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十二月二十四日
花吹山を望む第一滑走路は珍しくひっそりとした静けさに包まれていた。
本来ならば今頃、偵察や日本軍の領域に近づいてくる敵の船舶への邀撃に向かう戦闘機で溢れかえっているそこは一機の機体の影もない。
今日は十二月二十四日。
なんでも今日と明日は敵連合軍にとって、彼らの神を祀るめでたい日なのだという。
だからなのか、ここラバウル航空隊基地でも今日の搭乗割は真っ白で、出撃の予定は一切なかった。
戦場に盆も正月もあるもんか。
その話を聞いた時、あまりにも呆れ果てて盛大にため息をついた花登由良は、そんな人気のない滑走路で、音を立てることなく歩いていた。
急遽出撃がなくなり宿舎にいたらいたでいつものうるさい奴に掴まるのが目に見えているから、午前当番だった地上用務が片付くと同時に姿をくらませるようにして第一滑走路へと足を運んできたのだ。
誰もいない見晴らしの良い滑走路を当ても無く静かに歩いていると、自らの心が凪いでいくのが由良には感じられた。
東南から吹く風がいつもより少しだけ強くて、それがひらひらと六花のような灰の欠片を静まり返っている滑走路へふわりふわりと運んでくる。
平時ならひっきりなしに空へ飛び立っていく戦闘機と絶え間なく走り続ける整備員たちによって巻き上げられ蹴散らされていく細かな灰は、今日は風に乗り遊ぶように舞っては静々と凹凸だらけの大地に横たわっていく。
ザザ……と押し寄せる波の音までも気のせいか穏やかで、十二月にも関わらず呆れる程の真っ青な空と、生命力を主張しているような濃い緑の木々が無ければどこか故郷の景色に似たような寂寞とした雰囲気が漂っている。
花吹山が一番良く見える場所まで来た時、由良は薄らと灰に染まった大地にそっと腰を下ろした。
航空眼鏡を付けると、そのまま天上を仰ぎ見るようにして背中を倒す。
普段であれば轟々とエンジンの音を響かせて戦闘機が疾駆していくその大地に身体を横たえるという不思議な開放感に、由良は肺の中の空気を全て吐き出すように深くゆっくりと息をついた。
そして首元で緩く結いたマフラーを鼻先まで覆うようにグイと引き上げ、眼鏡のガラス越しに空を真っ直ぐ見つめる。
瞬間、ひらひらと音もなく降る灰が次々に視界の中で踊るように舞い始めた。
真夏のような青の世界で決して雪は降らない。けれど今由良の目の前ではそんな存在しないはずの光景が広がっていて、一瞬ここがどこなのかわからなくなる。
目を閉じると降り続ける雪は灰色の空から溢れ落ちてきた。
『由良、風邪を引くわよ』
かけられた優しい声は誰のものだったか。
『あともう少しだけ』
鼻先を氷のように冷たく真っ赤にさせて、いつも雪の中に身体を横たえ鉛のような空を見るのが好きだった。
落ちてきそうな曇天からは信じられない程白くて小さな欠片が降りしきる。夜に深々と積もるそれは、薄暗い昼間の空では触れると消える程儚い小ささで、由良の背丈よりも高く積もるところが見てみたくて、小さな身体が震え出すまで空を見続けたものだ。
『今日もお外にいたの。そのうち睫毛が凍ってしまうわよ』
揶揄うような声音もどこか静謐で、優しくて雪のような人だと思っていた。
『ずうっとお空を見上げて、眩しいでしょう』
眩しくないよ。
だって俺は太陽を背負って戦う孤高の神鷲なんだから。
「ッ……!」
不意に凍える程寒い場所にいた時のように鼻先にツキンとした痛みが襲った。
ハッとして目を開けると、いつの間にか視界は薄く積もった灰で隠されたまだらの青に変わっている。
懐かしい、声を聞いた。
でもそれが誰のものだったのか由良には思い出せない。
雪に埋もれて空を見上げる日々はあれから少しして呆気なく終わりを迎えた。灰色で静かな由良の故郷では、ちっぽけな由良一人の食い扶持を稼ぐことも困難で、記憶も朧げな程幼い頃に奉公に出されたからだ。
だから由良にはあの声が誰のものだったのか思い出せなくて、そしてこの先も知ることはないのだろう。
でも、この青い空でたくさんの戦果を挙げればきっと由良の名前は内地の遥か北、戦争とは無縁な程の静かで雪深い灰色の土地にまで届くかもしれない。
花登の姓は奉公先の家のものをもらった。結局のところ奉公というよりは養子のような立ち位置で、記憶にある限り何一つ不自由のない暮らしをさせてもらった。
けれど雪の降らないその土地に由良が馴染むことは出来なかった。深々と聞こえないようで辺りに響く降雪の音や、どこまでも落ちそうに広がる鈍色の空がそこにはなかったから。
航空眼鏡は今や灰に覆われ、目を閉じても開けても広がるのはあの頃好きだった寒空だ。
ずっとこのままでいたいな。と唐突に叶いもしない願いが頭に浮かんで消えていった。
自分らしくもない。けれど起き上がってかぶりを振るのももったいないようで億劫で。そうしているうちにザクザクと灰と小石を踏み鳴らす足音が由良の耳に届いてきた。
由良にとって世界で一番嫌いで、それでいて誰よりも一番心を許してしまう相手だ。
一瞬いつものように素早く起き上がり走って逃げようかと全身の筋肉が微動するが、吐く息と共にその力を逃していく。
どうせ逃げても追いかけられるだけだ。それこそ由良が諦めるまで、地の果て海を越えて、空の彼方にまで追いかけてくるような男だ。
「由良、こんなとこにいたのか」
相手が答えを期待しているわけでないことは分かっているから、そのまま無言で眼前に積もったままの偽物の雪を由良は見続けた。
「お前、頭いいなぁ」
よっ!という軽やかな声の後、隣に確かな質量が同じように横たわる。
「俺も航空眼鏡持ってくれば良かった」
そしたらお前と同じ景色見れたのになぁ。さすがに灰が目に入るのはちょっとなぁ。
由良からの返答を求めないで、けれどぼやきは止めないその手の甲が僅かに由良の同じ場所に触れている。
火傷しそうなくらい熱いそれが、今はほんの少しだけ心地良いと感じてしまうのは、故郷の雪景色を思い出していたからだろうか。
「……貴様がいたら、背丈程の雪なんて決して積もらないんだろうな」
気づいたらそう零していた。記憶の中の優しい誰かが『風邪を引かなくてすむわね』と小さく笑った気がした。
「雪が好きか?」
「別に」
「お前、雪の中にいたらそのまま黙って埋もれていきそうだなぁ」
「……」
この男のこういうところが嫌いなのだ。どうして由良のそれを知っているのだろう。まるで由良のことは何でもお見通しだというような言動が、心地良くて真綿で首を絞められているように苦しい。
「……明日も搭乗ないんだってな」
言外に明日も雪を見られるぞ、とでも言われたような気がして由良はほんの少しだけ笑みを浮かべる。
「ラバウルに雪なんか降るかよ」
「そりゃそうだ」
アハハ、と笑った後に灰が喉に張り付いたのかゲホゲホと咳き込む騒々しい音が由良を寂しい灰色と雪の世界から引っ張っていく。
触れた手の甲は、まだ熱い。
『ラバウルに雪は降るか』
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