死神は秋風とともに。

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死神は秋風とともに。

 目を開ければ、そこに青空が広がっている。  頰を撫でる風は秋の訪れを感じさせる清涼さを含み、じめじめと纏わりつく夏の嫌いな彼には気持ちよく感じられた。  仰向けに寝転んだ背中には柔らかいけれど所々ちくちくとした感触があるから、きっと草原なのだろう。上空しか見えない視界には緑が映らないけれど、遠くから聞こえる鳥の声は、街中ではなく森に住むオナガハグロだ。  どうしてこんな所で寝転がっているのか、まだはっきりと思い出せないけれどぼんやりした頭でそれでも彼は大事な言葉を口にした。 「リル」  この世界でたった一人、彼の生きる縁である少女。  誰よりも大切なその少女の名前を口にして、その音に幸福感を覚えると彼は静かに目を閉じた。 「ガキ、邪魔だどけ!」  大声が頭の上から降ってきたかと思うと、彼の目鼻のすぐ先をがらがらと荷馬車が過ぎて行った。  ばきり、と嫌な音が聞こえ首を竦ませて慌てて飛び退くと、足をもつらせて腰を落としてしまう。その拍子に、今度は歩いていた人の足に当たってしまった。 「何すんだこのクソガキが!」  やはり頭上から降ってくる声に怯え、腰から退って「ごめんなさい」と口にする。けれどその言葉は、相手に届くことなくぬかるんだ地面にぽとんと落ちた。  罵声を浴びせて満足したのか、もはや彼を路傍の石ほどにも思っていないのであろう男性は一瞥もせずに去り、少年は再び路上へと視線を移した。  先ほどの馬車に踏まれてしまったのだろう、物乞いに使っていた木の椀は砕け散り、泥の中にその破片を浸からせている。辛うじて持ち出せた長年の相棒の哀れな末路にそっとため息をつくと、彼はのろのろと起き上がった。  これが壊れてしまったらあとはもう自らの手を差し出すしかない。みすぼらしさに変わりはないが、それでも薄汚く欠けた道具があった方が、より憐れみを誘うというのは彼らにとっては常識である。その相棒を失ってしまったのは痛恨事だ。せっかく遍歴女の目を盗んで持ってきたというのに。  少年、ルゥは足早に過ぎ行く人々の靴底で汚されて行くそれを見て、再びため息をつく。  失ったものは仕方がない。とは言えここは忙しなさすぎて実入りが見込めない。河岸を変えたいところだが、さて誰にも取られていない場所などあるだろうか。  そう思いながら彼は暗い目で体を縮こまらせながら、新たな稼ぎ場所を求めて道の端を歩いて行った。  遍歴の民、彼らは街々を辿りながら物乞いをする貧民だ。  都市とその周辺にある隷農地を所領とする各領主の威光が及ばない街道は危険が多く、護衛付きの商隊以外は好き好んで歩き回ったりしないが、盗られるものは己の生命のみという遍歴民はより裕福な都市を求めて彷徨う。  主には夫を失ったり病が原因で捨てられた女だが、遍歴し始めた頃に辛うじて清潔さや食指を動かせる程度の若さを保っている時であれば、その辺の賊の食い物となることもある。  イスラ神は姦淫を戒めてはいるが、食いっぱぐれて身を堕とした賊にとっては、死後の安寧や戒律よりも目の前の酒と女なのだから。  そうしてそのまま囲われているならまだマシな方と言える。少なくとも衣食住には困らない。けれど、大体の女は子を孕んだ時点で再び街道に捨てられるのだ。中にはひとつの集落を作るためそのまま子を産み育てる賊もいるが、そんなものは極稀である。小領主ばかりの地方と言っても伝統と血筋、封建契約で結ばれた軍事組織を持ち、民と生産物を確保して経済活動を自領で巡らせている領主たちと対等に渡り合えるわけもなく、ほとんどはその萌芽の時点で潰されている。  そうなると自然、遍歴するしかない女が増える。  彼女たちは捨てられた後、ほぼ全てが流産するのだが、幸か不幸か無事に子を産み落とす者もいる。もちろん、そのような状態で子を産んだところで満足に育てられるはずもなく、選択肢は母子共に命を落とすか子を捨てるかのどちらかだ。敬虔な信者であれば幸運にも生き延びた子を連れて遍歴するが、それとて長く保つことはない。