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残酷な再会 元彼は「はじめまして」と言いました。
彼が車から降り立った瞬間、爽やかな風が吹き抜け、緑の木々がざわめいた。
目の前にいる彼は5年前と同じように、彫りの深い目鼻立ちが整った美しい顔で微笑んでいるのに、その切れ長の瞳は寂し気に揺れていた。
なんで今頃、私の前にまた現れたの?
震える手をギュッと握り込み管理人としての業務を全うする。
「柏木直哉様。『城間別邸』へ、ようこそお越しくださいました。本日より6泊のご予定でご予約承っております。滞在時間中お手伝いさせていただきます、安里遥香と申します。よろしくお願いいたします」
「はじめまして、安里さん。お世話になります」
はじめましてって、言われた。
忘れたくても忘れられなかった大切な思い出の中に住人は、私と過ごした日々を無かったことにしていた。
この沖縄、やんばるの地で、今から5年前に一緒に過ごした時間は幻と消えたんだ。
芝生の間に敷かれた石畳が母屋へと続いている。
そのわずかな距離が、今の遥香には果てしなく長い道のりに感じられた。
梅雨明けの強い日差しが、敷地内にあるプライベートプールの水面にキラキラと反射している。
遥香はチラッと直哉の様子を覗き見る。
直哉は額に手をかざし、眩しそうに目を細め、本土より一足早い夏の日差しを感じているようだった。
彫りの深い顔に陰影がつき、頬に流れる一筋の汗にさえ、男の色香が漂っている。
33歳になったはずの直哉。あの頃よりさらに顔は引き締まり大人の男になっていた。
その上、東京にあるKロジスティクスの御曹司でお金持ち。
お金持ちでイケメン。そりゃあ、おモテになるんでしょう。
5年前にちょっとつまみ食いした私の事なんて、記憶にも残らないんでしょうね。
と、遥香は心の中で、毒を吐く。
それでも、直哉が日差しを遮るためにかざした左手。その薬指に目が行ってしまう。結婚指輪が無いことにホッとしている自分を遥香は情けなく思った。
『柏木直哉』という予約を受けた時から今日まで……イヤ、「必ず迎えに来る」なんて甘い言葉に騙された5年前から遥香がどんなに悩んだか、きっと考えもしなかったはずだ。
沖縄に宿泊施設が数ある中で、なぜ、直哉が『城間別邸』へ再び訪れたのか?
はじめましてと言った時点で、遥香にわざわざ会いに来たわけでもないはずだ。
過去の恋人と関わりを持ちたくないのであれば、他の宿泊施設を使えば良い。
それなのにどうして?という、気持ちが遥香の中で駆けめぐる。
考えを探るように、遥香は彼は様子を窺った。
当の直哉は遥香の視線に気づかず、建物を興味深そうに眺めている。
「ネットの予約サイトで見た時に驚いたけど、実物の建物はすごいな。全面ガラス張りの家であっても落ち着きと品がある。それになんと言っても開放感がすばらしい」
前にも来たクセに何を言っているんだろう。と、むかっ腹が立った遥香だったが、お客様である以上直哉を無下にも出来ない。
「はい、こちらは、オーナーで設計士でもある城間が自身の別荘として建てたものでして、遊び心もふんだんに盛り込まれております。全面ガラス張りであっても植栽が目隠しの役目を果たし、近隣とは切り離されされた憩いの空間を演出しております。庇も長く、空気の循環を考えた流体力学を考慮しての設計で、自然の風で涼しく快適にお過ごしいただけます」
「へー、すごいな。別荘建てるときは、ここの設計士に頼もうかな?」
はいはい、御曹司様なら別荘も容易いでしょうよ。
なんて事は言えないから、遥香は作り笑顔を張り付け返事をする。
「そう言って頂けるとオーナーの城間も喜ぶと思います」
「ここの建物の写真を見た時に、引き寄せられる気がした。現物を見て、何故かとても懐かしい気持ちにさせられたよ」
あくまでも知らんぷりを通す直哉に、遥香のムカつきは収まらない。
は~、勝手に記憶から削除した癖に懐かしいも何もあったもんじゃない。
お仕事がお忙しい御曹司様にとっては、5年前の休暇の出来事なんて些細なものは記憶に残らなかったんだ。
私をもて遊んだ挙句、こうして知らんぷりを決め込む直哉に一発ぶちかましたい。
うー。お客様なんだからガマン、ガマン。
それでも、遥香は無意識のうちに手のひらをグッと握り込んでいた。
「沖縄でみられる赤瓦の木造平屋住宅は、親戚の家に遊びに来たような郷愁を感じさせるのかもしれません」
遥香が、作り笑顔を張り付けたまま、返事をすると、やっと玄関に到着した。
外壁部分が全面ガラス張りの家の中で唯一、玄関は木製の建具を使用している。扉を開くと、真っ白な内壁に下げられた色鮮やかな紅型のタペストリーがお出迎えをしてくれる。
段差のない広めの玄関だが、室内履きに履き替えてもらうシステムだ。
「どうぞ、こちらのスリッパをご使用ください」
「……悪いけど、椅子を持って来てくれるかな? ちょっと、足を痛めてね」
「は、はい。少々、お待ちください」
慌ててリビングからチェストを運び、壁際に設置する。
壁に手をつき、その椅子に座った直哉を複雑な思いで遥香は見つめていた。
椅子に座らないと靴も脱げないようなケガを負っていたなんて、遥香は知らなかったのだ。
「会わないうちに何があったの?」と訊ねたくなるのに、『はじめまして』と言われた手前、それも出来ない。
結局のところ、5年前も今も、遥香は直哉について何一つ知るすべを持ってはいなかった。
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