神様の涙

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「幼稚園の子がね?お母さんしかいないのは珍しいんだって。ねぇ…お母さん。私のお父さんは?」 陽香(はるか)が尋ねると、母の(あかね)は顔を曇らせた。 「太一(たいち)さん…陽香のお父さんはね?遠い遠いところにいるの。だからもう会えないのよ」 「…?ふーん?」 幼い彼女には、その意味が分からない。いつまで誤魔化せるだろう、茜は不安になった。 ***** 小鯛(こだい)陽香(はるか)は幼い頃から極度の上がり症で、人前に立つのが苦手だった。家ではちゃんとできるのに、誰かに見られていると思うと顔が赤くなり、途端に言葉が出てこなくなってしまうのだ。 「あ、あの…えっと…さ、三年一組、こ、こだい…」 彼女にできる精一杯のスピードで言葉を繋いでいく。お調子者の男の子達がはやし立てた。 「見ろよ。顔が真っ赤だぞ!鯛にそっくりだ!コダイだから小さい鯛だ!お魚さーん!日本語分からないんですかぁ?」 「俺知ってるー!あいつの母ちゃんもそうなんだぜ?蛸みてえなの!」 「え!?あいつん家って水族館なの!?」 体育館でどっと笑いが起きる。陽香は何も言えなくなってしまった。俯いて涙を必死に堪えると、小さくごめんなさいと言って体育館を出た。 (どうして…!?どうして何も言えなくなっちゃうの?あんなに沢山練習したのに!もう三年生なのに!お母さんは、どうして顔が赤いの?悲しい…悲しいよ…) 以前彼女が、何となく気になって母である茜に尋ねてみると、とても悲しそうな顔をして、ごめんね…と言った。陽香はその顔に見覚えがあった。父親について尋ねた時と同じだ。母は、それ以上何も教えてはくれなかった。聞いてはいけないのだと、彼女は思った。 陽香が歳を重ねるにつれ、話は大きくなっていき、同級生達は面白がって『魚ちゃん』とか『鯛女』と呼んだ。彼女の住む玄海町は狭くはないけれどそれほど広くもない。噂はすぐに広まった。陽香は目立つのを避け、感情を表に出すのをやめ、物事に無関心になった。その結果、人前に立つ機会はなくなり、顔が赤くなることもなくなったけれど、それでもあだ名は残っていた。 茜はどんどん静かになっていく娘が心配で堪らなかったけれど、どう声をかけたらいいのか分からなかった。彼女がそうなってしまった原因は自分にあるからだ。 陽香は母に心配させないように、成績を保つための努力はした。将来のことを考えて高校にも進学したけれど、友人を作ろうとはしなかった。一人でいる方が気楽だった。彼女はそうして感情を隠しているうちに、自分は昔どうやって笑ったり泣いたりしていたのか分からなくなってしまい、表情を無くしてしまった。その顔はまるでマネキンのようだ。それでも生きるのには支障なかった。 「お母さん学校行ってきます!」 陽香は明るい声を出した。茜はなんとか笑顔を作ると答えた。 「行ってらっしゃい。陽香」 家のドアが閉まると茜の表情に影が差した。声の明るさに反して娘は今日も無表情だ。 (陽香ももう十七歳…そろそろ、話しておくべきかしら…打ち明けたら完全に嫌われてしまうわね。自業自得だけれど) 茜は近いうちに、陽香の父親について彼女に話そうと決めた。 ***** クラスの女の子達がひそひそ話しているのが陽香の耳に入る。 「何か…小鯛さんっていつも一人でいるよね」 「うん。ちょっと不気味だよね。全然笑わないし」 「巷で噂の魚ちゃんは、実は幽霊でした!とか?」 「あははは!やだ!こわーい!」 陽香にとってそれはよくあることで、いつもと同じように内心呆れながら彼女達の前を通り過ぎようとしたけれど、何故かその日は少し変えてみたくなった。もし私が何か言ったら、どんな顔をするのだろう。陽香はすれ違い様に息を吸った。 「聞――」 「やめろよ」 聞こえてるよ、と小さく言おうとしたところに声が重ねられた。驚いて声のした方を見ると、そこには知らない男の子が立っていた。背が高い。 「それ、悪口だろ。そういうこと言うのやめろよ。自分が幽霊扱いされたら嫌だろ」 ひそひそ話をしていた女子達は一瞬固まってしまった。誰だろうと思いつつも、いつもの癖で反射的に関わりたくないと思った陽香は、さっと教室を出た。下校しようと廊下を歩き始めると教室に残っている女の子の、あなた誰?という声が聞こえた。 陽香は家に帰る前に小加神社に行った。そこにある木陰から狛犬を眺めながら、ぼんやりとするのが好きで彼女はよく寄り道をするのだ。風で葉が揺れている音に耳を傾けるのもいい。いつものようにそうしていると狛犬から急に、オイ、ボサットスルナ…クルゾ…と声がした気がした。彼女は思わず目を擦った。彼が動いている様子はない。今度は横から急にあれ?と声がして陽香は飛び上がった。そこに立っていたのは先程、教室で見た男の子だった。 「びっ!くりした…あの。今何か喋ってた?」 「いや、何も。ところで…さっき教室にいた子だよね?えーっと確か、小鯛さん」 「…そうだけど」 にこやかに笑う彼に、陽香は下を向いて小さくありがとう、と言った。何が?と聞かれた彼女はさらに声が小さくなった。顔も少し赤くなる。怒ったような言い方になってしまった。 「何って…さっき教室で庇ってくれたでしょ」 男の子はああ、と納得した顔つきになった。 「いいよ別に。僕がああいうの嫌なだけだから」 「…そう。