1. 犬猿のふたり

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 国立産業科学研究所、略して産科研。産業を支える自然科学を研究する国の研究機関である。所属している研究者は約900人、国内の研究所でもそれなりに規模の大きい研究所だ。  斉木悠里は有数の国立大学の修士課程を経て、この研究所に所属して三年になる。博士課程を経て所属している研究者も山ほどいる中で、悠里は若輩者ではあるものの着実に成果をあげ注目されている研究者の一人だった。  小柄な背中の中程まで伸びた髪はふわふわとウェーブしており、ツカツカと女性にしては速いスピードで歩くたびに舞い上がっている。しっかりとメイクして作り込まれた顔は常に無表情で、人形めいた雰囲気を強めていた。 「斉木さん予算請求の書類デスクに置いといたよ」 「分かりました」  ひょいと顔を出した室長にもスピードを緩めることなく一礼して歩いていく。奇人変人の溢れる研究者の世界で舐められたくない、その思いを鎧のようにまとっているのだった。  産科研は分野ごとにいくつかのセンターを持っている。悠里がいるのはその本部で、本部は10の部とさらにその下に室を抱えている。  悠里が所属するのは農林部の林業管理テクノロジー室だ。林業はカネにならない。従ってこの産科研では林業室への予算の割り当ては少なく、国からの要請を受けて研究しているものがほとんどだった。  カネにはならないが森や山といったところは適切に管理をしないと大規模災害につながる。であるからして管理手法については研究せざるを得ないのだが、管理にはコストが掛かる。  そのためのカネやモチベーションをどう生み出すか、いかに低コストで管理するかということは林業においてずっと付きまとっている課題であった。  それとは別に、悠里はただ森という場所が好きだった。それが高じて研究者になった訳だが、林業の立場の弱さやコストを絡めなければ何も語れない現状に、フラストレーションが溜まるのも事実だった。  悠里はスピードを緩めずに自分のデスクまでくると、ため息をついて室長の書類を手に取る。  いつも整理されたデスクはいわば悠里の戦場だった。森を守るために研究というツールで戦っている。だから悠里はいつも唇をキュッと引き結び、小柄な体の姿勢をピンと伸ばして、少しでも舐められないよう武装しているのだった。 「おい。これ」  気だるげな声に目線だけをやると、ボサボサの髪にメガネのくたびれた男が目に入る。どうやらまたここで一夜を明かしたらしく、風呂にも入っていないのか男臭い。  潔癖の気がある悠里は渡された書類を摘むようにして受け取り、うんざりとした様子で文句を言う。 「この書類昨日までなんですけど」 「総務への提出期限は明日だろ」 「取りまとめをする私のことも考えてもらえる?」 「はいはいすみませんでしたね」  男は全く反省していない様子で手をヒラヒラとふった。  この男のこういうところが勘に触るのだ。悠里はむしゃくしゃする気持ちを抑えて受け取った書類の内容を確かめる。  字は汚いが、いつも記載は完璧でほとんど修正する点もない。そういうところがまた、悠里は気に食わないのだった。  フンと息をついて書類を置くと、他の人の書類も合わせてテキパキと並び替えていく。決裁鑑をつけて、修正をお願いしている人の部分に付箋を貼り、後は待つのみの状態にしてファイルに入れると、また卓上を綺麗に整えた。  さらには男臭いのが鼻についてイライラが募ったので、これ見よがしに窓を開けて換気する。 「ほんとお前お局まっしぐらだな……」 「どこぞの汚い中年になるよりマシね」  呆れたような男からの声を目もくれずに切り捨て、悠里はパソコンの電源を入れて仕事を始める。 「お前もそろそろその厚化粧なんとかしたほうがいいんじゃねーの」 「あんたもいい加減身だしなみという言葉を覚えたら」 「おれは外部の人間に会う時はちゃんとしてるぞ」 「同僚の前でもせめてシャワーは浴びておくくらいの心がけは必要ね」 「……減らず口め」 「お互い様よ」  この男、音無倫太郎は国の最高学府で博士課程を修めた悠里の同期である。留学を挟んでいたので悠里より年齢は4つ上になるが、社会人としては飽くまで同期なので対等に接している。  社会人としてはともかく、研究者としては文句なしに優秀な男で、論文を書けば著名な学会誌に掲載されている。この産科研にも鳴り物入りで入所し、期待を裏切らない成果を上げているのは確かだった。  そのまま大学教授でも目指せばよかったのに、子どもの世話はしたくないだとかでこちらにきたのだ。その世界を諦めた悠里にとっては何もかも気に食わない男だった。
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