1. 犬猿のふたり

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 悠里と音無はそこからパソコンの画面と請求書の写しを突き合わせて違和感のある場所を整理していった。  やはり、悠里の直感どおり、室長の提出した請求書を並べてみると不自然な点がいくつかあった。  まずは筆跡。多少変えてあるのだが、特徴的な7の筆跡が同じものがいくつもある。請求書の発行元は異なるが、この偶然は考えにくい。  そして発行元。これまで取引のなかったところが数社混じっている。調べてみないと明確には言えないが、いずれも立ち上げから数年の若い会社のようだ。ペーパーカンパニーの可能性は十分ある。  大方違和感のある部分や請求書の発行元を整理し終え、終電の近づく悠里はそろそろ帰ろうかと荷物をまとめはじめる。  そろそろ帰る、と悠里が口を開こうとしたところで足音が聞こえ、二人はぎくりと体を強ばらせた。しかしどうしようかと悠里が逡巡するより早く、音無は悠里のパソコンを強制終了させ、悠里を自分のデスクの下へ押し込んだ。 「なにす……っ」  小声で悠里が文句を言おうとしたところで、研究室のドアが開いた。 「……音無くんまた残ってるの?」 「……大宮室長こそ、今夜は遅いんですね」 「君がいつも残ってるから、僕は上から睨まれて困ってるんだよ」  何事もなかったかのようにふてぶてしく座っている音無の足元で、悠里は鞄を胸に抱えながら小さくなって震えていた。ライオンに遭遇したウサギはこんな気持ちなのだろうか、と頭の片隅で現実逃避を始める。 「今日はそろそろ帰りますよ」 「いつもそうしてくれると助かるよ。……ああ、余計な真似はするなよ」  大宮室長は声をグッと低くして吐き捨てるように言い、悠里は心臓が凍りついたようにさらに身を小さくした。  少し間が落ちる。  張り詰めた空気の中、息の音さえも聞こえてしまいそうで、悠里は息を止めて待った。 「ええ、もちろんです」  いつもと変わらない調子で音無が返すと、大宮室長は何も言わずにドアを閉めて去って行った。  足音がすっかり聞こえなくなるまで息を止めていた悠里は、堪え切れなくなったように大きく息を吸った。 「悪かったな」  音無はちょっと笑いながら悠里を覗き込んで手を出してくる。  悠里は上がってしまった息をごまかすように音無を睨みつけ、手を借りることなく四つん這いで机の下から這い出た。 「心臓が止まるかと思ったわ」 「珍しく小動物みたいに震えてるのが面白かったぞ」 「誰のせいだと思ってるの」  軽く立ち上がって膝を払う。まだ心臓が躍っている。胸を押さえてふう、と一息つく。 「あんなに室長に目をつけられるなんて、あんた何したの」 「何もしてねー。色々付き合いがあるから噂が入ってくるんだよ」 「噂ねぇ」  やれやれと肩をすくめる音無を胡散臭いものを見る目で一瞥し、やはりこいつにはなるべく関わらないでおこうと決意を強める。 「そろそろ帰るわ」 「なぁ、次はおれん家でやろう」  悠里は返事に窮し、これ以上ないほど顔を顰めるだけで答えた。  悠里にも音無がそう口にした意図はわかってはいるが、それにしたって敵の巣に乗り込むなんて死にに行くようなものだ。具体的にどんな事態が考えられるかは想像できないが、良からぬ予感しかしなかった。 「……んな嫌そうな顔すんなよ。あんだけ疑われてたらこれ以上ここでやるのは危険だろ」 「……それにしたって」 「おれとお前は幸いにも犬猿の仲だと思われてるし、変に一緒にいるところを見られると都合が悪いだろ」 「犬猿の仲は事実だけどね」 「この件に関しては協力するんだろ」  疲労した頭でいろんな展開を考えたが、いい返事は思い浮かばない。悠里は眉間の下を揉みながらちょっと考えさせて、と言うとそのまま背中を向けて歩き始めた。  気をつけて帰れよ、という音無の声が心なしかいつもより優しくて、頬にあたる夜風が心地よく熱を冷ました。
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