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「だからね、嫌なのよ、そーいうのが!」
月季が杯を片手に、卓を、どん、と叩いた。
壮哲が杯を口につけながら、揺れた卓上の酒器を倒れないように押さえる。
壮哲の提案に乗り、羽林軍の鍛錬場を借りて月季、ついでに理淑は壮哲と手合わせをした。
壮哲のがっしりとしているのに無駄な肉のない鍛えられた身体は、即位以後、十分な鍛錬ができていないはずなのに、全く錆びついていなかった。いくら打ち込まれても、壮哲は軽くいなしたり、時に刀で受けたり、逆に連続して打ち込んだりと、楽しそうに月季を翻弄した。
「ほら。まだまだ」
壮哲の挑発に月季は歯を食いしばって食らいついてきたが、とうとう音をあげた。
「……も、降参……。何、貴方……。化け物……」
肩で息をして座り込むと、琥珀色の瞳に悔しさをにじませて壮哲を睨む。壮哲は一人で交互に理淑と月季の相手をしていたのに、軽く汗をかいただけだ。白い歯を覗かせて笑い返すと、手を差し出して月季を立たせた。
「どうも。月季殿も、なかなか筋が良い」
「言い方が、むかつくわ……」
立ち上がると、借りた壮哲の手を払う。その拍子にふらついた月季へ理淑が駆け寄り、肩を貸す。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫……」
腹立たしげに壮哲を一瞥して続ける。
「よろけたのは空腹だからよ」
強がりを言う月季に、壮哲が声を出して笑った。
「それは大変だ。何か用意させよう」
結局、月季は紅国からの賓客として、宮城内の来客用の館に滞在することになった。月季は幾分ほっとしているように見えた。
「申し訳ありません。では、よろしくお願いいたします」
昊尚はまだ急ぎの仕事があったため、月季のことは壮哲に任せることにした。
「月季、陛下にご迷惑をかけるんじゃないぞ」
「わかってるわよ。早く行きなさいよ」
横を向いて面倒臭そうに言う月季に念を押すと、昊尚は仕事に戻って行った。
夕餉には月季の希望で理淑も同席した。夕餉が終わると、月季は酒を所望した。
そしてこの有様である。
「何が嫌だって?」
壮哲が空になった月季と自分の杯に酒を注ぎながら聞き返す。
初めのうちこそ、月季は素っ気ない態度で当たり障りのない話をしていたが、酒が進むにつれて感情を露わに不平を語りだした。その状況を面白がって壮哲が更に酒を勧める。
理淑は月季に注がれた酒を少しずつ舐めていたが、うつらうつらと舟を漕ぎ出している。やはり酒には弱いらしい。佑崔に杯を取り上げられている。
「だから! 翠国の皇太子が、私を妃にしたいんですって!」
月季が不貞腐れたように壮哲を見る。
「結構なことじゃないか。翠国の皇太子と言えば、男前だと聞くぞ?」
「顔なんかどうでも良いわ」
「じゃあ、何が不満だ」
「皇太子が、この間朱国で私に会ったんですって。覚えてないけど。それで、一目惚れしたって言うのよ」
「何だ、自慢か」
「違うわよ! 私のこと知りもしないくせに求婚、って、結局私の顔しか見てないってことじゃない!」
月季が顔を歪めながら憤る。自分の顔があまり好きではない上に、その容姿のみにつられて近寄ってくる異性を最も嫌悪しているのだ。
「徐々に知ってもらえば良いじゃないか。いい奴かもしれないぞ」
壮哲が言うと、どうだか、と月季が鼻で笑う。
「どうせ甘やかされて育った軽薄な男に違いないわ」
よく知りもしない翠国の皇太子に身も蓋もない言いようだ。
「しかし、翠国は紅国ほど大きくはないが、林業の盛んな安定した国だぞ。婚姻関係を結ぶのは紅国にとっても悪い話じゃないだろう」
壮哲が理を説くと、月季は反論しようと口を開けたが、一瞬静止してそのまま肩を落とした。
普段との落差が激しいわかり易さに、壮哲が笑いそうになる。それを隠すため杯に口をつける。
「……わかってるわよ。紅国の王族として、国のためになるような婚姻を望まれているのは。うちの高官たちも、こういう話がくると、みんなして私をそれとなく諭しにくるのよ。それが鬱陶しくて……」
「それで逃げてきたのか」
壮哲が言うと、月季がじろりと睨む。
「逃げてきたわけじゃないわよ。母上……陛下は、別に無理に嫁ぐ必要はないと言ってらしたわ。それに、まだ正式に申し込まれたわけじゃなくて、打診だから断るのも簡単だって」
剣を握るには華奢な手で杯を包むように持ち、何かを見つけようとしているかのように中を見つめる。
「王族の娘の最も有効的な活用って、やっぱり婚姻なんてことはわかってる。王族としての義務があるってこともわかってるつもりよ」