じゃあ私帰るから」 陽香はそこで会話を終わらせて神社を出ようとしたけれど、後ろから、ねえ!と声をかけられたので渋々振り返った。 「……何」 「僕、小川(おがわ)琉生(るい)。歳は君と同じ十七歳。最近引っ越して来たんだ。良かったら友達になってくれない?小鯛陽香さん」 (は!?いきなりなんなの?小学生じゃあるまいし) 彼女は面食らった。彼は屈託なく笑って握手を求め、手を差し出している。 「私、友達を作る気はないの。悪いけど他当たってくれる?」 陽香はキッパリと断ると彼に背を向けて神社を出た。帰り道、ふと疑問に思った。 (…どうして名前まで知ってるんだろう?あの子たちに聞いたのかな) 家に着くと茜が神妙な面持ちで待っていた。 「ただいま…どうしたのお母さん?そんな顔して」 彼女はいつもと違う母の様子に気づいて尋ねた。 「…大事な話があるの。ちょっとそこに座ってくれる?私と…あなたのお父さんのことよ」 「…え?」 「ずっと言わないつもりだったけれど…あなたも大きくなったし、知る権利があると思うから。座って落ち着いて聞いてくれる?」 「……分かった」 陽香は居間のテーブルに座った。茜は彼女の向かいに腰掛けた。すぐには切り出せず、しんとした室内に時計の秒針の音が響く。 「あのね…前に『どうしてお母さんは顔が赤いの?』って聞いたでしょ?あの時はちゃんと答えてあげられなくてごめんなさい。今、答えるわ。実はお母さんね…昔は人間じゃなかったの」 「…は?意味が分かんないんだけど」 しばらくして、やたら思い詰めたような顔をしている母から聞かされた突拍子もない話に陽香は拍子抜けしてしまった。 「人間じゃないって。何の童話よ?人魚姫?雪女?」 彼女は軽く笑って冗談交じりに返したけれど母の表情は変わらない。 「玄海町に、いくつか昔話があるのは知ってるでしょ?」 「うん…狸が出てくるお話とか一つ目の大男とか?あとは…鯛とか」 「そう。お母さん、その鯛の子孫なの。たまたま人間の男の人と出会って…恋をしてしまった。それが太一さん。あなたのお父さんよ」 茜は自分はもともと鯛の化け物で、先祖が一時暮らしていた人間の世界に興味を持って化けて見学に来ていたところ太一と出会い恋に落ちたこと。将来を誓い合ったけれど正体がばれてしまったこと。海に帰ろうとした時にはすでにお腹に陽香がいたこと。それを一族の(おさ)である父に報告すると、これから先ずっと鯛として生きるか、人間として生きるか選べと言われ、人間を選んで以来故郷の海には帰れなくなり、太一にも会っていないことを話した。 「だからね?陽香には鯛の血と人間の血が流れているの。お母さんの顔が赤いのは本来の姿が赤鯛だから。陽香が緊張するとすぐに赤くなってしまうのはお母さんのせいなの。その遺伝のせいで随分あなたを苦しめてしまった。本当にごめんなさい…」 茜は涙ぐみながら娘に頭を下げた。そんな顔をして母がわざわざ作り話をするとは思えない陽香は信じるしかなかった。 「…鯛女房って鶴の恩返しの玄海町バージョンじゃないの?現実だなんて有り得るの?しかも私がハーフだなんて…嘘でしょ…?じゃあ『鯛女』も『魚ちゃん』も間違いじゃないじゃん!本当にそうなんじゃん!どうして今まで教えてくれなかったの!?」 彼女は無表情のまま声を荒らげた。茜は頭を下げたままだ。 「言っても信じないだろうと思ったし…人間の世界にだって片親の子はいる。親が実は化け物だったなんて知らなくてもいいならその方がいいと思った。けれど…私が秘密にしたことであなたには友達もできなかったし表情も無くしてしまった。母親として最低よね」 過去に茜が色々なことで苦労する姿を見てきている陽香はそれ以上、母を責める気にはなれなかった。 「……友達を作らないのは私の意思だし、この顔だって私の責任だから…お父さんは元気なの?」 「…亡くなってはいないはずだけど…分からないわ。私があなたを産んで戻ったらあの人はもういなかったの。結婚しようとしていた相手が人間じゃなかった上に黙ってしばらく家を空けたから愛想尽かしたのかもね」 茜は顔を上げ、寂しそうに笑った。 「何で捜さなかったの?どう思ってたかなんて本人にしか分からないじゃん!」 陽香は立ち上がって訴えた。 「あの人が大好きだったから…愛していたから。正体を知られてしまった時、態度が変わってしまうのが怖くて…何か言われる前に私は逃げ出した。いなくなっていて少しほっとしたわ。実際に否定されて突き放されたら…立ち直れない気がした。だから捜さなかった。私を選んでくれたあの人を想ったまま、あなたをちゃんと育てたかったし。ふふ。なかなか重いでしょ?もし好きな人が…信じたいと思う大事な人ができたら陽香には逃げて欲しくない。その人を大切にして欲しいと思って。だから話した。お母さんの勝手な気持ちだけどね」 「…お母さん…」 陽香は久しぶりに母のナチュラルな笑顔を見た。彼女の感情も久しぶりに動き、心が温かくなった。 「…話してくれてありがとう…お父さん元気だといいな」 ***** 陽香は自分と両親の秘密を知った。だからと言って彼女の日常に大きな変化はない――はずだった。ところが神社で初めて会ったあの日から、何かある度にどこからかひょっこり顔を出して絡んで来るようになった。あの男――小川琉生だ。陽香も最初のうちは彼の発言に真面目に答えすべて断っていたけれど、それはそれはもう頻繁で今では完全にスルーするようになっていた。 