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夜になり、すっかり定時も超えてしまった午後九時のこと。
静かに林業室のドアを開くと、想像通りボサボサの髪と野暮ったいメガネをかけた音無だけがいた。
音無は気づいているのかいないのかこちらを見ない。悠里はそろそろとドアを閉め、ゆっくり近づいて意を決して口を開いた。
「ねぇ」
「……珍しいな」
悠里から話しかけるのが珍しいのか、定時を過ぎても研究所にいる悠里が珍しいのか、そのどちらもか。
「昼に言ってたやつ、どういうこと?」
「どうもこうも、別に。何もないならいいんだよ」
「その言い方はずるくない? あんただってなんかあると思ったから言ってきたんでしょう。私だけに背負わせる気?」
ムッとして悠里が言うと、音無はニヤリと笑う。狙いどおりとでも言いたげな顔は、最初から、悠里を巻き込むつもりしかなかったのだと嫌でも知らせてくる。
拳をぎゅっと握り込み、姿勢を伸ばして唇を引き結ぶ。瞬きも許さない視線で悠里が射抜くと、座ったままの音無がぽんぽんと頭を撫でた。
「そんな顔すんなよ」
「やめてよ」
手を振り払うように首を振ると音無はははっと声を出して笑う。
だから嫌なのだ。こいつはこうして子どもが何かだと思って見下している。
「おれも別にことを荒立てたいわけじゃない。必要悪ってのはあるし、おれは研究ができればそれでいいからな」
清く正しく生きてきた悠里には理解が及ばない。必要悪ってなんだと思いながら黙って続きを待つ。
「でももうボロが出てきてるな。どこかで漏れてる。これが公になったら、近いうちに林業室は解体されるかもしれない」
ヒュッと悠里の喉がなる。
林業室がなくなる? ただでさえポストの少ない林業分野だ。今やっている研究や、これから自分はどこで研究すればいい?
悠里が思わずふらついて後ろに下がると、それを許さないとばかりに音無が腕を掴む。
「おい、しっかりしろ。まだ公になってないんだから先手を打てばいいだろ?」
「先手、って」
喉の奥が張り付いて、絞り出すようにそういうと音無がじっと悠里を見上げた。
その目がいつもより柔らかく細められ、悠里は気持ちが落ち着いていくのを感じながら、音無の言葉を待った。
「証拠を押さえつつ外部へバレないよう根回しする。その間に研究を切りがいいとこまで持っていく。あとは上層部の出方次第で残留か転職先を探す」
「転職って……そりゃ、音無はどこでも引く手あまたでしょうけど」
「上層部に交渉すればいいだろ? そのための証拠だ」
やはり清く正しく生きてきた悠里には想像ができない。交渉って、それって、脅しってやつなのでは?
「でも……」
「いーよお前は。悪いことはおれがやってやるから、証拠集めと根回しに協力しろ。おれが動くとあからさますぎて不審がられる」
悪いことという響きに悠里は思わず体を引くが、むしろ引き寄せられて距離が近づく。足が触れ合い、そこからじわじわと熱が広がってゆくような気がする。
「……分かった。でも、音無に協力するのはそれだけよ。私は私のためになることをする」
「上等だ」
にやりと笑う音無の手を今度こそ振り払って背を向け、パソコンを立ち上げた。
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