月季の声が沈み、そのまま黙ってしまった。
壮哲は、静かになってしまった月季に、気休めの言葉でもかけるべきかと口を開きかけると、月季が再び卓を、どん、と叩いた。
「でもね! 王族だって好きな人と結婚してもいいじゃない! 顔じゃない私を好きになってくれた人がいいの! それなのに! 誰も彼も顔のことばっかり!」
鬱屈した思いを一気に吐き出す。
「翠国の皇太子だって、顔だけで好意を持ったわけではないかもしれないぞ」
揺れた卓の上の酒器を押さえながら、壮哲が一応とりなす。
月季は嫌そうな顔をして、杯の酒を一口呑んだ。
「そうかしら」
項垂れ気味に首を傾げて、何かを考えているようにゆっくりと瞬きをする。月季は、燭台の蝋燭の炎を見つめながら呟いた。
「……でも、どのみち私が好きじゃないもの」
それは、翠国の皇太子のことなのか、皇太子が気に入った月季の顔のことなのか。いずれにしても、壮哲には、結婚するのならば月季自身が好きになった相手とがいい、という意味に聞こえた。
壮哲は杯に口をつけながら、ちらりと月季を窺う。
燭台の光を映す琥珀色の瞳が、物思いをするように揺れた。昊尚の執務室で見た横顔と重なる。
壮哲はそのまま杯を空けると、それに再び酒を満たしながらぼそりと言った。
「……昊尚は、無理だぞ」
「……わかってるわよ」
ぼんやりと返事をしたあと、はっ、と月季が我に返る。
「……ていうか、そんなんじゃないし!」
壮哲に噛み付く。
「本当に失礼な人ね」
壮哲を睨みつけると、月季は誤魔化すように杯の酒を一口飲んだ。
そして、両の手の中に杯を包んで、中の液体を揺らす。顔を上げた月季の瞳に映る燭台の炎の光も同じように揺れた。
既に完全に眠りこけている理淑を横目で確認すると、月季がぽつりぽつりと話し出した。
「……彰高はね、いつも兄上と一緒にいて、私のことも可愛がってくれたの。どんなに私が憎まれ口をきいてもね。冷たそうに見えるのに、本当は凄く優しくて。……笑うと、目元が少し人懐こくなるのよね」
伏せた長い睫毛が、ほんのりと桜色に染まった滑らかな頬に影を作る。
「青家の人間だってことは知ってた。でも蒼国にも帰らずに、名前も変えて商人になっちゃったじゃない。ずっと紅国にいるのかな、なんて思ってた。そしたらね、兄上がねぇ、聞いてもないのに教えてくれたわけよ。耳がよすぎる夏家の県主のことを」
月季は溜息をつくと、聞こえるか聞こえないかの声で「兄上は私を牽制したのよね……」と呟き、ごくごくと杯の中身を飲んだ。
「……彰高の心の中には、ずっと夏家の県主がいたのよ。……範玲殿も大変だったんだから、こんなことを言ってはいけないんだろうけど……羨ましかった。夏家の県主はいいなぁ、って」
ぼんやり蝋燭の炎を見つめ、壮哲に聞かせるわけでもなく独り言のように続ける。
「彰高が私のことを、完全に妹だって思ってるのはわかってるわよ。それに何あれ。あの二人、見てて腹が立つ。付け入る隙なんか少しもない感じ。そんなこと朱国で会った時は思わなかったけど、あれは理淑殿だったからなのよね」
月季が眉を顰める。
「……笑った時の顔も、私に見せるのとは違ってた。あんな顔、見たことない」
ふん、と鼻を鳴らして杯の残りを吞み干すと、壮哲に向かって言った。
「心配しなくったってどうこうしようなんて気は全くないわ。今回は確認に来ただけ」
壮哲には、その言葉は月季が自分自身に言い聞かせているように聞こえた。月季にかける気の利いた言葉など見あたらない。同情や慰めの言葉などは尚更不要だろう。
壮哲は酒器を手に取ると、あえてあっさりと言った。
「そうか。わかった。まあ、呑め呑め」
月季が両手で包む杯に、とくとくと酒を注ぐ。その側では佑崔が、そろそろ呑ませるのは止めた方がいいのに、という顔で見ている。
「話くらいはいつでも聞いてやるぞ」
月季は、自分よりも随分呑んでいるくせに、全く顔色が変わらない壮哲を見る。月季は幾分眠くなってきたようでほんのりと赤くなった目元が緩んで、いつもとは違った無防備な顔を覗かせる。
「貴方って変な人ね」
まだ尚、杯を口につけながら言う月季に、壮哲も杯を空けながら、ん? と聞き返す。
「忙しいでしょうに、こんな酔っ払いに付き合って」
月季が言うと、壮哲が笑う。
「羽林軍の部下が失恋すると、こうやって酒に付き合うことはよくあったぞ」
「だから! 失恋じゃないってば! 羨ましいだけ!」
噛み付く月季に、そうだった、羨ましいだけだったな、と壮哲が混ぜかえす。
馬鹿にして、と月季が睨み、一気に空にした杯を壮哲に差し出した。
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