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先生、突然結婚なんて困ります。
『残念ですが、篠崎さんの採用は見送らせていただくことになりました』
「はい……。この度はありがとうございました」
耳に押し当てたスマートフォンを握りしめ、日菜はうつむいた。
思えば以前勤めていたテーマパークでの接客業は、日菜の天職だった。些細な失敗で客とトラブルを起こし、そのショックで精神を病み、やがて退職を勧められるまでは。
街を歩く足取りが重い。すれ違う人たちの視線が異様に気になる。
(もしかしてさっきの不採用の話が聞かれてて、皆んなに見られてる? ……ううん、そんなはずない。大丈夫、大丈夫……)
採用情報の載った冊子を胸に抱き込み、日菜は家路を駆け抜けた。
対人恐怖症――それが篠崎日菜を27歳にして就職活動からの不採用ラッシュに巻き込んでいる元凶だった。ひとたび人前に出れば、強い不安と緊張で我を失ってしまう。結果、面接の受け答えもろくにできない。
(このままじゃダメ。でもどうしたら……)
頑張っても就職活動は空振りばかり。生きがいだった仕事にももう戻れない。日菜の心はぼろぼろだった。出かけるのは就職活動に関する用がある時だけで、それ以外は実家に引きこもっている。
「ごめんね、お母さん。また不採用だった」
帰ってきた娘の報告を聞いて、母のゆり子は困ったように眉を下げた。
「そう……。どうしても仕事が見つからないなら、彼氏を探してみたら? 婚活を始めるのもいいんじゃないかしら。結婚相談所に入るとか」
「結婚なんて今の私じゃ……」
元々仕事一筋で、恋愛経験は豊富ではない。加えて、もう二年以上続いている対人恐怖症。うつむく日菜の頭を、父の武志が優しく撫でる。
「日菜、新しい病院に行こう。今度のは少し遠いが、地元の人たちから評判がいいらしいんだ。早く治して元の日菜に戻れば、仕事の一つや二つ、すぐ見つかるよ」
翌日、武志とゆり子に伴われ、日菜は実家から少し距離のある精神科・心療内科の『昴メンタルクリニック』を訪れた。
人気だという評判通り患者が多い。ようやく三人で診察室に入室すると、看護師はすぐに席を外した。話し辛くしない為だろうか。
「はじめまして。院長の秋月です」
診察室の椅子に座っていた白衣の医師が、正面に座った日菜にそう名乗った。30代前半ほどの、比較的若い男性医師だ。端正な顔立ちにすっと通った鼻筋、涼しげな眼差し。初対面のはずなのだが、日菜には彼に見覚えがあった。
「あの、秋月、……信也くん?」
日菜が恐る恐る尋ねると、秋月と名乗った医師は日菜をまじまじと見た。目線を避けたい日菜は慌ててうつむくが、彼は日菜の観察をやめない。やがて彼はぽつりと呟く。
「日菜……? それに日菜のお父さんと、お母さん……?」
一同が驚きを隠せない。秋月信也――彼は、日菜が小学生の頃遊んでもらっていた、5歳年上の幼馴染だった。
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