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二年仲夏 鵙始めて鳴く
翠国の奏薫が帰国して十数日後の夕刻、喜招堂の明遠が昊尚の元を訪れた。通常、明遠が喜招堂の業務の件で執務中の昊尚の元へやってくることはない。
ということは喫緊の案件ということだ。
「どうした」
執務室に入った明遠に声をかけると、珍しく硬い表情で昊尚を見る。滅多なことでは動じない喜招堂主人代理のその様子に、昊尚がわずかに眉をあげる。
「先にお詫び申し上げておきます。勝手なことをしました」
明遠が頭を下げた。
「その詫びの理由をまず聞こう」
頷くと、明遠は声を抑えて話し始めた。
喜招堂は翠国でも商いをしている。蒼国の記念事業用の材木は翠国から直接買い入れたが、喜招堂でも翠国の材木類を扱っている。その関係で明遠が翠国へ出向くことはよくある。
今回も、翠国へ喜招堂の商船で訪れていた。材木その他の買い付けを終えて帰国の途に就こうとしていた日の明け方、人目を忍ぶように訪れる者があった。
戸を開けてみると、そこには、大柄な男ともう一人、身を隠すように肩掛けを羽織り、黒色の面衣で顔を隠した人物が立っていた。
その姿に明遠が反射的に身構える。しかし、大柄な方は明遠の知る人物だった。
「どうされたのですか。柳様」
司農寺丞の柳敬元だった。他国からの農作物の買い付けの件で相談に乗ったことがある。
「こんな時間に申し訳ない。頼みがあって来た」
敬元は周囲を気にしている様子で小声だ。
明遠は二人を中へ招き入れると、外を検めて戸を閉めた。
戸が閉まると、敬元の連れが顔を覆っていた面衣を取った。面衣の下から現れたのは、切長の目が印象的な柳奏薫だった。敬元にとって奏薫は兄の娘、つまり姪である。
「これは一体……」
明遠は材木の商いの件で奏薫とも会うことがある。普段から奏薫は装飾品などは付けず、地味な色合いの襦裙しか身に付けないが、身だしなみはきちんとしている。しかし、目の前の奏薫は髪がほつれ、疲れきった様子だ。しかも奏薫の左頬は痛々しくも腫れていた。
「その頬は……」
明遠が言いかけると、奏薫は首を振った。気にするなということのようだ。奏薫は切れ長の目を真っ直ぐに明遠へ向けて口を開いた。
「……突然こんな時刻に申し訳ありません。不躾なのを承知でお願い致します。……私を蒼国へ連れていっていただけないでしょうか」
奏薫の少し低めの落ち着いた声が、緊張のせいか僅かに震えた。
その様子からも推し量られる穏やでない申し出に、明遠は内心動揺したが、それを表には出さず、できるだけ平静を装う。
「面倒なことでしたら遠慮申し上げたいのですが」
奏薫がその薄い唇を噛む。
「おっしゃることは尤もです。しかし、どうしても藍公にお会いしたいのです」
「……理由をお聞きしても?」
「……理由は、お聞きにならない方が良いかもしれません」
その答えで、明遠が政治的な面倒事だということを覚る。
明らかに自分の手には負えないものなのだろう。もし、奏薫に非がある場合、手を貸したことが明るみに出れば、翠国で商いができなくなるかもしれない。しかし、奏薫がこれまでの振る舞いからも、信頼に足る人物であることは知っている。
明遠は目の前に立つ二人から正解を読み取ろうと、敬元にも目線を移す。
「私からも頼む」
敬元が頭を下げる。
「お連れするのは柳副使だけですか?」
「そうだ」
明遠は、こういう時に昊尚ならばどうするだろう、と考えた。すると、自ずと答えは出た。もう長い付き合いの主ならばどうするか。
明遠は深く息を吸い込み、静かに吐き出した。
「……誰か不届きな者が知らぬ間に積荷に紛れ込んでいた、ということは……もしかしたらあるのかも知れません」
実際にはそのような不備はあってはならないが、と明遠は心の中で付け加える。
奏薫の薄い唇から詰めていた息が漏れた。
「ありがとうございます」
「いえ」
明遠は大きく息を吐き、腹を括ると、にやりと笑って言った。
「当店ではあらゆるものを商っております。今回は柳副使に”恩”をお売りすることになるのでしょう」
こうして奏薫を密航という形で蒼国へ連れて来た。
*
明遠の話を聞くと直ぐ、昊尚は喜招堂へ向かった。
喜招堂の店舗奥の私邸部分の一室で、奏薫が待っていた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
昊尚の顔を見ると、奏薫が立ち上がって頭を下げた。
「一体、何があったのですか」
昊尚が奏薫に座るように手を差し伸べ、自分も向かいの椅子に腰掛けた。
奏薫の頬は、腫れはほとんど引いているものの、色が変わり痣になって残っていた。その痛々しさに昊尚は眉を顰める。
「その怪我は……大丈夫ですか」
「見苦しい姿で申し訳ありません。……明遠殿に手当てしていただいたので大丈夫です」
奏薫は頬を咄嗟に隠すように左手を当てる。触れると痛いのだろう。綺麗な眉間に僅かに皺が寄った。
