十二月二十五日

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ

十二月二十五日

十二月二十五日。 通信科が設営している非常時用拠点の薄暗い廊下を、二人の男が足早に廊下の奥へと歩いている。 一人は背が高く肩幅も広い。さながら熊のように無骨な男だ。一方のもう一人は打って変わって、少年のような幼い顔立ちと小柄な体躯をしている。 二人は来た道を振り返り、息を潜め耳を澄まして追手が来ていないことを確認すると、無言で顔を見合わせ小さく頷いてから壁の目立たぬところに付けられたボタンを押した。 すると地面と扉の隙間から紙の切れ端が音もなく現れ出る。 小柄な男がかがみ、それに素早く何かを書きつけて再び扉の向こうへ紙を滑らせた。 ガチャリ、と重々しい開錠の音がして僅かな軋み音を響かせると金属製の重厚な扉が開く。 中から扉を開け押さえているのは坊主頭で目つきの鋭い青年だ。 「八十九」 「ヨシエ」 坊主頭の男が素早く告げた数字に、名前のような謎の言葉を返したのは背の高い男の方だ。 「追手はいないか」 「ああ」 「ならいい。早く入れ」 そう言い二人を室内に入れると、扉の隙間から顔を覗かせて坊主頭の男は入念に外の様子を確認する。 「悪い、待たせたな」 と坊主頭の男がしっかりと扉を閉め、内側から鍵をかける。 鍵のかかる音を聞いた小柄な男が「ぷはーっ」と大きく息を吐きだした。 「いやいや、別に息を止める必要はないだろ」 と坊主頭の男が苦笑しつつ部屋の奥に備え付けられた机の前に座る。 「え、へへ。それもそうか」 と若干気恥ずかしげに笑った小柄な男の笑顔はあどけなく、その身に軍服を纏うには些か早いようにも見える。 「それで内藤、今日はどのくらい大丈夫なんだ」 小柄な男の背に手のひらを当て、部屋の奥へと連れながら背の高い男が言った。 「んー。まあざっと二十分ってとこだな」 あまり時間取れなくて悪い。と鋭い目つきを僅かばかり申し訳なさそうに垂れさせて、内藤と呼ばれた坊主頭の男が言った。 「いや、十分だ。なあ浩太」 背の高い男の言葉に浩太と呼ばれた少年のような男が頷き言う。 「うん。わかってるよ勝っちゃん。でも本当は一日中聞いていたいけど……」 ここに集っている三人の男たちは、南の最前線基地ラバウル航空隊に所属する新進気鋭の軍人だ。 三者三様の異なる見た目だが、実は三人とも同い年の二十歳である。 無線や暗号に長けている通信科所属の内藤と、音楽好きの複座機操縦員の浩太は二人の先輩でもある辰三の繋がりで、こうして不定期に外国のラジオから流れる音楽を楽しむ秘密の仲間だ。 浩太のペアで偵察員の勝時は大変口の固い男で、何より本人も気づかぬ程に浩太のことを大事に思っていることが内藤や辰三にも見て取れたから、少し前にその秘密の会の仲間入りを果たした。 昨日と今日の二日間は連合軍の出撃が無いということで、当然搭乗員である浩太と勝時も搭乗の予定はない。皆降って湧いた束の間の休みだと、基地全体にどこか祭りのような雰囲気が漂っており、朝から酒を酌み交わす者が大半だ。だからこそ今日はこの三人が集うのに丁度良い。 「ところでヨシエって誰のだ?」 と腕を組み背もたれにどっしりと背を預けて問いかける内藤に、浩太が「はいはい!」と勢いよく手を挙げた。 誰にも知られてはならない秘密の会だから、合言葉は二重にしている。紙に書きつける文字列とは別に、年齢の数字に合致する人名を答えるのは辰三の案だ。 内藤からラジオを聞ける日取りを聞いた辰三が、浩太の元へ行き人物の年齢と氏名を聞く。そしてそれを内藤に伝えるという仕組みだ。 「おおっ!今回は与那嶺のか!ま、まさかお前の……」 「うん!ひいばあちゃん!」 「ばあちゃんかよ!」 ガクっと座った椅子から転げ落ちるような動作をする内藤は、見た目に反してだいぶノリが良い。 「勝、お前は?」 「知ってるよ、もちろんだろ」 浩太のことなら何でも知ってる、と言外に匂わす勝時に「あー……」と鋭い内藤の目もどこか遠くなる。 「まあいいや。よし、じゃあ楽しんで聞いてけよ」 頭を振り内藤はそう言うとラジオのダイヤルを慎重に回し始めた。 ザザ…と乱れた音の向こうから徐々に音楽が明瞭になり始め、内藤の隣に座った浩太が待ちきれないといった様子でソワソワと腰を浮かす。 ラジオの向こうから聞こえてきた雑音まじりの外国の音楽は、楽し気に弾むような曲調と軽やかで透明感のある鈴の音が印象的だ。それに合わせた男女の柔らかな歌声が、どこか心ほぐれるような暖かさを醸し出している。 「これ、クリスマスの音楽だ」 浩太が心なしかうっとりとしたようにそっとつぶやく。 「クリスマス……?」 なんだか聞いたことあるようなないような。と勝時が首を傾げると、内藤が「シッ」と唇に人差し指を当てて手招いた。 「なんだよ……」 机の頬杖をついて目を閉じ笑顔を浮かべて音楽を聞き入る浩太を邪魔しないようにと、内藤がそっと椅子から立ち上がり少し離れたところで勝時に向かい合う。 「クリスマスってのはあっちの国の正月みてえなもんだ」 「……本当か?」 勝時が胡乱げに尋ねると、内藤は少し気まずそうにしつつも「ああ、間違いねえ」と言う。 