あまりにも天気がいいので屋上で一人、お弁当を広げていたある日のこと。琉生がまたちょっかいをかけてきた。 「教室にいないな〜と思ったらここにいたんだ!屋上にいるなんて珍しいね!今日のメニューは何?」 琉生が陽香の弁当箱を覗き込んだ。彼女は黙って黙々と食べている。 「ちょっと。無視しないでよ。冷たいなぁ…ねぇ!ねぇってばぁ〜!」 「……」 「…これ美味しそう!ちょうだいっ♪」 彼は弁当箱からひょいっと卵焼きを盗み口に入れた。 「…ちょっと!何するの!?」 「うん!美味し〜い!」 陽香は思わず声を上げた。琉生は満面の笑みで卵焼きを頬張っている。 「…小川くん。いい加減にしてよ。私は友達になる気はないって言ってるでしょ?いつまで付き纏うの?」 彼女はため息を吐きながら隣に立っている彼を見た。 「君が友達になってくれるまで!あと、琉生でいいよ。苗字って何か距離感じない?」 彼女がどんなに冷たくしても彼はいつも明るくて朗らかだ。 「距離があった方がいいの!私の話聞いてる?お・が・わ・く・ん!」 陽香は思い切り嫌味を込めて言った。琉生は相変わらず動じない。 「ちょっと頑なすぎない?は・る・か・ちゃ・ん!それにしても卵焼きほんとに美味しい!誰が作ってるの?」 その感想に嬉しくなった陽香は、つい答えてしまう。 「美味しいでしょ!?家のお母さん、料理がすごく上手なの!でもこの前ね?うっかりフライパンを焦がしちゃって。この世の終わりみたいな顔してて…ふふ!それがもう可笑しくってね…」 「あ!笑ってる!うん。それで!?」 琉生の言葉に彼女は、はっとした。彼はキラキラした顔で陽香を見つめている。 「…とにかく。私は友達にはなれない。あなたみたいに表情が豊かな人といると落ち着かないの!鬱陶しいから近寄らないで!」 彼女の想定より重く強く言葉が出てきた。彼の表情が曇った。 「……ごめんね」 琉生は静かに屋上を出て行った。陽香は、しまったと思った。 (やば…今のは…さすがに言いすぎた。あんな顔するからついイラッとして…でもこれでもう話しかけて来ないでしょ。結果オーライだよ…さっき私が思わず笑っても一切態度変えなかった…無表情なのに…小川くんどうして何も言わないの?私のこと怖くないの?) 表情が無くなってしまったことは鏡を見て気づいていた。笑っているのに表情に変化がないのは自分で見てもゾクッとした。他人が見て怖くないはずがないと思った。 翌日から琉生が陽香にちょっかいをかけることはなくなった。彼女はやっと分かってくれたことにほっとしたけれど、同時に打ち上げ花火が終わってしまった瞬間のような寂しさも感じていた。無表情になったのと同じように自分が望んで招いた結果だと言い聞かせた。恋しかった静かな日々が戻ってきたけれど散々話し掛けられたせいか、何か気配がすると琉生ではないかと彼の姿を探してしまう自分に気づいて彼女は少し落ち込んだ。そのまま数ヶ月が過ぎた。 静かな世界に慣れ、再び心地良さに浸っていたある日の昼休み、たまたま廊下で琉生とすれ違った。彼の姿を見たのは久しぶりだ。相変わらずにこにこしている。ふっと目が合った。どうしよう、と彼女が思った時、耳元で小さな明るい声がした。 「陽香ちゃん、久しぶり!」 琉生はそのまま、とても自然に通り過ぎて行った。陽香は振り返って彼を目で追った。彼女はぐっと感情が昂るのに気づき、走って彼を追い越しその先の屋上に向かった。 息を切らして屋上に出ると青い空が広がっている。陽香の瞳からぽろっと涙が零れた。 (…嘘でしょ。一言でこんなに嬉しいなんて。まさか私彼のこと…だめだよそんなの都合良すぎじゃん。どうしよう止まならないよ…) 涙はどんどん溢れてくる。その場で静かに泣いているとドアが開く音がした。 「陽香ちゃん?どうかし…もしかして、泣いてるの?」 陽香が必死な姿を初めて見た琉生が追ってきたのだ。彼女が泣いていることに気づいてゆっくり近寄った。 「おが、わ、くん…」 琉生は陽香の前に立ち、彼女の止まらない涙を人差し指ですくい、舐める。 「…陽香ちゃん。何がそんなに嬉しいの?」 彼は優しく笑って彼女に尋ねた。 「…どう、して…わか、るの…?」 陽香は驚いて琉生を見つめた。まだ何も話していない。 「分かるよ。すごく甘いもん…僕、涙にはちょっと詳しいんだ。嬉しい時の涙って甘くなるんだよ。気持ちが強いほど味も濃い。ねぇ。どうしてこんなに甘いの?」 琉生は柔らかく聞いてくる。彼女は知らない間に大きくなってしまった気持ちに抗うのをやめた。彼には到底敵いそうもない。 「私、小川くんに…る、琉生に酷いこと言ったのに…さっき普通に話しかけてくれた、から…嫌われ、てないって、分かったから…琉生は私、を…怖いって、思わ…ないの?どう、して…ともだ、ちに…な、ろうと、し…して、くれ、たの…?」 陽香は泣きながらゆっくり言葉にした。自分の気持ちを隠さず他人に話すのは久しぶりで緊張して、余計言葉に詰まり顔が赤くなった。琉生は最後まで静かに聞き、答えた。 「いつもぼんやり狛犬を眺めている女の子が何を考えているのか気になったから。仲良くなりたいと思った。怖い?どうして?」 「だ、って私…か、顔が…う、動か…」 「ああ。元々僕の友達にそういう子もいるから、かな。