辞めると聞きました」 「……はい……。後任が決まって、引き継ぎをしてから」 「辞めたら、蒼国に来ませんか?」  奏薫が少し考えて言った。 「……そう、ですね。……また今度……」  英賢が苦笑する。 「言い方が悪かったようです。……貴女にはずっと蒼国にいてほしいんです」  奏薫が顔を上げた。  英賢が青灰色の瞳を見るために腕を緩めると、奏薫が身を離して英賢を見上げた。英賢はようやく正面から顔を見ることができて微笑む。 「それはどういう……」 「貴女とずっと一緒にいたいんです」  奏薫は英賢の言葉をどう処理して良いのかわからず眉を顰める。  英賢は見上げてくる奏薫の腫れた目元を指で優しく撫でた。 「……本音を言えば、私は今すぐにでも貴女を連れて帰りたいのですけどね」  英賢は呟くと、奏薫の手を取り、真っ直ぐに目を見て言った。 「私の妻になってほしいのです」  奏薫の顔が強張る。 「……それは……いけません」 「どうして?」  英賢が聞くと、奏薫は目を逸らした。 「人には(ぶん)というものがあります。……私では碧公に相応しくありません」  青い顔で英賢を見ないまま言った。 「私のことを好きだと言ってくれたじゃないですか」 「……婚姻は、家の問題です……」 「何の問題もありません。私は貴女がいいと言っているんですよ?」 「……」  奏薫は唇をぎゅっと結んだまま俯く。 「強情ですね」  英賢は眉を下げると、奏薫の頬を両手で包んだ。顔をそっと上げさせて、痛みに堪えているような目を覗き込んだ。 「私は貴女がいいんです。貴女じゃないならいらない」  英賢を見つめ返す青灰色の瞳が揺れる。 「貴女がわかってくれるまで、何度でも言います。貴女じゃないと嫌です」  奏薫の長い睫毛と唇が震える。掠れた声も震えていた。 「……本当に……私でいいのですか……?」  英賢は目を細めると、奏薫を包み込むように言った。 「貴女以外には考えられないな」  再び奏薫の目からは幾粒も涙が溢れた。 「……すっかり泣き虫になってしまいましたね」  英賢は優しく言うと、奏薫をそっと抱きしめた。 * 「珠李殿? どうした?」  英賢を見送った珠李に背後から声がかかった。  珠李が振り向くと、兄の志敬の同僚の周順貴がいた。 「英賢様が柳副使を追いかけて行ったんですよ。そのお見送りです」  言って、ふふ、と笑う。  つい先ほど、理淑に食事を届けに行くと、昊尚が扉の前にいた。声をかけようとすると、昊尚は唇に指を当てて珠李のところに来た。そして声を潜めて言った。 「英賢殿のために、馬を青龍門に用意しておいてほしい」  珠李はその理由を聞いて快諾すると、理淑の食事を昊尚に預けて、急いで厩から馬を借りて青龍門にやって来た。  ちょうど引き返そうとしていた英賢に、無事に馬を渡すことができた。  間に合って良かった。  珠李は自分の働きに満足していた。  そんな珠李を見て、順貴の眉間に皺がよる。 「それって、良かったのか?」 「どういう意味ですか?」 「いや、だって、珠李殿は碧公のことが……」  順貴が言いにくそうにすると、珠李が、ああ、と溜息をついた。 「その噂、まだ残ってるんですか」  以前、長古利を逃がすために朱国の広然に利用されそうになった時に、自分が英賢の足手まといにならないように、自分が裏切り者だと思わせる発言をした。その時の”珠李は裏切り者だ”という誤解を打ち消すために、あれは実は、珠李が恋い慕う英賢を庇うために、我が身を顧みず芝居を打ったのだ、という噂が故意に流された。 「違うのか」  順貴が驚いた顔をする。 「違いますよ。英賢様のことはお慕いしていますが、そういうのじゃありません」  珠李は何度も同僚に言った台詞を、少々煩わしく思いながら口にする。 「英賢様にはお幸せになっていただきたいだけです。恋とかじゃありません」 「本当に?」  なおも疑う眼差しの順貴にうんざりとして言う。 「しつこいですよ」  珠李がじろりと睨むと、順貴は何かを言いたげに口を開けたまま固まっていた。 「順貴殿?」  珠李が声をかけると、順貴が大きく息をついた。 「何だ、そうなのか……」  順貴は視線を泳がせて、そうかそうか、と何度も呟いた。それを、珠李が不審なものを見るような目で見ているのに気づくと、慌てて口を噤んだ。  そして何か言葉を探すように再び口を開いたが、一瞬静止した後、じゃあまた、とぎこちなく手を上げて去っていった。  珠李はそれを首を傾げて怪訝な顔で見送った。
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