一つ息を吐くと、仕切り直すように奏薫は昊尚を真っ直ぐ見た。
「先日の木材の件では、大変ご迷惑をおかけいたしました」
奏薫はまずそれを謝り、再び頭を深く下げた。そして顔を上げると、珍しく緊張の面持ちで続けた。
「帰国して直ぐに代わりの材木をお送りしたはずなのですが、届きましたか」
昊尚が首を傾げる。
「……いえ、まだ届いていないようですが……」
「……そうですか……」
奏薫の瞳が厳しくなり、何かに答えを得たように頷く。
「今回、このような形でいらっしゃったのは、材木の件と関係があるのですね」
昊尚が聞くと、奏薫は目を伏せ、諦めたように言った。
「……おっしゃるとおりです。あれは……お恥ずかしいことですが……私の身内が引き起こしたものでした……」
**
翠国、正式名を橦翠国といい、大地の女神である后土神の加護を得て、恵まれた森林により林業を盛んとする国だ。蒼国より五十年程後に桐氏によって興された。
翠国が成る前にあった国では、その末期、民を重税により圧迫した挙句、王族同士の争いから内戦が起こった。戦場となった森林は焼かれ、豊かな緑の国は無残な姿に変わり果てようとしていた。
その惨状に、ある森の集落の長であった洞氏が立ち上がった。森の民をまとめ、私欲により争いを繰り広げる王族に立ち向かった。
しかし、普段、戦などしない森の民たちの軍は、初めこそ勢いがあったものの、次第にその勢力も弱まっていった。洞氏の率いる軍勢は王族たちの軍に追い詰められ、戦力もいよいよ限界という状態にまでなってしまった。
夜明けとともに攻め込むことを決め、これが最後の戦いになるだろうと覚悟した夜、洞氏は陣営のある焼けた森を一人歩いた。
森の民として生きてきた洞氏は森を守れなかったことを悔いた。無残な姿になってしまった森の中で涙を流し、焼けた木々に詫びた。
焼けてしまった木々の中に、一本の梧桐が緑の葉をつけているのを見つけた。洞氏が近寄って見上げると、その木には鳳凰が静かに佇んでいた。
鳳凰はじっと洞氏を見下ろしていた。その目は責めているようにも憐れんでいるようにも見えた。
洞氏は縋るような気持ちで、鳳凰に力を貸して欲しいと呼びかけた。
すると、目が眩むような光とともに、洞氏の目の前に后土神が現れた。
后土神は、「森林を蘇らせ、守っていくと誓うのならば、力を貸そう」と洞氏に告げた。
洞氏は森を蘇らせることを誓った。すると、洞氏の右手が熱を持ち、光に包まれた。掌を広げてみると、そこには梧桐の葉の印が刻まれていた。
后土神は洞氏に言った。「木をお前に預ける。掌の印はその証だ」と。
翌朝の戦では、攻め込んだものの逆に敵軍に追われ、森に逃げ込んだところに火をかけられた。しかし、突然大風が吹き、激しく火の粉が舞い上がった。火の粉は鳳凰の形となり、敵軍を襲った。敵兵たちは火達磨となり、逃げ惑った。
それにより洞氏の軍は大勝を収めることになった。以降、勢いに乗った洞氏は次々と他の王族をも制圧し、戦を終息させた。
そして、洞氏は后土神に賜った"木"により、姓を"桐"と改め、梧桐の葉の印を紋章として橦翠国を創立した。
掌に梧桐の葉の印を受けた翠国の王は、樹木を癒す力を持ち、焼けてしまった森林を徐々に蘇らせていった。
代々、翠国の王は桐氏が引き継ぎ、掌に后土神の加護を得た証を持つ。王の子として生まれた者のうちの一人に、梧桐の葉の印が現れる。その証を持つ者が次の王として起つことが約束される。
ただ、王の嫡男にその証が現れるとは限らない。その証はいつ、誰の腹から生まれた子に現れるのかは定かでない。
現翠国皇太子の桐恭仁の生母である柳氏は王妃ではない。
王妃の林氏にも二人の子どもがいるが、二人とも掌に証は現れなかった。ところが、下級の側妃として仕えていた柳氏の産んだ子の掌に証が現れた。
翠国では皇太子となった者は、どの妃の腹から生まれても、法の下では王妃の子となる。王妃が他の妃の腹を借りた形であるとの考え方だ。それにより、王妃の産んだ子が皇太子とならなくても、王妃の地位が保証されるように配慮されている。
生母となった妃は、我が子を三つになるまで自分の元に置くことができ、養妃と呼ばれ王妃に次ぐ位を与えられる。また、その功績としてその一族の者に出世が約束される。
ただし、生母の力が強くなりすぎないように、直接的な恩恵が受けられるのは、一族の長のみである。
奏薫の父親の柳統来は、現在、枢密院らと並ぶ重職の計相にまで登りつめている。
皇太子を産んだのは、統来の妹である。統来らの父親は既に亡かったが、統来は柳家の次男であり、一族の長ではなかった。元々、統来の兄がその恩恵を受け、太府寺の副官となった。しかし、十年ほど前に亡くなると、まだ兄の子が若すぎたため、統来がその後を引き継ぎ、そこから出世を果たして今に至る。
奏薫はその統来の最初の子である。
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