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第四話 龍の角は折らせません。
一睡もしていないのに、体は軽く目は冴えていた。龍神は再び私を馬に乗せ、あちこちの珍しい景色を見せてくれるだけで、私に何も求めない。
明日の朝の儀式について、何か考えがあるのか聞きたいと思っても、私はまだ〝赫焉の玉〟を見つけていないし、誰にも話してはいけないと口止めされている。
二人きりで過ごす時間は、ひたすら優しくて心地いい。このまま異世界に留まる選択が、ちらりと心を掠める瞬間も出てきた。
真面目で優しくて、私をひたすら気遣ってくれる龍神に心が揺れる。それでもやっぱり、私は元の世界と推しを捨てる決断はできなかった。
◆
夜になってまた夜の花畑へと向かった私は、眼前に広がる花々を見て愕然とした。
「そんな……昨日と違う……?」
昨夜はチューリップのような花だった。今夜は白いスイレンのような花。葉の形状は全く違っていて、水の上ではなく土から茎が伸びている。
きりきりと痛み始めた胃を抱え、焦りながら一つ一つの花を覗き込む。果てしなく広がる花畑の中、絶望で膝を着く。
「……どうしよう……私……シュゼンに消えて欲しくないの……」
今から戻って、シュゼンの嫁になることを承諾すれば間に合うだろうか。シュゼンの優しい笑顔を思い出し、目から涙が零れた。
涙は頬を転がって、足元の花へと落ちて鈴に似た音が鳴る。不思議で綺麗な音に目をやると、白い花の中、赤く光る玉を見つけた。
「もしかして、これが〝赫焉の玉〟?」
二センチほどの赤い玉を手にした途端、私は塗籠へと戻された。
◆
安堵で眠りに落ちた私を、優しく起こしたのはシュゼンだった。
『起こしてすまない。……響歌、短い間だったが私に付き合ってくれてありがとう。とても楽しい時間を過ごせた』
それはまるで別れの言葉。寝惚けていた頭が一瞬でクリアになった。
目を開いて起き上がり、微笑みながら自らの龍の角に手を伸ばそうとしたシュゼンの手を掴む。
「待って。角を折ってどうするつもり?」
あのナマズは言っていた。角を折らせるなと。それは一体何を意味しているのか。
『……響歌だけは助ける。安心して欲しい』
その身勝手な優しさにムカついた。
「答えになってない。自己犠牲なんて私は要らないの。ここに〝赫焉の玉〟がある。これで何とか出来ない?」
懐紙に包んだ赤い玉を見せるとシュゼンが驚いた。何故か一緒に包んでいたはずの鍵は消えている。
『何故、それを?』
「二晩掛けて探したの。何百どころか、何千の花から探すなんてとっても大変だったんだから!」
腹が立って仕方がない。シュゼンは私に何も説明せずに、私を助けて消えるつもりだったと推測できる。過ぎた優しさは、時に心をえぐる凶器になると初めて知った。
『響歌、ありがとう』
「お礼は後で。儀式を乗り切ってから」
シュゼンの手の中で赤い玉に金の金具と茶色の紐が付けられ、私の首に下げられた。櫃の中から、鮮やかな十二単衣を取り出してシュゼンに着付けを手伝ってもらっていると、荒々しく扉が開いてヨウゼンが飛び込んできた。
『シュゼン! 〝境界の門〟を作る許可を特別に得た。これで人界に逃げろ!』
その手には、三十センチくらいの金と銀の丸い実がなる赤い珊瑚の枝が握られている。
『ヨウゼン、ありがとう。だが、逃げる必要は無さそうだ』
『何故だ?』
『響歌が〝赫焉の玉〟を見つけてくれた』
シュゼンの言葉を聞いたヨウゼンは、気が抜けたように座り込んだ。
『……そうか……良かった。それなら良かった』
どうやらヨウゼンも、シュゼンが消えないように動いていたらしい。神々の中でも一番霊格の高い神の元に行き、頼み込んで異界を繋ぐ〝境界の門〟の設置許可を得ていた。
『ヨウゼン、ありがとう』
『礼は不要だ。儀式を乗り切ってからだ』
私と同じ言葉を発したヨウゼンに驚いて、シュゼンと顔を見合わせて笑ってしまった。
◆
日が昇り、寝殿で露顕の儀が始まった。板張りの床に分厚い畳が置かれ、黒の束帯姿に龍の角を現したシュゼンと、紅色系の華やかな十二単を着た私がお雛様のように座っている。
束帯も私が色を付けた。この儀式での袍の色は黒と決められていて、その他は私の好み。他の神様たちも袍以外の色は意外とカラフル。
私の化粧は赤い紅を目尻と唇に差しているだけというシンプルさ。真っ白な白粉を顔と首に塗るのは回避。装束に負けているような気はしても、諦めるしかない。
十二単衣は見た目はしっかりしていて豪華なのに軽い。昔、着装体験で着た時は装束だけで十五キロあったのに、これは五キロの米袋よりも軽い。不思議な櫃から出てくる装束は特別な材料で出来ているのだろう。