顔が動かなくても話をちゃんと聞いていれば分かるから」 長い時間がかかる上に途切れてしまって、たどたどしい言い方なのに、琉生と会話が成立していることが嬉しくて陽香はさらに涙を流した。 「…ううっ…あ…の…もう、お、おそ、い…かも、しれないけ、ど…わた、し…と、友、友達…に、なって、く…くれ、ませんか…?小川琉生、くん…」 琉生はふわりと笑い、喜んで!と言った。その表情に陽香の胸は素直に反応した。 (…やっぱり。私、琉生のことが好きなんだ…) 「あ、ありが、とう…わた、し本、当は友達が…欲しか、ったの…うれ、しい…」 彼女は心の中で精一杯笑った。 「陽香ちゃん。涙は血液と同じだからあんまり泣くと血糖値が下がっちゃうよ?…うん!やっぱ超甘い!」 琉生はもう一度陽香の涙を指に乗せ舐めると、お菓子を頬張る子どものように微笑んだ。その無邪気な笑顔につられて彼女も涙で濡れた顔で声を出して笑った。 ***** 二人は友達になった。琉生は以前のように陽香にちょっかいをかけるようになった。陽香は軽くあしらっていたけれど内心は嬉しくて堪らない。稀に、もう!琉生ってほんとに子どもみたい!と小さく笑ったりした。周りは琉生のことを、無口な鯛女に絡む物好きだと認識した。一方で琉生を呼び捨てし、陽香の纏う空気が柔らかくなったことも少しずつ広まっていき、それには驚いていた。 陽香は人前では笑わないように気をつけていた。不必要に怖がられないようにするためだ。一度だけ見られてしまった時に相手から「何あれ怖い」という声が聞こえ落ち込みそうになったけれど、琉生が隣で「気にしない」と言ったので落ち込まずに済んだ。陽香の琉生への気持ちは、二人が一緒に過ごす時間が増えるのに比例してどんどん大きくなっていった。友達でも充分だと思っている自分と、正直に気持ちを打ち明けてみたい自分との間で戦った。同時に秘密を打ち明けるかどうかも迷った。彼のことが大切だからこそ、だ。陽香は母の気持ちが少し分かった気がして琉生のことを話した。茜は話を聞いて娘の恋心を見抜き、微笑んだ。 「良かったわね。いつかお母さんも会ってみたいな。陽香の大切な人に」 「…うん。ありがとうお母さん」 季節は冬を迎えた。陽香と琉生は学校帰りに小加神社の石段に座り、他愛もない話で盛り上がっていた。気づくと日が暮れていて、灯篭に明かりが灯り空には、ちらほらと星が輝き始めている。冷たい風が吹いた。 「やばい!もうこんな時間!?日が短くなったね…琉生といると時間が経つのあっという間だよ!うわ寒い…」 琉生にすっかり心を許した陽香は明るく言った。琉生は話しながら陽香の手にそっと触れた。 「ほんとだ。気づかなかった…陽香ちゃんの話が面白いからつい夢中になっちゃう…手、冷たいね」 彼は彼女の手を掴み、自分の制服のポケットに入れると微笑んだ。 「これで、ちょっとは温かい?」 陽香はその笑顔と仕草にドキドキしてしまい顔が赤くなった。 「う、うん…でも、恥ずかしいよ…」 「照れるとか珍しくない!?あ!顔赤くなってる!」 顔が赤いことを誰かに指摘されるのは、とても嫌なはずなのに相手が琉生だと何とも思わなかった。陽香は、やっぱり彼には自分の全てを知っていて欲しいと思った。 「…琉生。あのね。私、実は――」 「あ!流れ星!」 彼女が打ち明けようとした時、琉生は上を向いて叫んだ。え!?と空を見上げたけれどもう遅い。彼は上を向いたまま言った。 「ねぇ。もし…一つだけ何でも願いが叶うとしたら君は何をお願いする?」 「そうだなぁ…表情が元に戻りますように、かな…」 (そしたら私がどれだけ琉生に感謝してるか、もっとちゃんと伝えられる気がする。どんな形でもいい。これからも琉生と一緒にいられるなら) 陽香も上を向いたまま答えた。琉生はそのまま真顔で何かを決心したように、そっか…と言った。 秘密を打ち明けそびれてしまった陽香はタイミングを探っていたけれど、二人きりになっても都合よく、あの日のような勇気が持てる瞬間はなかなかなかった。二人が頻繁に一緒にいるので、学校ではついに陽香と琉生が付き合っているのではないかという噂が流れ始めた。ある日の昼休みに陽香が屋上にいると琉生がやって来て彼女に近寄った。 「あー!やっぱりここにいたー!」 「琉生…ねぇ。まずいよ。私達が付き合ってるんじゃないかって噂されてる。しばらく会わない方がいいかも。このままじゃ琉生まで何か…」 陽香は自分の印象が原因で琉生を取り巻く環境が悪くなるのを恐れた。 「別にいいよ。何言われたって。僕は僕のしたいようにしてるだけだから」 琉生は全く気にしていない。いつもと同じ態度だ。 「でも!もし琉生の友達まで離れていって私みたいに一人になったりしたら…!」 「陽香ちゃんもその友達に含まれてるけど?君はどうするの?」 食い下がる彼女の気持ちを見透かしたように彼は尋ねる。 「それ…は…」 陽香が返答に困っていると真顔だった琉生は笑顔に戻った。 「そんなことより!陽香ちゃんにお願いがあるんだ。ちょっと大切なものを()くしちゃって。一緒に探してくれない?」 琉生のお陰で毎日が楽しくなった陽香は自分が役に立てるならと、一つ返事で引き受けた。彼はそれを聞いてありがとうと笑ったけれど、彼女はそこから珍しい寂しさを感じ取り、何故か胸騒ぎがした。 ***** 二人は学校が休みの日に朝から待ち合わせをした。休みの日に朝から琉生と会うのは初めてで陽香は緊張した。自然と服選びにも力が入る。