奪還

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初めましてと村沢が言ってくれて良かった。 そうで無ければ、きっとゆこは声をあげていただろう。 壁際に立つ黒服に、不審に思われてしまう。 「ユウです、こんばんは」 ステージから降りてきた優香がゆこの隣に並んだ。 村沢と挨拶を交わす優香の隣で、ゆこはそっと隣に視線を向けた。 霧島はゆこを見ていた。 変わらない静かな瞳がゆこの視線とかち合う。 「こんばんは、ワカです」 霧島は深くソファーに腰掛け、足を組んで煙草をふかしていた。 微かに、その目が笑った気がした。 「…宜しく」 霧島の声に、ゆこの喉がぐっと締まる。 …泣きそうだ。 (また、会えた…) その時だった。 「あ、やっべー、こぼした!」 ソファーの後ろに待機していた男が大きな声を出した。 ぱっと顔をあげると、男の胸元にワインが零れシミができていた。 (あ、お辞儀さん) いつものラフなジャージじゃない、スーツを着た彼がすっと黒服に手を挙げた。 「悪いけど、おしぼり貰える?」 畏まりました、と黒服が部屋を出ていった。 「りか先生、こちらが優香さんですか?」 扉が閉まると同時に村沢が口を開いた。 「はい」 ゆこが答えると優香が驚いて目を見張る。 そしてハッとしてゆこの腕を取った。 「ゆこちゃん!この人が霧島さんなの?!」 再会してから、ポツポツと話して聞かせた2年間。 ゆこが霧島に想いを寄せている事に、優香はすぐに気が付いた。 ゆこは首を振り、視線を霧島に向ける。 最初に挨拶をした村沢に気を取られていた優香は、ぱっと霧島に向き直ると、 「その節は、ありがとうございました」 とまるで保護者のように頭を下げた。 「いいや…」 霧島が短く答えた時、ノックの音がした。 滑るように黒服がおしぼりをトレイにのせて入って来た。 「あ、どーも」 何でもない顔で、おしぼりを受け取るお辞儀さん。 「ワイン、どうです?」 村沢が優香を隣に促した。 「頂きます」 必然的に、ゆこは霧島の隣に腰を下ろした。 黒服が優香とゆこの前にグラスをセットし終えたところで、優香がおもむろに声をかけた。 「お客様が、カンパネラをお聴きになりたいそうなの。オーケストラで」 黒服がは?と顔を上げた。 「地下の倉庫にあるわ、LPの方が音がいいの、探してくれる?」 黒服には、聞き慣れないそれは呪文か何かと同じだろう。 「『リスト』の『カンパネラ』…お願いね?」 黒服は頷くとそそくさと出ていった。 曲名を控えたいのだろう。 「…意地悪ですね」 村沢が面白そうに喉を鳴らした。 「あの曲、多分奥の箱をひっくり返さなきゃ出てこないと思います。…だって、私が見た事ないんだもの」 「いつ、ホールで歌う?」 霧島が隣のゆこに顔を向けた。 自分を霧島の目が捉えている。 それだけで泣きたいほど嬉しい。 「大きな変更が無ければ、ほぼ毎日です」 「時間は」 また来てくれるのだろうか。 嬉しくて、答えを探す様に霧島を見つめる。 ふっと細められた瞳は優しい色をしていた。 …ほんの少し会わないだけで、ゆこは自分の霧島への気持ちを痛いほど自覚してしまっていた。 もう、顔を見る事すら難しいと思えば思うほど、その気持ちは大きく育っていく。 「毎日、十九時半からです」 「そうか」 答えた霧島がグラスのブランデーを飲み干した。 咄嗟にボトルに手を伸ばした。 …まだ、ここに居て欲しい。 「ダブルで」 「っ、はい」 流れてくるジャズの音色で、村沢と優香の会話は聞き取れなかった。 それほど近くで、囁くように話しているのだ。 ここはそうゆう空間。 ゆこは今この時だけでも、と。 仕事の力を借りて霧島の腕に手を這わせた。 その大きな肩にそっと頭を寄りかからせて。 霧島は何も言わなかった。 只、ゆこの注いた酒をゆっくりと傾ける。 このまま時間が進まなければいいのに。 この人が好きだと、指先を巡る血液まで全てが感じている。 黒服が部屋に戻るまで、霧島とゆこは一言も話さなかった。
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