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お弁当とメモ
その翌日の事だった。
「え?お弁当…ですか?」
珍しく昼を過ぎた早い時間、薫が店に入ってきた。
そろそろ五十歳を目前に控えた年齢にもかかわらず、若々しい薫は、ふわりとした濃紺のワンピースがよく似合っている。
「そうなの、ゆこちゃんお弁当作れる?…...一人分でいいんだけどね?」
極妻、そんな雰囲気を微塵も感じさせない薫がゆこは大好きだ。
あの日、小刻みに震えていたゆこを抱きしめて「もう大丈夫」だと笑ってくれた時から、変わらずに優しい笑顔を見せてくれる。
「はい、大丈夫です。簡単なものなら。食材もありますし」
薫の頼みなら、断る理由は無い。
店は閑古鳥が鳴いているし、何よりゆこは料理が好きなのだ。
「じゃ、頼めるかな?ほんとに簡単でいいからね?出来上がったら、ここに連絡してあげて。
取りに来ると思うから」
そう言うと、華奢なピンヒールを鳴らして薫は店を後にしてしまった。
(せめて、どんな人が食べるか聞いておけばよかった…かも)
ゆこは取り敢えず、しまい込んでいた自分のお弁当箱を取り出して唸っていた。
綺麗な木目の曲げわっぱで、ちょっと背伸びして買ったお気に入り。
しかし問題は中身だ。
食べるのは男か女か。
わからないなら仕方がない。
一時間もかからずに曲げわっぱに隙間なく中身が詰まった。
枝豆の混ぜご飯に鮭の塩焼き。
出汁巻きにインゲンの胡麻和え。
きんぴらごぼうと、甘辛くたいた牛肉。
ご飯の横に塩こぶを置いたら完成だ。
彩りが少なく、ご飯とおかずの間に青じそをかませたのは苦肉の策だった。
大判のハンカチに包み割り箸をつけて、渡されていた番号に電話をかけた。
『はい』
「お世話になります、Secret baseのりかー」
『ああ、急なお願いですみません』
名乗りきる前に答えた相手は男性だった。
もちろん聞いた事のない声だったが、落ちついた柔らかい声だと思った。
すぐに伺いますと電話が切れた。
二分経っただろうか、驚く程はやく店の扉が開いた。
「こんにちはー」
間延びしたような口調で頭を下げたのは、愛想の良い金髪の男だった。
ゆことそれほど変わらない年齢に見える。
「お弁当の、受け取りの?」
「はい、ありがとうございます」
紙袋を受け取ると、彼は満面の笑顔で頭を下げた。
ちょっと下げすぎじゃないだろうか、きっちり九十度のような気がする。
大事そうに紙袋を抱え、もう一度頭を下げると彼は早足で店を出ていった。
驚いたのはその駆けて行った先だった。
向かいのビルに入って行くではないか。
「えーー!」
思わずドアまで駆け寄ってその行先を目で追ったけれど。
叫んでも後の祭りだった。
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