末路は言わずと知れている。  それでも子供の生命力は侮れないもので、極僅かが生き残る。もちろん彼らの選び得る道は同じように遍歴するしかない。  ルゥは恐らく、その数少ない例の一人だ。  母親の顔はわからない。  薄っすらと記憶に残っているのは、誰かに手を引かれ山道を裸足で歩いていることくらいだ。その手は街に入った途端に離れ、呆然としていた彼は別の女に手を引かれることになった。  子連れの方がより憐れみを誘うことから、遍歴の女は次々に子供を取り替えて連れまわす。故にルゥの手は沢山の女の手に引かれ、いちいちその顔など覚えていようはずもない。ルゥという名も、何度目かの女が適当にそう呼び出したことから自分の名前であると認識しただけで、学もない彼は他に名前を知らずそのまま用いているに過ぎない。  賊になる気迫を持たない男が遍歴することもある。  だが、彼らは労働力としては優秀だから大抵はどこかの隷農民として農作業に従事するという幸運に恵まれる。或いは鉱山や運搬員として使われる。それすら出来ないのは不具であったり病持ちであったりするから、貧窮院の救いの手も差し出されることはなく遍歴する前に命を落とす。  だから遍歴の民の大半は、女か子供かということになるのだ。  女ならばまだマシで、裕福な都市に辿り着ければ修道院か貧窮院に駆け込むことも可能だ。無論、そんな都市は多くないからよほどの幸運に恵まれている者に限られるが。  子供はもっと悲惨であることは言うまでもない。だからルゥは相当に幸運な部類に入るのだが、彼自身はそんなことを知りようもない。なにせ生まれた時には既に放浪しており、幾人もの女に憐憫の道具として扱われ自分のことも世界のことも考えるどころか知ることすらできなかったのだから。  けれどそれはある意味では幸運と言えるかも知れない。  自分がどれだけ哀れな存在であるかということすら、知らないのだから。  この街はあまり裕福でないらしい。  ここまでルゥを連れてきた女は、新しくルゥよりも小さく痩せた少女を見つけると、そろそろ憐れみを誘える大きさでなくなったルゥを捨ててさっさとどこかへ消えてしまった。いつものことでしかないのだが、今回ばかりは困ったことになった、とルゥは思った。今までも貧しい街で何の施しも受けられなかったことはあるが、この街はそれだけでなく近隣の領と戦争の準備をしていたからだ。  一度だけ、遠くから平原で行なわれる戦いを見たことがある。  騎馬同士の激突の後、歩兵がひと塊りになってぶつかり合い少しずつ兵が倒れ塊が削れて行く有様は、彼が空腹を紛らわせるために時折道端に伸びた黄色い実の皮を剥ぎ取る様子に似て、その形容しがたい苦味を思い出して口内に嫌な感触を残した。  だが、それだけだ。  同じ年頃でも街中の少年なら騎士の勇壮さに憧れもしただろう。貧民窟の少年なら歩兵の死体が宝の山にも見えたろう。  けれどその時のルゥはそれが何であるかもわからないまま、他の少年より遥かに乏しい経験から想起できるものがそれしかなかったのだ。ただ黄色い実が苦いものである、と。  今思えば勿体なかったな、とも思うのだがその時に彼の手をひいいていた女は戦場の風を忌避し、次の街へと足を早めたのだから仕方ないことだった。女の歩数の数倍動かさなければならなかったルゥは、苦い以外の感慨も浮かばない戦場を横目に黙ってついていくだけだったのだから。  と、空腹と疲労から1日が長く、遠い記憶となってしまったそれを思い浮かべたルゥは顔を上げて道を眺める。  時折通る馬車にも、戦場で見た武具が載せられているのがわかる。確実に戦の準備だ。けれどさほど豊かでないこの街に、それら武具を身につける若い男が満ちているようにも見えない。途中で通った街の隷農地でも、女や老人が多かったように思う。これは既に若い男が徴発されているからであるが、ルゥにそんなことは知りようもなかったし、そうだとしても農地にいた隷農民から推測される徴発人口は僅かなものだ。  ルゥは自分の手足、そして体全体を見る。  やせ細ってはいるが、幸いなことに今まで大きな怪我や病気はなかった。