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第五話 婚姻届はまだ早い。
異世界から戻って、私は逃げるように実家から自分が借りている部屋へと戻った。一週間があっという間に過ぎ去り、シュゼンと過ごした不思議な五日間の思い出はすでに懐かしくて遠い。
仕事もそれなりに順調で、特に不満もない。変わらない日常も、推しがいるから楽しい。
「さーって、今日も推しに課金よ、課金」
ボーナスも入ったし、今夜から始まるイベントも楽しみで仕方ない。新衣装が出ると予告があって、シルエット画像から推測すると着物系。
「浴衣かな? それとも普通に着物かなー。どっちでもカッコイイよねー」
ふと、狩衣が似合うシュゼンの笑顔を思い出した。寂しさを感じても、元の世界に戻ると決めたのは私。神様と結婚するなんて考えられないし、便利なこの世界から不便な異世界に移住することも難しい。
スマホを握りしめてアプリを起動させるとゲームのタイトル読み込み状態で表示が止まった。どこを押しても読み込みは終わらないし、ゲームが始まらない。
「え? 繋がらない? イベント前なのに、すでにサバ落ち? どんだけ人気なのよ……」
以前、イベント途中に通信量過多でサーバーがダウンしたことはあった。また今回もそうなのかと思って私設の交流掲示板にアクセスして愕然とした。
「しゃ、社長が失踪っ?」
実はゲームの運営会社が他業種に手を出して巨額の負債を抱えていた。数日前に社長が失踪して判明したらしく、唐突な差し押さえが発生。社員もどうすることもできずにゲームもサービス終了という話が転載してあった。
「う、嘘でしょ……私の画像庫は……?」
学生時代から今までイベントの度に課金し続けて、推しのイラストは些細な違いでも全部入手してきた。総数は千枚以上。課金総額を計算したことは無い。
何度アクセスしてもゲームは始まらず、画像はすべて運営会社のサーバーの中。プレイヤーは誰も見ることはできなかった。
しびれを切らした有志がスクショ保存していた画像を交流掲示板に載せ始めると、掲示板が権利侵害で閉鎖されてしまった。以降は表立って画像を提供しようという動きはなくなり、担当していたイラストレーターたちがギリギリまで似せた絵を描いてSNSで流してくれるのを待つのみ。イラストの報酬も遅延していたようで、タダ働きを催促するなんてできない。
とてもありがたいとは思っても、推しとは似て非なるキャラ。似ているけれど違うという衝撃と、推しにもう会えないという悲しみが襲ってきてツラすぎた。
ゲームにログインしていた夜になるとスマホを握りしめて涙を流す日々の中、SNSで再開を望む署名集めが始まってクラファンの話も出て盛り上がっていたのに、サーバーのレンタル代金も長期間滞納していてデータがすべて消されてしまったという公式発表で夢は潰えた。
◆
ゲームがサービス終了して一カ月が過ぎ去った。ゲーム仲間たちは、次の新しいゲームにハマり始めて減っていく。まだまだ熱く語れる仲間はいても、待ち受け画面と数十枚のスクショ、アクスタとアクキー以外は何も残っていないという衝撃から立ち直れてはいなかった。
仕事を終えて重い体を引きずるようにマンションに戻ると、引っ越し屋とすれ違う。ちょうど引っ越しが終わった所らしく、廊下やエレベーターに貼った養生シートを外している。
「ありがとうございましたー!」
引っ越し屋の人が頭を下げているのは、隣の部屋。
「ありがとう」
住人らしき声は、低くて良い声。シュゼンに似ているかもしれないと思ってしまった自分が、未練がましくて自嘲する。推しがいない寂しさが、私の耳にまで異常をきたしているのかも。
引っ越し屋の姿はすぐに消えて、自分の部屋の鍵を取り出した時に隣の扉が再び開いた。一応挨拶するべきかと隣から出てきた男性を見て、私の思考は停止した。
「……シュゼン?」
「ああ。覚えていてくれたか」
微笑むシュゼンの黒髪は短くなっていて、服も白いサマーニットに黒のジーンズ。黒い革のスニーカー。赤かった瞳は黒く、手には白いコンビニ袋。
「ど、どうして?」
「響歌がこちらに来れないのなら、私がこの世界に住めばいい。……これを」
近づいてきたシュゼンから手渡されたコンビニ袋には、即席のカップそばが二つ。
「両隣には、引っ越しそばを配るのが常識だと書いてあった」
