1763人が本棚に入れています
本棚に追加
/76ページ
「ホットで」
はいと小さく返事を返す。
マスクをして眼鏡をかけ直したゆこは、エプロンのポケットからシュシュを取り出して、髪をサイドに緩く結わえ直した。
何度か見かけた事があっても、相手は自分の事を知らない。
お向かいさんですよね?、なんて言えないなとゆこは思った。
ヤクザさんですよね、なんて以ての外だ。
うーん、とコーヒーを淹れながらゆこは考える。
うん、お話しはやめておこう。
彼が待っている薫は、向かいの組の親分さんの奥様だ。
きっとその兼ね合いの用事だろう。
コーヒーを淹れながら沈黙は続く。
元々食事を提供するスタッフが客に話しかける事は珍しいし、彼は常連さんでもない。
無言で不自然ではないはずだと、自分で自分を納得させながら、手先は一杯分のコーヒーを最速で淹れようとしていた。
その時、男が胸ポケットに手を入れカウンターに視線を流してふと、動きを止めるのが見えた。
(あ…)
ゆこはカウンターの内側から、小さな灰皿をそっと男の前に差し出した。
その手を伝って、男がゆこと目を合わせる。
「禁煙では無いので…どうぞ」
そもそも、そこに座ってコーヒーを飲む人は居ないのだ。
使われる予定の無いものをそこに置いていなかった、それだけだった。
ゆこの差し出した灰皿を、少し自分に引き寄せて男がフィルターを口に咥える。
チンと高い音をたてて、煙草に火が着いた。
最初の一服を深く吸い込んで吐き出すのと、ゆこが男の前にコーヒーを置いたのは同時だった。
男がタバコを灰皿に置いて、長い指がカップを持ち上げた。
ゆっくりと口元に運ぶ。
(…あ、綺麗な仕草…)
ゆこがこれまで関わってきた、その手の人とは明らかに違う、落ち着いた優雅さが男にはあった。
ぼんやりと見ていたら、視線を感じたのか男が顔を上げゆこと視線を合わせた。
(しまった…見すぎた)
不躾な視線が不快にさせただろうか。
ふっと息を詰めたゆこに。
「食べないのか」
「え…?」
男の視線が流れて、小さなテーブルに置かれていたゆこのサンドイッチに流された。
サンドイッチの隣のゆこのコーヒーからは、もう湯気はなくなってしまっている。
「気にせず食べればいい…時間外だ」
「ありがとうございます」
もう視線は合っていなかったが、お礼を言ってカウンターを離れた。
けれどソファーに座るのは気が引けて、ゆこはコーヒーとサンドイッチを手にまたカウンターの内側に戻る。
この人は薫さんの身内の人だ、私の顔を見たからって問題はないだろう。
マスクと眼鏡を外してから、ふと考えてゆこはナイフを出した。
サクと軽い音をたてて、サンドイッチが半分に切り分けられた。
ペーパーをひいた皿にそれを乗せると、ゆこは男の前にそっと差し出した。
俯いていた視線が上がって、ゆこと目が合う。
「この時間にいらっしゃらなかったら、あと三十分位かかると思います…よかったらどうぞ」
男の視線がサンドイッチを捉える。
「どうも」
ゆこはレモン水をグラスに入れて、それも男の前に置いた。
ひと口目を口に入れた男がゆっくり咀嚼する。
「…へえ」
立ったままで食べ始めていたゆこは、男の小さな声に顔を上げた。
「…うまい」
微かに、ほんのわずかに男の唇の端が上がっていた。
トクンと鼓動が跳ねた。
ゆこ自身驚いたが、何故かその男の表情に引き込まれたのだ。
「あ、裏メニューなんです、アボカドを内緒で入れてあります」
店主が誰に内緒にするのと言うのか。
実にどうでもいいカミングアウトだ。
もちろん男がそこを追求するわけもなく。
微かに頷いて、また二口目かぶりついただけだった。
最初のコメントを投稿しよう!