動くに問題ない手足と、遍歴するには成長し過ぎた体躯がある。力はわからないけれども、長い距離を踏破できる持久力もある。何より彼は目が良かった。長い遍歴路の途次で、弱った動物などを見かけると石をぶつけて仕留めることだってあったのだ。  それらを示すことさえできれば、何とかなるのではないだろうか。  どうせこのままでも施しは受けられない。どことも知れぬ場所で野垂れ死ぬだけだ。  ならば掛けてみる価値はある。  そう考えたルゥは、視線を上げて街並みの奥にある大きな石造りの尖塔に向けて足を動かす。  彼にとって、街中で餓死しようと戦場で殺されようと命の使い道としてはさほど変わるものではなかった。だが、命は捨てられても使い道を選ぶ意思を捨てるつもりはなかった。  苦しいのも痛いのも嫌だが、少しでもその受難を先延ばしできる可能性があるのなら。  それが戦場であっても、彼にはどうでも良いことでしかなかったのだから。 「ただいま、リル」 「おかえりなさい、お兄ちゃん」  筋交いの木は所々がぼろぼろと剥がれ落ちてしまっているし、組み上げられた石も削れて隙間もできてしまっている。隙間を埋める泥の方がそのうち多くなってしまうのかというくらいだ。どうして崩れないのか、不思議に思ってしまうそんな小屋の扉を開けたルゥに、少女が飛び込んでくる。  胸の下にある明るい栗色の髪を眺めながら、いつものように足を踏ん張って体ごと預けてくる少女を受け止める。拾った時に比べればだいぶ血色もよくなったことに安堵し、頭を撫でながらしばらく抱き締めるのは毎日の習慣だ。 「お腹空いたでしょ、今日はね、イヴォンヌさんから葉っぱ貰えたからスープに入れたの」  顔をルゥの胸に埋めたまま、くぐもった声でリルが言うと、 「それは嬉しいね。楽しみだよ」  心底嬉しそうな声でルゥが答える。  抱き合いながらでないと二人では寝られない小さなベッド、一本だけ足が短くて収まりの悪い椅子、傷だらけの机。鎧戸は閉められて薄暗いが、さっきまでスープを作っていたのだろう、暖炉とも呼べない辛うじて煙突の役割を果たせる煙路の下に石で組み上げた火元が灯となっている。 「仕事はどうだった、リル」  ようやく離れた少女が鍋に向かうのを見ながらベッドに腰掛ける。椅子など1脚しかないから、ルゥの定位置はベッドだ。 「今日は干し肉だったよ。葉っぱはね、売れ残っちゃったからおまけ」 「干し肉かぁ、良い儲けだ。頑張ったんだね」 「うん!」  まだ幼い、恐らく7歳か8歳でしかないであろうリルにできる仕事はそう多くない。隷農地で出来が悪く捨てられた農作物や、壊れた道具などを拾い集めて道端で売っているイヴォンヌ婆さんが、手伝いとして毎日何らかの食べ物と引き換えに雇ってくれたのは幸運としか言いようがない。貧民窟の主と言えるほど長く住みつき顔の効くイヴォンヌと一緒にいれば、少なくともルゥが下働きに出ている昼間の間は安心できるからだ。 「お兄ちゃんの方は?今日は痛いことされなかった?」  端の欠けた椀に薄く麦の入ったスープをよそったリルが、机に置いて椅子に腰掛ける。お礼を言って椀と木のスプーンを手にすると、 「大丈夫、最近は僕も大きくなってきたからね、怒鳴られることはあっても暴力を奮われることは少なくなってきたよ」 「お兄ちゃんは戦争でも生き残ったんだもんね」 「あの頃はただの浮浪児だったんだから、見逃されただけだよ。たまたま転がってた剣を拾って持って帰ったら、敵の副将のものだったから褒められただけでさ」  森の奥に光る深い湖のような翠の目をきらきらさせながら言うリルに、苦笑して返すとスープを口に運ぶ。5年前に兵士たちの下働きとして雇い入れられ、戦陣で初めて暖かい食事というものを口にした時は感動というよりも驚愕の方が強かったが、こうしてリルの作った食事はいつでも感動できる。  ここまではとても幸運に恵まれている、そう実感しながらスープに入った干し肉を味わっているリルを見遣る。  歩兵に攻め込まれ劣勢の戦場を這い回っていたら、突撃してくる騎馬を目にして喫驚し、火事場の馬鹿力で鉄槌を拾いがむしゃらに振り回した。