彼女が待ち合わせ場所に行くとすでに彼は来ていた。私服だ。 「ごめんね!待った?」 琉生は陽香に気づくとパッと笑顔になった。 「陽香ちゃん!早いね!楽しみすぎて早起きしちゃっただけだから気にしないで。行こう!…普段、そういうの着るんだ〜!へぇ〜!」 琉生は陽香をまじまじと見た。陽香は琉生の服装をこっそりと見る。 「う、うん……変、かな?」 「ううん?いい感じ!似合ってる!」 「良かった。琉生もいい感じだね…何か、予想以上だ。やっぱり」 「え…?陽香ちゃんの予想ってどんななの!?やっぱりって!?僕ってどんなイメージ!?」 驚いて必死になる琉生に陽香は、内緒!と言った。彼女は琉生のふわっとした笑顔を見るだけでとても幸せな気持ちになった。 (やっぱり琉生の笑顔は綺麗だなぁ…優しい気持ちになれる…なんかデートみたい…) 陽香は琉生の捜し物に付き合いながら玄海町の色々なところを回った。ずっと住んでいるけれど、知らなかったことが沢山あることに気づいた。昔話に登場する場所や、わくど岩にも行った。カエルに似ていると聞いていたけれど、どう見てもカエルとは思えず彼女は首を傾げた。海を見て、顔も声も知らない祖父のことがちらりと頭に浮かんだ。 「ここで最後だよ!」 琉生がそう言ったのは陽香もよく知っている場所だった。小加神社だ。 「…ねぇ。そろそろ教えて?形だけじゃ分からない。琉生は『丸くて柔らかい』何を失くしたの? 」 彼女が尋ねても彼は黙ったままだ。様子がおかしい。陽香はまた胸騒ぎがした。 「今日は付き合ってくれてありがとう。とっても楽しかったよ!…それから…ごめん。君に嘘をついていたし、隠し事もしてた」 「……何?琉生、何の話を――」 琉生は微笑んだ後、暗い顔をした。彼の表情があからさまに陰るのは珍しい。 「本当にちょっと興味があっただけだったんだ。最初は。だけど気づいたら…陽香ちゃんのこと好きになってた。そんなのだめだって分かってたけど…止められなかった。君のためなら、何でもしてあげたいって思った」 「……え?どういう、こと?」 陽香は混乱した。胸騒ぎが大きくなる。これ以上聞いてはだめだ、そんな気がした。 「あそこに石が重なってるでしょ?涙には基礎分泌と反射と情動っていう三種類の役割があるんだ。気持ちを落ち着けるためのね。だから石も三つある。僕の本体だよ」 「…ほん、たい…?」 「本当は僕、人間じゃないんだ。人間たちは僕のことをこう呼ぶ」 陽香は鯛女房と並ぶ昔話を思い出して呟いた。 「泣きびすの…神、様…?涙……るい……」 琉生はふっと笑った。 「正解!さすが生まれも育ちも玄海町の陽香ちゃん。僕の力があれば、君の願いを叶えてあげられる。もうこうして会えなくなるのは、少し寂しいけど…」 そこまで言った彼の瞳から涙が零れた。琉生は自分の顔に手をあて、涙が流れていることに気づいた。その涙は星のようにキラキラと光っている。 「……あれ。はは…涙を止めるのが仕事なのに…その僕が泣いちゃうなんて、神様失格だな…大好きだよ。陽香ちゃん」 琉生は泣きながら笑った。二人が友達になったあの日の陽香のように。 「僕が見つけたかったのは、君が失くした感情なんだ。ちゃんと戻してあげるからね」 彼が目を閉じると、その体が蛍のようにぼんやりと光り出した。陽香の体もその光に包まれる。その輝きが一瞬とても強くなった。琉生はその場に倒れ、光は消えた。 「琉生!大丈夫!?」 陽香は彼に駆け寄った。体が冷たい。 「…冷たい…琉生!ねえぇ…琉生ってばぁ…起きてよ!やだよ…私まだ…まだ琉生に伝えてないっ!このままサヨナラなんて嫌だ!…ううっ…くっ…」 彼女は拳を握り、顔を歪め涙を流した。その雫が琉生の唇に落ちた。 「…ん……しょっ、ぱい……おこ、って、る…?どう、して…」 彼はうっすらと目を開けた。彼女は涙でぐしゃぐしゃな顔でそれを見つめた。 「怒ってるよ馬鹿!自分だけで勝手に…!何でこんなことしたの!?表情が戻ったって…琉生がいなかったら意味がないっ!私…私は!琉生のために何もできない……悔しい…っ」 陽香は俯いた。その時、彼女の頭に声が響いた。 ――ルイヲ、タスケタイカ? 「…だ、れ…?」 ――ルイヲ、タスケタイノカ? 声は彼女に尋ねた。琉生が弱く、やめろと言った。 「助けたい!誰か知らないけど、方法があるなら教えて!」 陽香は強く言い切った。 ――ドンナコトデモ、スルカ? 「それで琉生が助かるのなら!」 ――ヨシ。オシエテヤロウ。コッチヘコイ。 「…どこに、いるの?」 ――オイ、ボサットスルナ…キエチマウゾ… その口調を聞いた彼女は、はっとしてそこまで走った。 「…琉生が言ってた表情のない友達ってあなたなの!?狛犬さん!」 陽香は彼を見つめた。今まで何度もそうしてきたように。 ――ヨウ。ヒサシブリ。 「挨拶はいいから!琉生はどうしたら助かるの!?体が冷たいの!早くしないとだめなんでしょ!?」 ――オチツケ。ヒヅケガカワルマデハ、スガタヲタモテル。チカラノナイ、ジョウタイデハ、フツウノニンゲンハ、ミエナイガナ。 「他の人には今の琉生が見えないの…?もしこのまま明日になったら…?」 ――ジッタイデハ、イラレナクナル。ヨクナク、ニンゲンノコドモカラ、スコシズツスッテ、タメテオイタ、ツヨイ、カンジョウノチカラヲ、ゼンブツカッタカラナ。イマノアイツニハ、ホンタイノイシニ、カエルクライノ、チイサナチカラシカ、ノコッテイナイ。