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第八話 乱神がご乱心なのです。
ベランダに置かれたタライの中、金色の鯉は無防備に白いお腹を見せてぷかぷかと浮かんでいる。
「響歌の目で、何か気になることがないか確かめてくれないか?」
シュゼンの求めに応じて鯉に近づくと、くるりとひっくり返って元に戻った。体長は約六十センチくらい。
『何だ、恥ずかしいな』
頬を赤らめる鯉は意外と全く可愛くない。近くで見ると金属光沢の鱗は一枚一枚が鋭利な刃。これは掴んだら手が切れそう。シュゼンがタライに入れているのもそれが理由なのか。
「これが好物の鯉なの? 食べたら鱗で舌切って痛そう」
『それは違う。好物の鯉にこんな鱗はないぞ。他の奴らに珍しい色だって喰われそうになったから、鱗を鋭利にしたまでだ』
「あ、そういう変化はできるんだ。……他の奴らって?」
『神獣やら、霊獣の奴らだ』
「……共食い的なこともするのね」
『普通は避けるが、それで他者の神気を取り込む馬鹿がいるからな』
麒麟の声のトーンが下がった。これは地雷に触れたかも。踏んで破裂する前に話題を変えたい。
「純金みたいな綺麗な色ね……んん?」
『どうした?』
じっと目を凝らしてみると、尾びれに近い鱗の一枚が薄い金色。
「一枚だけ、金色が薄い鱗があるの。シュゼン、これ」
指で示すと覗き込んだシュゼンが押し黙る。
「すまない。私には色の違いがわからない」
「え、そうなの? こんなに色が違うのに」
『……成程な。龍神は俺の力の色を見ているから、体色の違いがわからないらしい』
「どういうこと?」
「私の目には、神気の色が優先して見えてしまう。金色の鯉の姿の上に、橙色の光の膜が覆っているように見える」
「……私は? ちゃんと見えてないの?」
平凡な私の姿が、実は見えていないのかと不安になった。ぼかしフィルター掛かってるから美人と区別付かないとかだったらどうしよう。
「響歌はしっかり見えている」
その言葉にほっとした。神様や神獣同志は、その姿に意味はないのかもしれない。姿をいつでも変えられるのなら、神気で見分けることが重要なのか。
『人間にその姿を覆うくらいの神気がある訳ないだろ。多少は持ってる者はいるが、お前は全く何もない。……何故龍神の嫁に選ばれたのかさっぱりわからん』
からかうような鯉の言葉にムカついた。……私の魂は輝いているはず。そう思い出してシュゼンをちらりと見上げると、ふわりと微笑まれてしまってどきりと胸が高鳴る。……私は推し一筋の女。
「触れてみてもいいだろうか」
シュゼンは鯉に許可を得てから、私が示した鱗を右手の指先でそっと触れる。ばちりと音を立て、小さな黒い雷が発生して消えた。
「何、今の黒い雷」
「見えたのか?」
驚いた顔のシュゼンに頷いて応える。
「乱神の力だ。何か不興を買ったのかもしれない」
『おい、俺は乱神に近づいてもいないぞ!』
慌てた顔をした鯉が、尾びれをばたつかせて叫ぶ。
「乱神って何?」
「平常心を失った神のことだ。人界では荒魂や祟り神と呼ばれている。今、響歌が見た黒い雷は、怒りの波動だ。相当怒っていると感じた」
「何か罰当たりなことしたんでしょ」
『していない!』
打って変わって、鯉は必死に否定する。先程の余裕は欠片も残っていない。
「何でそんなに焦っているの?」
『……俺は過去に一度、乱神に喰われかけた。それ以来、絶対に近づかないと注意してきた。神は他の神や神獣を食う〝忌食〟を最大の禁忌としているが、乱神は理性の欠片も残っていないこともある』
食べられかけた当時の記憶を思い出しているのか、鯉が身震いしている。
「もしかして、食べやすいように姿を奪った……とか?」
『まさか。俺の姿を奪った後、鯉の姿になるとは誰も予想もしなかっただろう。俺も想像もしていない。……神獣である俺を神が喰うと、人界に大災害が起きる』
何かどんどん面倒な話になってきたような気がする。それでも、この世界に大災害が起きると言われれば、阻止しなければという使命感は出てきた。
「このまま、ここで鯉として過ごしたら? でっかい水槽用意してもらって」
『お前、他人事だと思ってるだろ。麒麟である俺が野山を駆け、空を飛ぶ自由を失くすなど、死にも等しいぞ』
ぎろりと睨まれても大したことはない。
「シュゼン、どうするの?」
「先程の力を記憶したから、力を辿ることができる。本人に直接会って話を聞くしかないな」
そう言ってシュゼンは困ったような顔をした。憂いに満ちた顔も美形なんて、なんだかズルい。私は、どきどきとする胸を押さえるしかなかった。
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