こんなにすぐ死んでたまるか、というだけの思いで目を瞑って振り回しただけだが、どんな神の采配があったのか馬に当たり、落馬して首を骨折した騎士がたまたま敵の副将だった。リルに説明したことが全てではないけれども、彼女が目を輝かせて妄想するような見事な戦働きなどしていない。  だがそれがきっかけとなり、領主の館で下働きさせて貰えるようになったことは僥倖だった。厩舎の掃除や糞尿の処理など汚れ仕事ばかりだが、ちゃんと給金も出るのだから。 「糞尿処理が多いからね、どうしても臭くはなるんだ。匂いが酷いとみんないらいらするみたいで」 「でもお兄ちゃん、臭くないよ」  くんくん、と嗅ぐ仕草が犬みたいでルゥは笑った。 「臭いままうろつくなってことで、石鹸を使うことを許可されてるんだよ。だから実は、館の中で僕が最もきれいかも」  そして残念そうに眉を下げると、申し訳なさそうな顔でリルに目線を向ける。 「本当はリルにも持って帰ってあげたいんだけど、削ったら確実にバレるからね。リルが石鹸で洗えたら、すごくきれいになると思うんだけど」 「私のことはいいよ。お兄ちゃんに拾ってもらって、こうして一緒に暮らせてるだけで幸せだし、石鹸よりもお兄ちゃんと毎日一緒にご飯食べて寝られる方が贅沢だもん」  心底そう思っていそうなリルに、ルゥは何とも欲のないことだと思ったが、当の本人もさほど望みがあるわけでもなかった。  それに、とスープを運ぶ手を止めて向かいの椅子に座るリルを眺める。  栗色の髪がふわりとカーブを描き、遍歴民だったと思えない白さが戻った肌は子供らしい肌理の細かさだ。少し垂れ気味の大きな瞳は見慣れたルゥですら、時折吸い込まれそうになってしまう碧翠が妙に艶めかしい。栄養が足りてなかったからか、年齢の割に小柄だとは思うが貧民窟にいることが不自然なほどの美しさがあると思う。年齢的には愛らしいとか可愛らしいと言うべきなのだろうし、実際にそうだとは思うのだが表現としては美しいと言う方がふさわしいと思ってしまうのだ。  現金収入がルゥの下働きの稼ぎでしかないから、服装はみすぼらしいし飾り立てるものは何ひとつ着けていないが、きちんとした服装をしてきれいに洗いあげたら幼女趣味でなくとも目を惹いてしまいそうだ。  そう考えれば、ある程度は貧民らしい汚らしさがあった方が、リルの身の安全のためには良いのかも知れない。  と、考え込んでしまったルゥを心配したのか、気がついたらリルも手を止めて不安げな眼差しでルゥを見つめていた。 「お兄ちゃん?やっぱり何かあった?」 「ああいや、何もないよ。リルは可愛いからあまり外で仕事させるのは心配だな、と思ってただけ」 「そう?イヴォンヌさんがいるから大丈夫だと思うよ。すごいの、大人の男の人もイヴォンヌさんが睨むと逃げて行くんだから」  そう言えば下働きが軌道に乗り始めたルゥが、厩ではなくてちゃんとした寝床が欲しいと思っていた頃に拾ったリルを連れ、良い機会だからと貧民窟に家を探しに来た時も恐ろしげな婆さんだと思った。別に何と言うことのない小柄でしわくちゃな婆さんなのだが、眼光が戦場で見たそれ以上なのだ。正直恐怖しか湧かなかったが、リルを見て眼光が和らぎ、この小屋を紹介してくれたのだから悪い人ではないのだろう。ルゥの稼ぎだけでは食うに困ることも見越して、食べ物を給金代りにリルを雇ってくれたことにも感謝している。 「そりゃそうか。イヴォンヌさんに逆らえる人間なんか貧民窟にはいないしね」 「そうだよ。あ、お兄ちゃんお替りいる?」 「ありがとう」  もうすぐ今日の分の薪も消えてしまいそうだ。早めに食べて一緒のベッドで温まらないと、と渡されたお椀を見ながらルゥは幸せを噛み締めていた。  生まれた時から遍歴民で、何も知らないからこそ幸福を比較できないルゥは、リルと過ごす毎日がとても幸せで他に望むことは何もなかった。  再び戦禍がこの街を襲ったのは、ルゥが街に来てから8年、リルと暮らし始めて7年を経た時のことだった。  ルゥは恐らく20歳になっているだろうし、小さかったリルも多分15歳近くだろう。