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スリットの入ったタイトスカートにシフォンブラウスを着たゆこは、緩く髪をアップにして背筋を伸ばしてそこに座っていた。
隙のないメイクで、何ひとつ隠さずに前を向くゆこに「りか先生」の面影は無かった。
ゆこの座ったベンチの前を通り過ぎるスーツ姿の会社員が、チラチラと視線を向けていく。
黒服と遭遇したスーパーの横の、小さな噴水のある憩いスペースのベンチに、ゆこは腰掛けていた。
テイクアウトしたカフェオレは、一口も飲まれることは無く、随分前に手の中で中身が冷めてしまっていた。
あれからすぐに家に送ってもらい、準備を整えてお辞儀さんの運転する車に乗った。
助手席に村沢。
後部座席に、ゆこと霧島が乗り込んだ。
待たせた事を詫びると、ほんの30分程でのゆこの変わり身に、ミラー越しに村沢が微笑んだ。
「お綺麗です、見違えました」
自分を奮い立たせる為の戦闘モード。
緊張で言葉を返す余裕すらなかったが、車が止まるとゆこは三人に頭を下げた。
「お世話になりました」
ドアを開けたゆこの背中に、霧島が声をかけた。
「弁当の、礼がまだだったな」
振り返ったゆこは、え?と首を傾げた。
「そのうち、返す」
微かに、霧島が笑った。
霧島が乗った車は、まだそこに停まっていた。
車とフェンスを挟んだベンチに腰を下ろしたゆこからは、スモークの窓で中の様子はわからない。
けれど、車が動く気配は無い。
(…帰ってくれて、いいのに)
一時間ほど経っただろうか。
日は沈みかけ、辺りの人通りも少なくなってきた。
店の…黒服の執着は深い。
ゆこだと気付いたのなら間違いなく見つける。
俯いた耳に、ジャリと靴音が聞こえた。
顔を上げる前にガシっと肩を掴まれた。
「つーかまえた」
爬虫類が言葉を話せたら、きっとこんな声じゃ無いだろうか、と思った。
ゆこは意識してゆっくりと顔を上げた。
甘ったるいだけの香水の香りと、したり顔の赤髪の男。
掴まれた肩が痛い。
「逃げないわ、離して」
男の隣にはニヤニヤとしたあの女も立っていた。
「信用出来ないねぇ、二年も雲隠れしといてさ」
赤髪の言葉に乗っかる様にして女も口を挟む。
「で?誰に跨って飼われてたの?…もしかして捨てられた?随分野暮ったい格好してたじゃない」
店にいた頃から、この女はゆこを毛嫌いしていた。
せせら笑う声に吐き気がした。
一瞬であの頃の暗い記憶が戻ってくる。
怖気付いて視線を逸らしてしまう、その寸前。
微かに煙草の匂いがした。
霧島の車の窓が開いているのだ。
(…大丈夫)
怯んではいけない。
霧島が心配するかもしれない。
決して、引き摺られて帰ってはいけない。
大丈夫だ、自分で選んだのだから。
「あなた、まだブロンズのままなのね」
ゆこはゆっくりとその細い顎を上げた。
背筋を伸ばして女を見据える。
眉間に皺を寄せた女に、わざと微笑みかける。
綺麗に口紅を引いた唇で囁いた。
「こんな所でスタッフと歩いてるなんて、そうじゃ無きゃ…考えられないわ」
隣の赤髪と目を合わせ、高飛車に微笑む。
パサリ、髪をまとめていたクリップを外し、緩く頭を振る。
その柔らかな髪は緩やかなウェーブを残して背中に広がり、まるでそれは羽の様だった。
「連れて帰ってちょうだい…その人がこの二年で上げた売り上げ、三ヶ月で倍にして納めてあげる」
赤髪は、一瞬見惚れた様に動きを止めた。
そして歯噛みする女の横で、ゆっくりと頭を下げた。
それはまるで女王の帰還に喜ぶ騎士の様だった。
ーーーーー
ゆこが乱暴に肩を掴まれた時、霧島はドアに手を掛けていた。
彼女が望んだとはいえ、手をあげられる様なら男を殴り飛ばして連れ帰るつもりだった。
だが、ゆこは毅然としていた。
胸を張り背筋を伸ばしたその姿は、これまで見てきたその手の女には無い美しさだった。
男と一緒に居た女の2年間の売上の倍を、3ヶ月で納めると微笑んだ顔は、先程まで泣きじゃくり息の仕方を忘れた彼女とは別人だった。
ゆこは悠然と歩き去っていった。
霧島の乗る車をチラリとも見ることは無かった。
ゆこの姿が見えなくなると、助手席の村沢が感心した様に口火を切った。
「なかなか、うちの組に欲しい位の肝の座りようですね…大した女性だ」
「オレ、惚れそう」
運転席のケイの目も、去って行った方向に向けられたまま心なしか輝いている。
霧島は鬱陶しげにため息をつくと、前を見据えて言った。
「村沢、調べろ…動くぞ」
霧島は、このままゆこを渡しておく気など無かった。
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