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「ごめんね。今日は昼休みしか時間が取れなくて」
「う、ううん。私、何も用事ないし……」
翌日昼過ぎ、信也に呼び出された役所にて。極力目を逸らしながら、日菜は信也が近づくたびさりげなく距離を取っていた。家族以外の人間は、日菜にとって恐怖の対象だ。それに役所は人が多かった。
(大丈夫、信也くんは目を合わせなきゃ怖くない。それに誰も私を見てない。怖くない……)
「怖くない怖くない……ブツブツ」
「どうしたの?」
「ひっ」
綺麗な顔で覗き込まれて、日菜の寿命が五年は縮まった。一瞬だったが改めて信也の顔を正面から見て、日菜は幼馴染として過ごした小学生時代を思い出した。記憶の中にいる5つ年上の爽やかな少年は、今や端正な顔立ちに目を引く長身、自信に満ちて凛とした雰囲気をまとう立派な美青年に成長している。涼しげな目元はどこか艶っぽさすら感じさせた。
(ダメ、格好良すぎる。こんなに格好いい人といたら、皆んなが釣り合わないブスって私を見てるかも……ううん、きっと私が思うほど人は私を見てない。大丈夫、気にしちゃダメ)
「大丈夫大丈夫……ブツブツ」
青ざめる日菜を尻目に、信也は爽やかに微笑んだ。
「なら良かった。さあ日菜、ここにサインするんだよ」
信也の手元には、いつの間にか記入済みになっている婚姻届があった。あとは日菜のサインだけだ。
「で、でも……お父さんに恩があるからって、私なんかと結婚してもらうなんてそんなの……信也くんは本当にそれでいいの? お医者さんで格好いいし、相手なんていくらでもいそうなのに」
(それに私も他人と生活するなんて絶対無理……!)
「私“なんか”?」
ふと、信也の声音が少しの冷たさを帯びたので、日菜はぐっと押し黙った。
「ひ、卑屈なこと言ってごめんなさい。でも私……」
「悪いけど時間がない。話なら提出した後ゆっくり聞くよ」
「そんな、提出しちゃってからじゃ遅いよ!」
「いいから。ここにサイン」
信也はにっこりと笑う。必死な日菜と反対に涼しい顔である。何を言っても動じない態度に押し切られ、もともと信也に怯え気味の日菜は根負けしてサインしてしまった。すると信也は、欠片も躊躇いを見せずに提出して戻ってくる。
(どうしよう、本当に出しちゃった……)
「薬はちゃんと飲んでる?」
「!」
ふと肩に手を置かれた日菜はぎこちなく信也を見上げかけ、慌てて顔をそらした。
「式は病気を治してからだね。一緒に頑張ろう」
「し、式……?」
「そう、結婚式だよ」
結婚式。人を集め、人前に立ち、人前で注目を浴びながらキスをするという、日菜にとっては拷問のような儀式だ。日菜は危うく気絶しかけた。
◇ ◇ ◇
翌日、日菜の信也宅への引っ越し作業は一日で終わった。入籍を済ませたと聞きつけた武志はわざわざ仕事を休み、ゆり子と協力して全力で荷造りをこなした。日菜一人分の荷物はさほど多くなく、信也のクリニックもたまたま午後が休みだったため、信也が車で往復して荷物を運んだ。なりたての義理の親子とは思えない素晴らしい協力プレイである。そして今、運び終わった信也が日菜を迎えに来ている。
「日菜、幸せになるのよ……!」
「お母さん、そんなに泣かれても……私まだ何が何だか、話についていけてないんだけど」
ハンカチを目の下に押し当てて鼻を啜っている母に、日菜はひきつった笑みを浮かべた。
「信也くん、日菜を頼んだよ」
「約束は必ず守ります」
涙ぐんだ武志に握手を求められた信也は、キラキラと効果音が聞こえそうなほど爽やかな笑顔で応えている。
(どうしよう。本当に結婚して、昨日の今日でいきなり同居とか……私、他人と生活するなんて絶対無理なのに!)
「行こう、日菜」
ごく自然な流れで腰に手を回され、信也と実家の玄関を出る。背後からのゆり子の嬉しい悲鳴が気になったがそれどころではない。日菜が慌てて身体を離すと、信也は日菜の手を握った。そのまま手を繋いで歩き出す。
「し、信也くん……!」
「ん?」
「あの……私、誰かと一緒に生活するなんて、無理っていうか、その……」
言いながら、繋いだ手を離そうと何度も引っ張るが、信也の手は日菜を離す気配がない。
「うん。話は家でしようか。とりあえず車に乗って」
玄関先に停まった場違いな高級車を見て、日菜は唖然とした。誰もが知っている外国製のお高い車だ。助手席に誘導され、仕方なく乗り込む。他人と二人きりの密室、日菜が緊張で汗ばむ手でシートベルトを一生懸命引っ張っていると、車は滑るように走り出した。
「日菜は僕のことを覚えていたんだね」
「うん、顔だけだけど……」
「そうなんだね。……まあ、そうだよね。君は小さかったから……」
そのまま信也が黙り込むので、ようやくシートベルトを装着した日菜はちらと運転席を見遣った。真っ直ぐ前を見てハンドルを握っている、その表情は読めない。
「信也くん……?」
「よく遊んでいた頃、日菜は確か小学一年生だったかな。ランドセル買ってもらったんだって、嬉しそうに、お日様みたいに笑って……。日菜って名前がよく似合うと思った」
日菜にはその記憶がなかった。それに名前が似合うと言われても、暗く沈んでばかりの今の日菜には到底似合うとは思えない。何とも言えず黙っていると、車は中心市街地にそびえ立つタワーマンションの地下駐車場に入った。
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