お互いに実際の年齢はわからないから、周囲と見比べての推測でしかないのだが。 「本当に大丈夫なの、お兄ちゃん」  心配そうに尋ねるリルは、少女から女性に脱皮しようとする最中であり、幼い頃からあった美しいと表現されるべき気品は貧民窟の中にあって更に磨かれているように思う。それ故に、むしろルゥの方が不安になってしまう。 「そういう契約で雇ってもらっているからね。戦争になったら従軍するのは仕方ないよ。それより、僕がいない間のリルの方が心配なんだけど」  街中で餓死しようと、街道で行き倒れようと、戦刃に斬り伏せられようと、いつか訪れる死が自分の選択次第で早まるか遅くなるかの違いでしかない、そう思って生をただ生きるだけのものと捉えていたルゥに、積極的に生きる希望を与えてくれたのはリルだ。  リルが何かを成したわけではない。ただ守るべき存在がそこにいるというだけで、ルゥは生きる意味を見出したのだ。だから彼が真っ先に心配するのは常に自分のことより妹のことであり、有事に参陣することを条件に雇ってもらっているから仕方ないとは言え、やはり不安なことは不安だった。 「いいかい、万が一街にまで戦場が広がったら何を捨てても逃げるんだよ」 「……そうなったらお兄ちゃんが」 「僕は大丈夫。でもリルがいないのなら僕も生きている意味はない。だから必ずリルは生き延びるんだ、いいね」 「……うん。お兄ちゃん、絶対に帰って来てね」  不安げに揺らめく翠の目に、黙って深く頷く。  8年をかけて念入りに同盟を組んできた敵領主は、前回と比較にならない大軍で攻めてきているらしい。寡兵でしかないこの領では、そう長く戦線を保つこともできないだろう。騎兵の数からして違うのだから、彼ら歩兵がどれだけ堅陣を作ろうと機動力で突き崩されることは目に見えている。  だから彼は「必ず帰る」と言えなかった。  いや、この身が滅んでも魂だけは絶対にリルの元へ帰る。そう決意している。そうしてリルが安らかに生を終えるまで見守り続けるつもりでいるが、そのことをリルに言っても仕方ないだろう。  どうせいつ死ぬかわからなかった生だ。  リルのお陰で価値を見つけ、ここまで生を謳歌できた。  それだけでも彼には十分だった。  腕を掴んだままなかなか離そうとしないリルの手をそっとほどき、額にキスをするとルゥは踵を返して扉を出る。その時にそっと呟いた、「幸せに暮らすんだよ」という言葉がリルに届くことはなかった。 「ああ、空が……青いな」  再び目を開いたルゥは、開いた瞬間に飛び込んできた高い空を見上げながら呟く。  こんな日にはリルと一緒に空を見上げ、風を感じたかった。  貧民窟からあまり出ることのないリルだが、なぜか鳥の鳴き声に詳しい。ごく稀に一緒にこうして草原や森に出かけると、「あれはベニヒタギ、今聞こえたのはスイギョクチョウだよ」などと色々教えてくれるのだ。その様子がとても嬉しそうで、相槌を打つだけのルゥも幸せな気分になる。だから一緒に外へ出かけるのは彼の数少ない楽しみの一つでもあった。  それなのに、同じ鳥の声を今はこうして一人で死の足跡と共に聞いている。  リルの名を口にしたことで、はっきりした意識でルゥは自分の置かれている状況を正確に把握した。  衆寡敵せず総崩れとなった自軍は散り散りに逃げ、ルゥもまた敵兵の手から必死に逃げながらこの丘に辿り着いた。あっという間だったから、こちらの瓦解速度に敵も呆気にとられたのだろう、追撃する側がどこか狼狽えた様子だったことが利して戦場から離れたここまで逃げ延びたのだ。  この丘を越えれば彼らの暮らした街がある。  だが敵兵はどうやら丘の麓を巡って進軍したようで、こちらに人の気配は来ていない。彼らより先に街へ戻り、リルを連れて逃げ出したいところだったが、ルゥも万全ではない。  いや、それどころかもはや手足の一本すら動かせそうにない。  彼のような下働きまで借り出したのは良いが、当然のことながら軍装など整えようがない。軽歩兵と言えば聞こえが良いかもしれないが、実態としては申し訳程度の胸当てや余っていた手甲くらいで平服のままと代わりない。