余話8 範玲と昊尚

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余話8 範玲と昊尚

この話の時期は「二年孟夏 苦菜秀 1」の後あたりです。 ***********************************  ある休日の昼下がり、範玲が昌健に頼まれていた本を届けに周邸を訪れると、その当人は不在だった。その代わり、珍しく昊尚が在宅だった。  昊尚に思いがけず会えて、範玲の頬が思わず緩む。  昌健へ渡してくれるように本を預けると、「茶でも淹れてやろう」と部屋へ通された。供をしてきた子常は、 「また後でお迎えにあがります」と気を利かせて一旦帰っていった。 「昊尚殿がお茶を淹れてくださるんですか」  勧められた椅子に座ると、目の前で手際よく茶の準備を始めた昊尚に範玲が驚く。 「ああ。慧喬陛下にはよく淹れさせられた」  そう昊尚が笑うと、いつもは冷たく見える目が細められて少し幼い印象になった。  ああ、好きだなぁ。  範玲はその笑顔に見とれながら、昊尚が茶を淹れてくれるのを大人しく待つ。  そういえば、と昊尚の私室に入るのは初めてだということに範玲が気づく。  昊尚らしい、無駄のないすっきりとした部屋を控えめに見回すと、窓際の小机の上の小さな細長い包みに目が止まった。包んでいるのは、花の刺繍が施された桃色の可愛らしい手巾らしきものだ。そこだけが、部屋の印象と随分かけ離れている。  あれはもしかして。  昨日、皇城で昊尚を見かけた。  その時の光景を思い出す。  昊尚が若い女官から、小さな包みを手渡されていた。  包みを受け取った昊尚は、その場で中を確認すると、一瞬驚いた後、包みを差し出した女官に微笑みかけた。微笑まれた女官は、真っ赤な顔をして何度も振り返りながら、お辞儀をして去っていった。  範玲が一人になった昊尚に声をかけると、その包みはそっと大事そうに仕舞われた。  あの時の包みだ。  べ、別に、気になるわけじゃないわ。うん。全然。  範玲は心の中で呟く。  ……あの手巾みたいに可愛らしい人だったな。  気になるわけではない、と心の中で言いながらも、包みを手渡した女官を思い出す。  何を貰ったのだろう。  大事そうに仕舞った時の昊尚の表情は、どんなだったろうか、と記憶を探る。  うう。やっぱり気になる……。 「どうした?」  ぼんやりと窓際を見ている範玲の前に茶を置くと、隣に座って昊尚が声をかけた。 「え? あ、いえ。別に」  我にかえった範玲が首を振る。 「あ、お茶、ありがとうございます」  範玲が湯呑を手にする。 「いただきます」  昊尚の淹れてくれた茶を一口飲むと、その香りと深い味は範玲の気持ちを少し落ち着かせた。 「……美味しい……」  ほう、と範玲が溜息をついた。 「何かあったのか?」  昊尚が範玲の顔を覗き込む。ちらりと昊尚を見ると、青みがかった黒い瞳が優しく範玲の視線を捉えた。  気になるなら、うじうじするよりも聞いてしまおうか。  範玲は決心して湯呑を置く。 「……あの包み……」  範玲がおずおずと控えめに指差す窓際の小机へと、昊尚の目線が移動する。 「包み?」 「あの、あれ……何をいただいたのですか?」  範玲が言いにくそうに小さく聞くと、昊尚は「ああ、あれか」と立ち上がって小机から包みを手に取り、手巾を広げて中身を見せた。  そこには折れた竹製の細い筆套(ふでいれ)があった。 「ふ……?」  可愛らしい手巾にはそぐわない使い込まれた筆套は、無残にぼきりと折れていた。 「この筆套、どこかで落としたみたいで探してたんだが、それを踏んづけて壊してしまった、と届けてくれた者がいたんだ」  昊尚が手巾の中の折れた筆套を手に取る。 「どうということのないものなんだが、長いこと使っていたから、捨てるに忍びなくて」  筆套の折れ曲がった部分を指で撫でる。 「……そう、でしたか……」  範玲は邪推した自分が申し訳なくて恥ずかしくなる。  穴があったら入りたい……。 「これが、どうした?」 「いえ。ごめんなさい。そんなこととは知らず……大事そうに仕舞われたのを誤解してしまって……」  昊尚は俯いて謝る範玲をしばし見つめ、合点がいったというように、ああ、と頷く。  顔を赤らめてひたすら恐縮する範玲に、昊尚が何かを思いついたように少し笑うと、包みを置いた。 「なるほど。