最新機種のスマホを私に見せながら、きらきらと輝くような瞳で言われても困惑するしかない。
「ちょ、ちょっと待って、スマホ使えるの?」
「ああ。機種はヨウゼンが選んでくれた。便利な物だな」
どうやらしっかり使いこなしているらしいと知って、衝撃を受けた。
「で、で、でも……龍神様って、何か大事なお仕事があったりするんでしょ?」
「大丈夫だ。この部屋に〝境界の門〟を作った」
「は?」
誘われるままにシュゼンの部屋に入ると、真新しい家具が並んでいて最新機種のパソコンが置かれ、巨大モニタが壁一面に取り付けられていた。
「門って、どこ?」
「これだ。百インチだそうだ」
シュゼンが指さすのは巨大なモニタ。縦は一メートル、横は二メートル以上は確実にある。
「パソコンを起動すると繋がる仕組みだ。これで行き来するから、休息の時間はこの部屋で響歌と過ごせる」
「え……」
一瞬どきりと胸が高鳴った。そんなに優しく微笑まれても困る。
「や、家賃は?」
私の問いに、シュゼンは引き出しから通帳を取り出した。
「持っていた宝物をいくつか売った。金が特に高く売れたな」
銀行の通帳には見たこともない金額が印字されていて、家賃や家具代が引き落とされていても、桁が違い過ぎて些細な誤差に感じる。
「私がこの世界で暮らすのは問題ない。響歌の言っていた問題はこれで片付いた」
「……待ってシュゼン。まさか私の推しゲーがサービス終了したのも、シュゼンが何か操作したの?」
ざわりと不安になった。もしもシュゼンが手を回していたのだとしたら。……私の推しを消し去ったのなら絶対に許せない。
「私は響歌の推しに何もしていない。この世界へ引っ越す準備で手一杯だった」
まっすぐに目を見つめると、真剣な視線が返された。それでも、信じてもいいのだろうかという不安は拭えなかった。
「……信じたいけど、正直に言うと信じられない」
「信じてはもらえないのか?」
推しを突然失った悲しみは、私の心を蝕んでいる。好きと感じたシュゼンに会えて嬉しいとは思っていても、たった五日間一緒に過ごしただけ。学生時代から六年間毎日一緒だった推しとは比較にならない。
例え二次元の画像と音声のデータだけの存在でも、推しは私の人生の一部。
「どうすれば証明できるのか………」
眉をひそめて哀しそうな表情をしたシュゼンの言葉の途中で、部屋の扉が勢いよく開いた。
「飯買ってきたぞー」
大きなピザの箱六つとビニール袋を提げて入って来たのはヨウゼン。白のTシャツにモスグリーンのシャツを羽織り、迷彩柄のカーゴパンツにブーツという出で立ち。短い髪はオレンジ色のままで、目は黒くなっている。
「……あ? お前、何故ここにいる?」
「私が招いた」
私の顔を見て不機嫌な顔をしたヨウゼンに、シュゼンが答えると表情が一変する。
「そうか。それなら仕方ないな。……どうした。二人で深刻な顔をして」
「……それが……」
「私の推しのゲームが突然終了したの」
終了の経緯を簡単に説明するとヨウゼンはあっさり理解してくれた。
「あー、それでシュゼンを疑ってるってことか。何か手を回すような暇はなかったぞ。俺も含めて周囲の者はこの引っ越し準備で忙しかったからな。そもそも、俺はその推しとやらの名前も姿も知らないんだが。シュゼンには言ってたのか?」
そう言われればそうだった。私は推しがいるとは言ったけれど、名前もゲームのタイトルすら口にしていなかった。
「疑ってごめんなさい……あまりにもショックだったから、もう何も信じられなくて」
罪悪感が一気に心に押し寄せてきた。項垂れる私の手をそっとシュゼンが握りしめると、ひやりとした体温と大きな手にどきりと胸が高鳴った。
「推しの替わりにはなれないが、これからは私がそばにいる」
その微笑みは優しくてときめきが頬を熱くするけれど、あの夢のような異世界とは違って現実味があり過ぎる。本当にどう対処していいのかわからなくて硬直してしまう。
「おーい。ピザが冷めるぞー。感動の再会は食ってからにしてくれ」
ヨウゼンのからかうような声で我に返った。咄嗟に手を引き抜いて、シュゼンから距離を取る。
「お前も一緒に食うか? 四枚買ったら二枚タダで付いてきた」
そのお誘いは嬉しいとテーブルの上を見ると、三十センチのピザが六枚、箱に入ったフライドポテトに大量の缶ビール。
「……野菜は?」
