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プロローグ
「日菜」
名前を呼ばれた瞬間、日菜の背筋がピンと伸びる。ベッドルーム、日菜のために用意されたアンティーク調の白い鏡台。その大きな鏡の前に座り、日菜は彼の帰りを待っていた。
「ただいま」
「お……おかえりなさい」
振り返りもせず、鏡に映った姿すら見ることもできず、俯いたままぎこちなく返事を返す。鏡の端に白い服の裾が見えた。
病院で白衣を脱いでくるはずの彼は、日菜のため、わざわざ白衣を着てこの部屋に現れる。日菜にはそれが有難かった。日菜の主治医でもある彼が、診察室と同じ服装なだけでも不安は随分と軽減する。
「いい子にしてた?」
「うん……」
(また、“いい子″だなんて言い方……)
もう27歳だというのに、彼はいつも日菜を幼子のように扱い、甘やかす。歳の離れた幼馴染だったから、彼にとって日菜はいつまでも年下の子供なのかもしれない。が、それがどうにも落ち着かない。
「日菜」
背後から身を寄せられた日菜は身体を震わせた。背中に触れる他人の温度に、急激に込み上げる強い不安と緊張。本人の意思を置き去りに、ばくばくと心臓が騒ぎ立てる。
「信也くん……」
「大丈夫だよ。白衣、鏡に映ってるの見えるよね。僕は君の先生で、一緒に君の病気を治そうとする君の味方だ。だから安心していいんだよ。怖くないから……」
とろけるような優しい声音が、日菜の耳をくすぐった。鏡台の机の上に無造作に投げ出されて震える手を、大きな手がそっと握る。
「私の味方……」
「そう」
「怖くない……」
「うん。落ち着いて、ゆっくり息をして」
言われるままに深呼吸をする。
夕暮れのベッドルームは薄暗かった。オレンジ色に染まった部屋の中、鏡に映る二人の姿に陰影がついている。
「この結婚生活は練習だよ。日菜が人に慣れて、他人が怖くなくなるように。昨日は初日でできなかったけど、今日は少し頑張ってみようか。鏡越しでいい。僕の目を見れる?」
「うん……」
(これは練習。ただの練習。怖くない。恥ずかしくない……)
何度も心でつぶやいて、ついに思い切った日菜は鏡越しに信也と目を合わせた。
「っ!」
息を呑む。鏡に映る真剣な眼差しが、甘さを含んで日菜を射抜いた。じっと見つめられていると身体中が熱くなって、蜂蜜のようにどろりと溶け出しそうだ。
(目、逸らせない……)
他人と目を合わせるどころか、関わりを持つことすら難しい。それが今、日菜が精神科医の信也と結婚生活を送ることになっている理由のはずだった。だが今、日菜は不安も緊張も忘れ、鏡の中の信也の瞳にぼうっと見惚れている。
「手の震え、止まったね」
「え、あ……」
信也は小さく息を吐き出すようにクスッと笑った。鏡に映ったその様子が、日菜の目にやたら妖艶に映りこむ。
「女の顔して……。小兎みたいに怯えてる癖に、日菜は悪い子だね」
「!」
不意に後ろから抱きすくめられ、強張った身体がさらに熱を帯びた。
(どうして? 他人にこんなことされたら怖くてたまらなくて、すぐ逃げ出してるはずなのに。私……やめてほしくない)
「信也く……っ」
鎖骨の上をすべって下りていく指先の感覚に、ビクリと日菜の身体が跳ねた。
(ど、どうしよう。この展開って……!)
「信也くん、待っ……」
「日菜、可愛い」
「や……」
耳朶を唇で甘噛みされ、日菜の目尻に涙が滲んだ。視界の端に映り込むベッドが妙に気になる。日菜は思わず吐息を震わせた。
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