誤解か」  昊尚の雰囲気が変わったことに範玲が気づく。  顔を上げてみると、昊尚が楽しそうに範玲を見ている。範玲は、自分が失言したのを悟った。  嫉妬を気付かれてしまった。  恥ずかしさのあまり、残りの茶を一気に飲むと、慌てて椅子から立ち上がった。 「ご、ご馳走様でした。帰りますっ」  範玲が足を縺れさせながら戸口へ向かう。しかし、昊尚が先回りして出口を塞ぐ。 「何をどう誤解したって?」  行く先を阻まれて立ち尽くす範玲をじりじりと壁際に追い詰めると、昊尚が範玲を壁と腕で閉じ込める。  何だかすごく嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか、と範玲が焦る。 「いえ、そんな。ご、誤解というか、勘違いというか……。昊尚殿が、女官の方から受け取ったあの包みを大事そうにしまうのを見かけて、その……。だ、だって、女官の方は可愛らしい方だったし、手巾も可愛いし、大事そうに置いてあるし……。……その……だから、ええと、ただ……」  範玲は自分が言葉を積み重ねるごとに、反対にどんどん墓穴は深くなっているのに気づき、口を噤む。 「ただ?」  昊尚が首を傾げて範玲を覗き込み、先を促す。 「……」  黙る範玲。 「ん?」  催促する昊尚。  耐えきれず範玲が消え入りそうな声で白状した。 「……少し妬いてしまっただけです……」  昊尚は完全に嬉しそうな笑みを浮かべると、そうかそうか、と言い、俯く範玲の右耳からそっと亀甲形の耳飾りを外した。耳飾りは傍の小机に置く。  範玲は昊尚の思いがけない行動にびくりと肩を震わせる。 「な、何を……」  見上げる範玲に、昊尚が微笑む。普段は冷たそうに見える瞳が細められる。  ついさっき、好きだなぁ、と思った笑顔なのに、今は不穏な予感を起こさせる。範玲の心臓がばくばくし始める。  何をするつもりなのかと身構える範玲に、昊尚が言った。 「残念だな。私の気持ちを疑った、ということだな?」  昊尚は言葉とは裏腹に上機嫌に見えた。  範玲はふるふると首を振る。  しかし。 「そうか。伝え方が足りなかったということか。それは申し訳なかった」  範玲の否定をさらりと受け流すと、壁と腕の檻に閉じ込めたままの範玲に、楽しそうに謝罪の言葉を口にする。 「あ、あの……」  先が読めず、焦る範玲の頭の中は真っ白になった。  昊尚が少し屈む。  そして、範玲の頬に昊尚の唇がそっと触れた。  その途端。 −−好きだ。  !!  少し冷たい唇が触れたところから、昊尚の感情が滝から落ちる水のように範玲に流れ込む。  真っ白だった範玲の頭の中を、あっという間に満たす。   範玲は唇を離した昊尚を混乱して見上げる。  昊尚は普段から心の中を漏らさないように制御している。だから、範玲が触れたところで、その心の中を読むことはできなかったはずだ。  真っ赤になって見上げる範玲に、昊尚が悪戯っぽい笑みを向ける。  いつも感情を覆っている心の蓋を敢えて開けて、範玲に触れたのだ。  あわあわと慌てる範玲を楽しそうに見ると、今度はもう片方の頬に唇で触れる。 −−可愛い。  耳から聞くよりも、触れた唇から直接頭の中に流れ込んできた昊尚の言葉は、甘く、破壊力があった。  昊尚の唇は冷たいのに、触れたところが火傷したように熱くなる。  範玲は動けないまま首をすくめてぎゅっと目を閉じる。逃れようにもどういうわけか身体が言うことをきかない。  昊尚が今度は範玲の額に優しく唇を移す。 −−可愛くて仕方ない。  次は右の瞼に。そして左の瞼と続ける。  優しく唇が触れるたびに、昊尚の曇りのない感情が降り注ぐ。 「……も、も、も、も、もう、わ、わかりましたから……! 伝わってます! 凄く伝わりました! だから、も、もう……」  だめだ。腰が抜ける。頭の奥が痺れる。心臓がもたない。心臓が暴走して止まる。 「…………も、勘弁してください……!」  範玲は全面降伏した。  しかし。 「いやいや。まだ伝わってないと思うな」  意地悪に微笑んで、昊尚は更に頬に、額に唇を降ろしていく。  …………!!  何とか耐えていた範玲が、声にならない悲鳴をあげて床にへたり込んでしまったところで、ごめんごめん、と言いながら、昊尚はようやく範玲を解放した。
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