フタタビチカラガタマルマデ、イシカラデルドコロカ、ウゴクコトスラ、デキナイ。トウゼン、ゴリヤクモ、ヨワクナルワナ。 「泣く力を吸い取ってたから…夜泣きに効果があったの…?そんな…!自分に必要なのも全部…?私の表情を戻すために…?」 ――ソウダ。ナンジュウネンモカケテ、タメタトイウノニ。バカナヤツ。ダカラ、カカワルノハヨセ、トイッタンダ。カミトニンゲンデハ、ジカンノナガレガチガウ。 「…時間の…流れ…」 ――トテツモナク、ナガイトキヲイキル、カミカラミレバ、ニンゲンノ、ジュミョウナド、イッシュンノヨウナモノ。ソウデナクトモ、コトナルシュゾク、ダ。 「…そうかもしれないけど!でも!私のお母さんは…!」 彼女は言いかけて口を(つぐ)んだ。 ――タイノウロコヲ、モッテコイ… 「鯛の…鱗?」 ――オマエノ、ジイサマノダヨ。 「私の…おじいちゃん…狛犬さんもしかして…知ってるの!?」 ――イツカラ、ココニイルトオモッテイル?アイツノチヲヒイテイル、オマエナラデキル。イヤ、モウイマハ、オマエニシカ、デキナイ。 「…泳げるけどでも。私、人間だよ…?一体どうやって…」 ――モグレ。フカクマデ。カラダガアカイウチハ、クルシクナラナイ。ダガ、ユダンスルナ。フユノウミハ、ツメタイ。 陽香は狛犬が何を伝えようとしているのか察した。 「…分かった。鱗が手に入ったらどうすればいいの?」 ――スリツブシテ、カイスイニトカシ、ルイニノマセロ。 「夜中の十二時までにそうすれば、琉生は本当に消えなくて済むのね?」 ――アア。ソウダ。ダガ、イノチノ、キケン… 「分かった!ありがとう!もし嘘だったら狛犬さん、あなたを壊すからね!?」 陽香は最後まで聞かずに走って神社を出た。 (琉生…待ってて。絶対、助けるから!) ――オンナハ、トキドキ、オソロシイナ。 陽香が神社を去ってしばらくしてから狛犬は呟いた。 「…おい…なんで…あんなこと、教えたんだ…」 琉生が倒れたまま、とても小さく言葉を発した。 ――ヨウ。ゲンキカ? 「茶化、すな…!冬だぞ…!?水温、何度だと、思ってる…!」 ――アイツガ、ノゾンダカラ、オシエテヤッタ。 「お前…!陽香ちゃんは…人間、なんだぞ…!」 ――デモ、アイツノ、マゴダ。コノテイドデ、クタバルヨウナラ、ソレマデノニンゲン。 「彼女を…試したのか…!?」 ――タスカルホウホウハ、ソレシカナイカラ、シカタナイ。オマエガ、キエチマッタラ、ジンジャガ、サビレルダロウ。ソレハ、コマルカラナ。 「…ふざけるな…僕が、どんな、気持ちでっ…陽香ちゃんに…何かあった、ら…僕が…おま、えを……」 琉生は気を失った。狛犬はまた呟いた。 ――レンアイカンジョウトハ、フシギナモノダ。オレニハ、ワカランガ。 小加神社は、いつになく静かだ。日が傾き始めていた。 陽香は家に帰ると箪笥の奥から水着を引っ張り出した。急いで着替えると、上から服を着た。茜が様子を見に来た。 「陽香?どうしたの?何か慌ててるみたいだけど…」 彼女はその声に振り返った。 「お母さん……琉生が。私の好きな人が、すごく苦しんでるの。助けるためには鯛の鱗がいるんだって」 茜は陽香の表情が戻っていることに気づいた。鱗と聞いて、はっとした。 「陽香…顔が……まさか。お父様のところへ!?無茶よ!行けるはずがないわ!あなたは人間なのよ!?」 陽香は母の反応を見て、恐怖を感じ逃げ出したくなった。 「……でも。おじいちゃんの血を引いてる私にしかできないって。彼は私と友達になってくれた。私の表情を元に戻すために命懸けになってくれた。感謝してるの。私も何かしてあげたい。この無意味な体質をずっと恨んでた。でも…ちゃんと意味があったって証明したい。だから…」 彼女は恐怖を堪え、母に伝えた。 「あなた…ずっと何にも関心がなかったのに…そこまで必死になれる相手に出会ったのね……分かった。気をつけるのよ。危険を感じたら引き返しなさい。すり鉢と海水、用意しておくから」 茜は娘を信じると決めた。その言葉で理解してくれていると安心した陽香は、にっこり笑った。 「ありがとうお母さん!私の好きな人ね?神様なんだって!やばくない!?すごくない!?じゃあ、行ってきます!」 陽香は家を出た。茜は娘の弾けるような笑顔に涙した。 「……うっ……あの子、ちゃんと笑ったわ…良かった……神様なの?そう…化け物の私よりすごいじゃない…」 ***** 陽香は外津地区の港にいた。鯛女房が伝えられている場所だ。ここから潜れば祖父に会えると思った。準備運動をして、誰もいないことを確認すると服を脱ぎ、それを分かりずらい場所に隠した。寒い。もう日が暮れようとしている。のんびりしてはいられない。怖気づきそうになる体と心を奮い立たせ、彼女は精一杯、緊張する場面や恥ずかしいと感じたことを思い浮かべようとする。目を閉じて海に飛び込もうとしている自分を沢山の人が見つめているところを想像した。冬に海とか鯛女、ついに頭狂ったんじゃねーの?そう言われた気になる。恥ずかしい!恥ずかしい!陽香の体はどんどん赤くなっていった。 (わ、私!好きな人がいます!) 頭の中で彼女は発言する。 (その人のためなら鯛でもいいです!) キャー!あんなこと大声で言うなんて…魚ちゃん、どうしちゃったんだろうね?私あんなん恥ずかしくて無理!学校行けなくなる!そう言われた気がする。もう無理!逃げ出したい!恥ずかし過ぎる!