「今日は向こうの神様だかなんだかの生誕祭らしくて、だからラジオでもこうしてその歌を流してるというわけだ」 「ふーん」 「ほら、次々に色んな曲に変わるだろ?それを祝う歌がたくさんあって、それだけ多くの人がそれを信じてるってことだ」 「……よく分からんが、盆踊りみたいなもんってことか?」 あれも盆にやるし、地域で歌が全然違うんだろ? と音曲方面にまるで明るくない勝時が遠いような近いような独自の解釈で内藤に言った。 「え、盆踊り?うーん、まあ、間違っちゃあいねぇけど、合ってはないような……?」 どこか腑に落ちない、といった様子で内藤が顔をくしゃりと歪めるのを横目でチラリと見て、勝時は浩太の方へ向き直った。 教会に行けば讃美歌が聞こえてくると昔聞いたことがあるが、近くに教会もなければ宗教にも特に興味のない勝時には無縁なものだ。だから讃美歌も今向こうで流行っているという曲を聞いてもそこまで胸弾むものはないが、浩太の背中から楽しい、とキラキラとした喜びに満ちた輝きが見える気がして、ふっと口元が優しく緩む。 そんな勝時と浩太の様子を、内藤は鋭い視線の中に慈しみの色を滲ませながら静かに見守った。 二十分後、組んだ腕につけた腕時計に視線を送っていた内藤が 「ほらほら、時間だ、今日はもう終いだ」 と、浩太の周りだけひっそりと華やいだ空気を敢えて壊すようにガチャン、とラジオを停止させた。 「えーっ!」 「えー、じゃない!他の奴にバレたら急降下爆撃どころの話じゃないんだぞ」 まったく肝冷やす俺の身にもなってくれ……。と内藤が短く刈り込んだ坊主頭をガシガシと掻きながら小さくこぼす。 「浩太、内藤の言う通りだ。そろそろ行くぞ」 戦時中に敵国のラジオを傍受し、その曲を聞いて楽しんでいることが明らかになった暁には、決して穏便に事は済まされないだろう。 にもかかわらず、こうして人の出払う時を計り、何度も浩太に音楽を聞かせてくれる内藤の優しさと苦労に感謝しているからこそ、勝時も楽しげにしている浩太を引っ張って通信室を後にすることができるのだ。 「うー。残念だなぁ。でも良いのが聞けた!内藤いつもありがとう」 「いいってことよ。だがあんまり期待するなよ?」 「うん、わかってる。ほんとにありがとう」 浩太も馬鹿ではないからこの状況がどれほど危険なことなのか重々理解している。それでいて元来歌が好きだからこそ、こうして異国の音楽との危険な逢瀬を止めることは出来ないのだろう。 部屋の中で「じゃあな」「また」と言葉を交わして、浩太と勝時は来た道を音を立てないように慎重に引き返して行く。 すっかり通信科の建物を後にして、浜辺へとやってきた浩太は徐に服を脱ぎ、褌一丁になるとザバザバと透き通った海の中に入っていく。 勝時は苦笑しつつ、脱ぎ散らかされた服と靴を波の届かぬ場所に移動して、その隣に自分の服と靴も置いていく。 そして浩太の後を追うようにザブザブと波を掻き分けると、既に仰向けに浮かんだ浩太の横に立った。 ザァ…ン……。 しゅわしゅわしゅわ。 ちゃぷ。 打ち寄せる波の音の中に、声を潜めながらも弾む浩太の歌声が勝時の耳に届いてくる。 ……うぃんた、わんだらん さんたっ、くろーじず…… 照りつける太陽は高く、当然ながらこんな時間に海で行水する者などいない。 浩太は時折、ラジオを聞いた後に耐え切れなくなり海へと繰り出しそして歌を歌う。 元々歌が好きなことや、士官学校に志願する程学業に精通していたこと、そして辰三の影響により浩太はそこいらの文官よりもだいぶ外国語を器用に話す。 そのせいか先ほど聞いたばかりの曲をもう幾つも口ずさんでいる。 「……浩太」 歌の切れ目に声をかけると、 「クリスマスって、雪が降るんだって」 と浩太は静かに答えた。 「雪……?」 「うん。その年、良い子にしてた子供にはサンタって名前のおじいさんが贈り物をくれるんだって」 「それがなんで雪に関係してるんだ」 「サンタが住んでるのが雪深いところだから」 ちゃぷ…ちゃぷ、と耳に入るのは雪とは無縁な真夏の水の音だ。 「俺さ、雪って見たことないんだ」 沖縄出身の浩太はこれまで一度も雪を見たことがないと以前にも話していた。 「でも、今日聞いた歌、雪を見たことがないのに、なんだかすごく心踊って……」 そう呟くと余韻に浸るように浩太は目を閉じた。 「……いつか連れてってやるよ」 気づいたらそう言っていた。目を離したらこのまま雪のように溶けてしまいそうな浩太の刹那の表情に、勝時の胸は氷の針を刺したかのようにチクリと痛んだ。 「雪でも海でも……空にだって。お前の望む場所に連れて行ってやる」 器用に波に浮かぶ浩太の身体をそっと支えると、浩太は安心したように体重を預けてくる。その重みと温度が愛おしくて、「もっと聞かせてくれ」と勝時は呟いた。 雪なら俺がくれてやる。だからお前は、俺にいつまでもその歌声を聞かせてくれないか。 祈るような勝時の気持ちは、浩太の唇から紡がれる軽やかな歌声に乗せて天の彼方に舞い上がっていく。 いるか分からない神様も仏様もいらない。 その代わり、この愛おしい贈り物を、どうか永遠にこの腕の中に抱かせて。 『戦場にメリークリスマス、あるいはそれに類似した祈りの歌を』
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!