1. 犬猿のふたり

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「培養室行ってきます」  室内のメンバーに声をかけ外に出る。  研究プロジェクトはほとんど複数名で行うが、まだ若輩者である悠里は複数のプロジェクトに参加し、その培養や観察など地道な作業を複数任されている。  研究とは地道な努力を積み重ねてようやく成果が出るものではあるが、まぁ、要は雑用である。 「ケースA、Bのday45は……」  写真に撮り、ファイル名をつけて管理をする。これはキノコの胞子に関する研究だ。林業においてはキノコは大事な収入源なので、予算獲得のためにやっているような研究である。  胞子に関する観察がひと段落すると、今度は近隣の山頂付近の植生分布について分析を始める。調査エリアを数十プロットに区切り、プロット内の植生についてひたすら目視で判断していくのだ。高画質で撮影した写真を拡大しながらひたすら植物の名前を書き出していく。  乾燥する目を瞬かせながら、研究とは地道で繊細で膨大な犠牲の上に成り立っているのだ、と悠里はいつも自分に言い聞かせている。  きっかり12時になると、悠里は作業を中断した。よほど時間のない時以外は、就業時間をしっかり守っている。自分が並の集中力しか持たないことを知っていたし、時間が区切られていたほうが捗ることに経験則で気づいていたからだ。  卓上を綺麗に整えてから培養室を出ると、またしても向こう側に音無が見えた。  シャワーを浴びてきたのかまだ髪から滴が落ちていて、服をだらしなく着くずしている。野暮ったいメガネを外し、濡れ髪で顔が露わになると途端に妙な色気を放っている。密かにこの音無が女子から人気があるらしいと聞いたことがあるが、悠里にとっては最も苦手な姿だった。  せっかくの休憩時間にこの音無と顔を合わせて、いつものように喧嘩にでもなったら気分が悪すぎる。悠里はきゅっと唇を引き結び、くるりと反対方向を向いて競歩ばりのスピードで歩き出す。  培養室とシャワー室はなぜ地下にあるのだろうか。悠里は恨めしく思いながらエレベーターを通り過ぎ、階段へ続く非常扉に手をかけた。 「なあ」  恨めしいのはコンパスの差か。悠里の出せるトップスピードで歩いたというのにあっさり追いついてきた音無が、悠里の後ろからドアを押さえて行手を阻んでいた。 「なに……ちょっとっ、近い! 冷たい」  悠里より頭ひとつ分以上高い位置にある音無の髪からぽたりと雫がおち、悠里はびくりと肩を揺らして身を小さくする。 「そんな小動物みたいにびびんなよ」 「びびってない、そして近い」  やれやれと言う音無を、ぐいと押しやりながら睨む。音無はちょっと笑ったかと思うと、途端に真面目な顔になって口を開いた。 「……なぁお前予算管理してるよな? なんか、変なとことかなかった?」 「……変?」 「いつもよりやけに数字が大きいとか……覚えのない出費があるとか」  予算管理は請求書に基づいて全件チェックしながら記録していて、変なものなど入りそうもない。そんなものない、と言おうした時、ふと心に引っ掛かりを覚える。この人のものなら問題ないと深くチェックしていないものがなかったか。 「ないならいい」  悠里が口元に手を当てて考え始めた時、音無は意味深な目線を向けて去っていった。
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