陽香は体温まで上がるのを感じた。パッと目を開け、自分を見ると全身が真っ赤に染まっている。 (よし!行こう!) 彼女は冬の海に飛び込んだ。途端に全身を針で刺されたような鋭い痛みを感じた。 (うっ!…めっちゃ痛い…何これ…冷たいから?でも息はできる…潜れ。このまま行けるところまで) 陽香はひたすらに海の底を目指した。水深が増すと臓器がぎゅっとした。それでも彼女は恥ずかしいことを考え続け赤さを保ち、祖父に会えますようにと願いながら奥へ奥へと潜った。 (…ううっ…もう肺が…体はちゃんと赤いのに、息が……だめだよ…ここまで、来たの、に…おじい、ちゃん…ど、こ?) 陽香が気を失いかけた時、声がした。 『こりゃあ、たまげた。真冬にこんなところまで来るとは。お前さん、ただの人間じゃないね?』 陽香の前に巨大な鯛が現れ、言葉が頭に響いた。はっとして意識を保ち彼女も念じ返した。 『あなたが、鯛の化け物の長ですか?』 『いかにも』 『私は、茜の娘の陽香です。あなたの孫です。はじめまして。おじいちゃん』 『孫だと!?茜…?ああ。人間に骨抜きにされおって。哀れな奴よ』 『母は父の話をする時とても幸せそうでした!私は哀れとは思いません!おじいちゃんだってお母さんに選ばせてあげたじゃん!鯛か人間か!娘の幸せを願ってたからじゃないの!?』 陽香は興奮して体を赤くさせ、同時に口調も荒くなった。 『……うっ!なかなか言うな。気の強い子を産んだのだな。あいつは。ははは。体が真っ赤ではないか』 大きな祖父は体を揺らして笑っている。 『当然でしょ!?鯛の化け物の娘で、長の孫なんだよ!?直系だよ!?そんなの血が濃いに決まってる!自分で選んだ訳じゃない!おじいちゃんだって、馬鹿デカいし真っ赤じゃん!キモいとか言われて笑われたら嫌でしょ!?』 陽香はイラッとした気持ちのまま念じた。 『…そうか。そうだな。悪かった。して。ワシの孫、鯛と人間の血を持つ陽香よ。自力で皮膚を鯛のように赤く染め、自分の命も顧みず、このような奥まで来た訳は?』 『私の大切な人が苦しんでるの。助けてあげたい。鱗を一枚分けて下さい』 『分かった。可愛い孫の頼みだ。聞いてやろう。だが、お前は代わりに何をくれる?』 『…え?』 『お前の母親は、人間の体を得る代わりに肌に馴染んだ海を捨てた。お前は何を捨てられる?』 『私が…あげられる…もの…?』 『そうだ。ワシの鱗と交換しよう』 鱗、と聞いた瞬間に陽香は念じていた。 『何でもいい!命以外なら!』 『………そうか。魚も人間も、生きとし生けるものすべて、その者の目を見れば色々分かるというもの。淀みのない、いい目だ。いい覚悟だ。では、その美しい髪をもらおう』 陽香の髪はツヤツヤでサラッとしていて、長かった。髪だけは一人きりでも、表情を無くしてもずっと丁寧にケアしていた。 『いいよ!』 鱗を目の前にした彼女に迷いはなかった。 『交渉成立だ。持って行きなさい。お前さんの幸せを祈っているよ』 彼はそう言うと、暗い海のさらに奥へと消えていった。気づくと陽香の手には、そこにギリギリ収まるくらいの扇子のような形をした大きな鱗が乗っていた。 『おじいちゃん…ありがとう…また会えるよね?』 そう念じると、またな、と声が返ってきた気がした。空耳かもしれない。陽香は鱗を握り締め、地上へと急いだ。上がれば上がるほど楽にはなったけれど、温度による痛みと圧力による重みで、体はもう限界に近い。 (…痛い…苦しいっ……でも、早く行かないと時間、が……) 琉生のことを想い、懸命に泳いだ。なんとか地上に辿り着いた。陽香は息を吸い、吐いた。白い。寒さを感じないようにするため、体を赤くした。 「…うっ…はあっ!はあっ!はぁ…ごほっ!も、戻って、来られた……早く、しないとっ!」 彼女は物陰に隠れ、服に着替えて袋に水着と鱗をしまい、走った。痛みか寒さか、よく分からないもののせいで体の感覚がない。それでも脳に走れと命じた。 ***** 陽香が家に着くと、玄関に海水とすり鉢と水筒があった。彼女は狛犬に言われたとおり鱗をすり潰して、海水に入れた。それを水筒にそっと移す。家の奥から茜が出てきた。 「陽香!?帰って来られたの!?…良かった……」 茜はその場にへたり込んだ。 「お母さんっ!今、何時!?」 彼女は食い気味に尋ねた。今一番気になっていることだ。 「十一時三十分よ。彼はどこにいるの?」 「小加神社!…早く!行かなきゃ…!」 陽香は水筒を持って家を出ると、夜の冷たい空気を切るようにして走った。 小加神社に着いた。夜中の神社に人気はなく、静まり返っている。 「琉生!琉生っ!」 陽香は大切な人の名前を呼んだ。夜中に大声を出すのは迷惑だし、恥ずかしいしで体がさらに赤くなったけれど、気にしている場合ではない。タイムリミットが迫っている。彼女は倒れている琉生に駆け寄った。彼の口にそっと海水を乗せたけれど、するりと流れ落ちた。口が固く閉じていて入らない。 (どうしよう…!どうすれば…!) 時間がない。焦る彼女の頭に声が響いた。 ――ヤルジャネエカ。ハルカ。 「こ、狛犬さん…琉生が…飲んでくれないの…どうしよう!」 ――セップンシロ。 「…接吻…って…キス!?」 ――オマエガ、クチウツシデ、ノマセテヤレ。 「……キスなんて…したことない……」 ――モウスグ、ヒヅケガカワル。グズグズシテイルト、キエチマウゾ… 「だめっ!それだけは絶対っ!…分かった。