ピザの箱のふたを意気揚々と破り取って、テーブルにきっちりと並べ始めたヨウゼンに確認すると、フライドポテトと付属のケチャップを指さした。
「まさか……ケチャップが野菜だとか思ってる?」
「違うのか?」
「あれだけ豊富な料理を用意してたのに……」
そう言いかけて気が付いた。異世界の御膳に山菜や温野菜はあっても、サラダや生野菜は無かった。そもそもサラダを神様にお供えするなんて聞いたことがないから知らないのかも。
慌てて隣の自室に行って、生のホウレン草でサラダを作って戻ってきた。
「草?」
「違います。ホウレン草。知らない?」
「野菜は加工品か、火を通された物ばかりだからな……」
ヨウゼンがサラダを回避してピザを食べる横で、シュゼンは私の特製ドレッシングを気に入ったらしく、美味しいと言ってサラダをお箸で食べている。
「ポテトいただきまーす」
箱に入ったフライドポテトを摘まんで口にするとほくほくとした美味しさが広がる。ヨウゼンがまだ開けていないポテトの箱に手を伸ばしたので、親切心でポテトを勧めた。
「ば、馬鹿っ、お前……」
何故かヨウゼンの顔が真っ赤に染まっていく。一方でシュゼンの顔が青ざめる。
「どうしたの? 私、何か変なこと言った?」
「……女が食べている物を男に分け与えるのは求婚の意味がある。相手の男が食い、男が持っている食べ物を女が食べれば、それで婚姻成立だ。お前、一妻多夫を狙ってるのか?」
ざーっと血の気が引いていく。出会った時、私は食べていたスイカをシュゼンに分けた。そしてシュゼンが持っていたお餅を食べた。
「えええええええ! ちょ、ちょっと待って! それって……私、本当にシュゼンと結婚しちゃってるってこと? む、無効に出来ないのっ?」
「まさか知らなかったのか? ……無理だな」
ヨウゼンがにやにやとからかうような笑顔になって、青ざめたままのシュゼンが私をぎゅっと抱き寄せた。
「響歌の推しの存在は認めるが、私以外に夫は持たないでくれ!」
抱きしめられると混乱する頭と心臓が爆発しそうになる。ちょっと待って欲しい。求婚なんて、そんなつもりは一切なかった。
「えいっ!」
あご下を狙って、思いっきり頭を上げるとクリティカルヒット。
「……っ!」
悶絶するシュゼンの腕が緩み、その隙に腕の中から抜け出て距離を取る。
「そっちの世界ではそうかもしれないけど、こっちの世界では違うから! 常識が違うのよ!」
「それでは、私にこちらの常識を教えて欲しい。私も勉強する」
期待に満ちた眼差しで見つめられると、どきりとした。ふとシュゼンが握りしめている分厚い雑誌に目が行く。表紙はウェディングドレス姿の女性。
「な、何で結婚情報誌なんて持ってるのよっ!?」
「コンビニで購入した。婚姻届が付録とは便利な本だ」
きらきらとした紙に印刷された華麗な婚姻届を持ってシュゼンが笑う。それが付録? そもそも、それは公式に通用するのだろうか。
「この世界に戸籍はないでしょ? どうやって届を出すのよ」
「戸籍は作った。運転免許も取得した」
シュゼンの長財布から出てきた免許証は偽造とは思えない。誕生日は私よりも二年上で……この日付は……。
「私の誕生日は響歌と初めて会った日と決めた。……こちら風で言うなら、結婚記念日だな」
微かに頬を赤らめてはにかむシュゼンの表情が、私の心臓を鷲掴み。ばくばくとうるさいくらいに鼓動が跳ね上がる。
乙女かと突っ込みたくなる衝動と、恥ずかしいくらいにくすぐったい気持ちとがぐるぐると頭の中を駆け巡る。シュゼンが夫かと、頭のネジと頬が緩みかけた所で推しの顔が脳裏をよぎって踏みとどまる。
「ちがーう! 私はまだ、結婚を承諾した訳じゃないから! 私には推しがいるの!」
そう。私はまだ推しを忘れていないし、再会を諦めてはいない。新しい思い出は作れなくても、大事な思い出は胸にある。
「響歌が推しを想っていても構わない。だからこの世界でも結婚して欲しい」
シュゼンの手には、先程とは違う可愛らしいゆるキャラが印刷された婚姻届が握られている。……だからそれは本当に役所で受け付けてもらえるのだろうか。
「しばらく考えさせて! とりあえず、今はピザ!」
シュゼンの想いが嬉しいと感じる心と、推しは絶対にあきらめられない心とが混ざり合って複雑怪奇。ぐらぐらと揺れる感情を抱えながら、私は冷めかけたピザにかじり付いた。
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