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風が心地よかった。
葉擦れのさやめき、やわらかな光。遠くで自分の名前を呼ぶ声には耳をふさいで、シェーラは目を瞑る。
ざらりとした樹皮に頬をのせて、午睡を決め込むことに決めていた。
やがて微睡み始めたそのとき、ミシッと木の幹がきしむような音がした。
「おや。こんなところに女の子が」
ごく近くで少年の声が聞こえて、シェーラは身を固くする。驚きと恐れ。息が止まりかけた。
自分がひどく不安定な場所にいるのを忘れて、がばっと身を起こす。
次の瞬間、腕を掴まれた。
「危ない。落ちる」
一瞬、体が浮いた感覚がたしかにあった。
だが、シェーラの体は枝の上に留まっていた。
目の前には黒髪に紫の瞳の、身なりの良い少年。シェーラより少し年上の、十歳くらいだろうか。目が合うと、腕を放しながらおっとりと微笑みかけてきた。
「驚かせてごめん。こんな場所でひとに会うと思わなかったものだから」
樹上。地面ははるか下。
身軽なシェーラは、側仕えの目を盗んで見咎められる前にひといきに上ってきたが、自分以外にもそんな荒業をする人間がいたことに驚いた。
「あなたも木登りが好きなのね。怒られない?」
「以前はね。今はもう僕の行動に関しては、諦められている。お前は言ってもきかないから、好きにしろって。君は怒られているの?」
「とても。貴族の御令嬢は木登りなんかしません、って。出来るものをして、何がいけないのかしら」
ふふ、と少年は楽しげに笑って頷いた。
「それはそうだね。実際、ここまで上って来た君の膂力はたいしたものだよ。そのまままっすぐその力を伸ばしていけば、将来は腕利きの騎士になれるんじゃないかな」
「素敵。私には兄も姉もいるし、家を継ぐ可能性はまずないの。生きていくには嫁ぐしか道はないって言われているけれど、そうそう都合の良い相手が見つかるかどうか。本当は、働きたいの。騎士になれるというのなら、なりたい」
「なれる。それにね、仕事と結婚はどちらか一方だけを選ぶものでもない。騎士にならず結婚をするつもりで鍛錬をしなければ騎士にはなれないけど、騎士になってから結婚するつもりなら両方できる」
少年のその一言は、幼いシェーラの胸に魔法の言葉として響いた。
「そうよね! その通りよ! あなたのおかげで、いま目の前が晴れたわ! ありがとう!!」
「どういたしまして」
品良く優雅に笑った少年の笑顔。
それから実に二十年経過した今となっては、もうぼんやりとしか思い出せない。
しかし、シェーラがその後周囲の反対と戦い続け、騎士団最初の女性副団長まで上り詰めるきっかけになったのは、その日の少年との出会いであることに間違いない。
名前すら、聞かなかった。
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