やってみる!」 ――オアツイコトデ。 狛犬が茶化した。陽香は水筒の中身を口に含む。最初は含みすぎて思わず飲んでしまった。とても塩辛く不味くて、むせた。 「…ごほっ!ごほっ!飲んじゃった…うえぇ塩辛っ!激不味っ…もう一回…少しだけ…」 陽香は琉生にキスをした。祈るように口から海水を運ぶ。 (…琉生。お願い。飲んで…) 喉がゆっくりと動いた。すると、先程の優しい光が彼を包んで、消えた。 「琉生!起きて琉生!お願い…」 彼女は呼びかけた。体が温かくなり、ゆっくりと彼の目が開いた。 「は、るかちゃん…?あれ…僕、どうして…」 「…温か、い…間に合って、良かった…琉生…あのね…?私……る、いの、こ、と……」 琉生の体温が戻ったことに気づいて安心すると、陽香の緊張の糸が切れた。顔や服から覗いている赤い肌が、すうっと白くなる。緩く微笑んだ彼女は、かくんと顔を伏せ、動かなくなった。細長く蓋のない水筒がカラン、と寂しげに倒れ、少しだけ残っていた中身が零れた。 「陽香ちゃん!」 琉生は静かになってしまった彼女を抱き起こした。心臓には、まだ辛うじて小さな火が灯っているけれど、青く冷たい彫刻の完成まであと僅かだ。 「…嫌だ…!だめだ!逝くな陽香ちゃん!このままじゃ……僕は!何のためにっ」 琉生は陽香を抱き締めて悔しそうに顔を歪めた。 「琉生くん!こっちへ!家へ来て!」 名前を呼ばれた彼は、はっとしてそちらを見た。女性が立っている。 「あなたは…?」 「陽香の母です!」 琉生は、はっとして陽香を抱え、走った。 「行きます!どっちですか!?」 陽香は茜の手によって作られた、いつもとは少し違う風呂にゆっくりと入れられ、限界まで暖められた部屋のベッドで眠っている。琉生は眠る彼女の手を握っていた。まだ少しだけ冷たい。 「…陽香ちゃん…お願いだ…遠くからでいい。僕は君を…君の幸せを見ていたいんだ…それだけで…良かったのに…!どうしてっ」 琉生の瞳から光る涙が落ちた。深い悲しみに包まれている。それは陽香の頬に落ち、玉のように転がり唇の端に辿り着いた。 「…ん…」 彼女の瞼が僅かに揺れ、琉生が握る手の指もぴくりと動いた。 俯いていた琉生は陽香を見て呼びかけた。 「陽香ちゃん!陽香ちゃん!陽香ちゃん!……くっ……戻って来いっ!はるか…っ!」 陽香は目を開け、琉生を見た。 「…る、い…?今ね?何か口に…泣いてるの?そっか…琉生の涙って、金平糖みたいに甘い、んだね…ふふ…」 陽香は幸せそうに微笑んだ。琉生は潤んだ瞳で微笑み返した。 「…良かった…っ」 ***** 日常が戻ってきた。デートをしようという琉生の提案で、二人は浜野浦の棚田に来ていた。夕日が美しい。 「髪は女の子の大切なものなのに…僕のせいで…ごめんね…」 陽香の髪は耳から下がごっそりなくなっている。彼女が髪を大切にしていたことを知っている琉生は落ち込んだ。 「いいよそんなの!また伸ばせばいいんだから!正直ほっとしたんだ!」 「…え?」 「化け物の長なんだよ?例えば感情とか記憶とか…目とか?言われたらどうしようって思ったから。琉生を好きな気持ちや思い出がなくなったり、見えなくなったりして忘れちゃうのは嫌だもん。それからね?琉生が私をお姫様抱っこしてくれてる夢も見られたし!結果オーライ!」 髪くらいならいくらでもあげちゃうよ!と、陽香は笑った。琉生は心が温かくなった。それから彼女を家まで運ぶ時、無意識にお姫様抱っこをしていたことを思い出して少し恥ずかしくなった。 「…陽香ちゃん。本当に、僕でいいの?」 「…なんのこと?」 彼が言いたいことは分かっていたけれど彼女はとぼけてみせた。 「君と時間の流れが違う僕は、ずっと傍にはいられないかもしれない。この前みたいなこともないとは限らないし、また危険な目に遭うかもしれない。やっぱり同じ人間と付き合った方が。僕は――」 陽香は琉生の言葉を遮った。 「ねぇ。琉生の願い事は何だったの?」 「………陽香ちゃんの願いが叶いますように。幸せでいてくれますように」 それを聞いた彼女は緩く笑った。 「馬鹿だなぁ。私の願いはね?本当は…琉生とずっと一緒にいられますように、なんだよ?大丈夫だよ!琉生と同じやつ飲んだし!狛犬さんが言ってたでしょ?ナガイキスルゾ…って!」 巨大な鯛の鱗を溶かした海水は、生命力の塊のようなものらしい。口一杯の量を飲んでしまった陽香は寿命がかなり伸びたのだと彼は言う。琉生は彼女の態度に驚いて目を丸くした後、それを細めて微笑んだ。 「…分かった。僕は、君が嫌だと言うまで傍にいるって誓う。今、ここで」 「…ほん、と、に…?どうして…あっ!」 今度は陽香が目を丸くした。そして気づく。 「僕には分かる。『あれ』も見える。僕の正体、知ってるでしょ?」 琉生は陽香の手を握ると悪戯っぽく笑った。彼女は瞳を潤ませながら彼の手をきゅっと握り返した。 「私に居場所をくれてありがとう。誰かと一緒にいる幸せを教えてくれてありがとう。私もここで誓う。琉生…大好きだよ!」 その時、風が吹いた。紐が揺れ、エターナルロックの鐘がチリリと小さく鳴った。夕日に照らされた彼女のとびきり幸せそうな笑顔は、周りの景色に負けないくらい輝いていて、彼の胸は締め付けられ、それは、神様の涙を誘った。 「……ありがとう。陽香!」
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