その状態で雪崩のような敵軍の総当たりにぶつかれば、無事でいられる歩兵などいるはずがないのだ。  案の定、みすぼらしい皮の胸当ては矢に貫かれ、かきむしりたくなるような熱を感じる。切り裂かれた太ももからの出血は止まっていないようだ。足の感覚は完全に失っている。  流れた血の量が多すぎたのか、先ほどから覚醒と消失を繰り返す意識の中で、少しでもリルのいる方へと体を動かそうとするのだが壊れた体ではどうにもならない。 「リル」  胸を貫いた矢は、肺も傷つけているようだ。  彼は妹の名を口にしたつもりだったが、水っぽい音が漏れるだけで形を成していない。  リルはちゃんと逃げただろうか。  ほんの少ししかないけれど、自分が死んだ時のためにリルに残したお金のありかはちゃんと思い出してくれただろうか。  これから先、幸せになってくれるだろうか。  あの美貌と器量だから、どんな男だって魅了されるに決まっている。だからしっかりと見極めて、リルを幸せにしてくれる男と一緒になって欲しい。  自分はここまでだ。  リルが幸せを掴む足場を作るところまでが、自分の役割だったのだ、きっと。  それならそれで良い。  リルが幸せになってくれるのならば。  ただ、自分のことを覚えておいて欲しい。  一緒に暮らし、一緒に鳥の声を聞いた兄がいたことを。  そう思って最後に最愛の少女の名を呼ぶ。  これがきっと、最後の言葉になるのだろう。ならば自分にとって最も幸福を感じられる言葉で逝きたいから。 「リル」 「なに、お兄ちゃん」  目を閉じかけていたルゥは、聞こえるはずのない言葉に再び瞼を動かす。 「リル……?」  ぼやけた視界の向こうで、転がる自分を見下ろしているのは確かにリルだ。  栗色の髪、白い肌、翠の目。  毎日見ている少女が、彼を覗き込むように見ている。 「お兄ちゃん、私酷いことしても良いかな」  混乱したままのルゥを尻目に、悲しげな色をその瞳に浮かべた少女は言葉を紡ぐ。 「ううん。酷いことするね。だって、お兄ちゃんとお別れしたくないから」 「ど、ういう……」  囁きにも似たルゥの声は、秋風に乗ってリルに届く。彼女は一度しっかりと目を閉じてから再び開くと、 「お兄ちゃんの魂を私にちょうだい。その代わり、永遠に一緒にいるから」  何を言っているのか、そう尋ねようとして諦める。どうせもう声には出せない。それ以上に、永遠にリルといられるのであれば魂のひとつやふたつ、好きにすれば良い。  なんとか動く目でそれを伝えると、リルは理解したのか頷いた。 「死神はね、誰の魂でも良い訳じゃないの。より美しく純粋な魂こそが死神の価値を高める。生と死を同一に考えていればいるほど、魂は純度を高める」  それが自分の魂か、ルゥは動かない頭でそれだけ理解した。  ならば良い。  リルが死神であろうと天使であろうと悪魔であろうと、大切な妹であり自分の何をかけても守りたい存在であることに変わりない。その妹が自分の魂を欲している、ならば迷う必要などない。 「生に傾けば天界に近くなる。死に傾けば冥界に近くなる。どちらかに傾いた魂を、死神は価値あるものと見なさない」  そう言って言葉を止めたリルは、ううん、と緩やかに首を振った。 「違う、私はお兄ちゃんと永遠にいたい。価値なんてどうでも良い、お兄ちゃんの魂を私の、私だけのものにしたいだけ。天使にも悪魔にも、お兄ちゃんの魂に触れさせたくない」  我がままだね、と軽く笑った。  つられてルゥも口を歪めたが、うまく笑えたかどうかはわからない。それでも顔に翳されたリルの手が暖かく、彼女の想いが流れ込んでくるようで、ああうまく笑えたのだなと思った。 「お兄ちゃん。ずっと一緒にいようね」  その声と共に、ルゥの意識はぷつりと途切れた。  この地域には昔話がある。  魂を刈り取るはずの死神だが、必ず兄妹で現れる死神はじっと魂を見つめることがあると。  そうしてその死神に取られなかった魂は、必ず天界に行けると信じられている。  その真偽は、誰にもわからない。
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