おとなしく微笑みを顔に貼りつけて黙っていた私は、しびれを切らしてシュゼンに小声で尋ねた。
「……これ、儀式なの?」
どうみても宴会にしか見えない光景が広がっている。立派な黒い束帯を着た数十人の神様たちが、御膳を前にして飲み食いして笑っているだけ。
時折、白い瓶子や金色の急須に似た酒器で、私たちの酒杯にお酒を注ぎに来て祝いの言葉を下さる以外は完全に宴会。田舎では見慣れた光景ではあるので、緊張感がない。
直衣姿のヨウゼンと数名の男性たちがあちこちを駆けまわり、料理や酒を手配していて気の毒だけれど、主役は動いてはいけないとヨウゼン自身から厳命されている。
『皆で笑うことで闇を払い、光を招く。二人の門出を祝う儀式だ』
束帯姿のシュゼンの凛々しさにどきりと胸が高鳴った。熱くなっていく頬は赤いかもしれない。それでも私は嫁になることを承諾してはいない。この儀式を乗り切って〝境界の門〟が開いたら元の世界に帰るだけ。
酔っぱらった神様が、即興で和歌を詠み上げると別の神様が返歌を詠む。古語で詠まれると何がなんだかさっぱりわからないものの、祝い歌であることは雰囲気でわかった。
徐々に和歌は熱を帯び、歌合戦の様相を呈してきた。和歌は苦手という神様が楽器を取り出し合奏を始め、誰かが庭の中央に舞台を設置。流れる雅楽に合わせて踊り出して、完全にカオス。
全然わからなくても皆が笑うから、何となく楽しくて笑ってしまう。笑い声の絶えない宴会は夜になって、ようやく終わりを迎えた。
◆
神様たちが帰っていくのを見送って、すべてが終わったのは深夜。宴会後の惨状はヨウゼンと数名の男性によってあっというまに消し去られ、屋敷には静寂が戻った。
「〝赫焉の玉〟って、実はいらなかった?」
紐で首から掛けた赤い玉は十二単の奥深く。あれだけ一生懸命探したのに、見せろとも一切言われなかった。
『それがあったから、何も起こらなかっただけだ。もしも無かったら……今、私はここに存在していない。本当にありがとう』
そっと手を握られて、胸の鼓動は爆上がり。ひやりとした大きな手は男性のものだと意識してしまって、心臓に悪い。
見上げると赤い瞳とぶつかって、どきどきは止まらない。無言で見つめあう空気が和らいでいく。この雰囲気を破壊して拒否する言葉を口にしなければと思うのに、頭は真っ白。
『響歌……』
優しい声で名前を呼ばれて、さらに思考が硬直する。シュゼンの唇が何かを言おうとした時、渡殿を駆けてくる足音が響いた。二人同時に手を離して距離を取る。
『シュゼン! 片付けもすべて完了したぞ…………どうした?』
「な、何でもない、何でもない! あ、あの、お疲れさまでしたっ!」
私は不自然な笑顔を作りながら、残念と思う気持ちを心の中で殴り付けて黙らせた。
◆
何事もなく朝になり、私はシュゼンの馬に乗せられて最初に出会った花畑へと向かった。その間、シュゼンと私の間の会話は一切なく、ただ顔を見ては微笑むだけを繰り返す。
離れるのは寂しいと思う気持ちもある。悩んでみたけれど、この世界に残るという選択はできないと結論が出ている。
花畑の手前で馬を降り、シュゼンが私の手を握って歩き出す。手を繋ぐなんて恥ずかしいと思っても、これが最後と思うと胸がきゅっと痛くなるから抵抗はしない。
「……シュゼン……」
私が名前を呼ぶと、シュゼンが驚いた。
『初めて名を呼んでくれたな』
その微笑みは寂しくて切ない。
「……これを受け取って欲しいの」
私が差し出したのは〝赫焉の玉〟。元の世界に持って帰ろうかと思ったけれど、未練が残るだけ。
「ごめんなさい。私、やっぱりシュゼンの嫁にはなれないの。料理とか洗濯とか、自分のことを何もしなくていい生活って向いてないってわかった。ネットも繋がらないし」
静かで緩やかな生活の中では、私自身の価値を見出せなかった。働いて、誰かと交流して、賑やかで面倒な生活の方が、私には合っている。
「……一番の理由はね、やっぱり私は推しを忘れることなんてできないってこと。私は元の世界に戻るから、新しいお嫁さんを探して」
『……そうか。……だが私は、響歌を忘れることはできない。響歌がただ一人の嫁だ』
その言葉は、今まで聞いた中で一番力強くて。
「ありがとう。さようなら」
泣かないと決めていたのに、涙が零れた。たった数日一緒に過ごしただけなのに、私の心はシュゼンが好きだと叫んでいる。推しも好きでシュゼンも好きなんて、全くもって浮気者。
とびきりの笑顔をシュゼンに贈り、私は異世界を後にした。
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