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 世の人間は二種類に分かれる。  恋に浮かれる人と、恋に落ちる人だ。  どこまでも天高く舞い上がるのと、あらがいようがなく無明の穴に吸い込まれるのと。  どちらが良いかと言えば圧倒的に前者に決まっていて、幸いにも私は恋に浮かれる(・・・・)体質だった。その点については両親に感謝しかない。  相手への想いで満たされ、嬉しく、楽しく、誇らしく、いてもたってもいられない。身体は軽くなり、足裏は地面を離れ、肩甲骨から翼が生える。屋根まで飛び上がり、ビルを駆け上がり、山をも乗り越える――そんな高揚感。  だから私は恋が好きだった。  だというのに。   そんなのは本物じゃない、地の底から声が響く。  恋に浮かれるてめえに酔ってるだけじゃん、自己愛乙、バーカバーカと続く。口が悪い、遠慮が無い、あと言い回しが微妙に古い。乙って。  むかっとして見下ろせば、遙か彼方に友人の顔がぽつんと雫のように落ちていた。最早、小さな小さな点でしかなく、見知ったそれよりも、さらに小さくなっている。  さては友人もまた恋に落ちたのだろう。いや、まだ(・・)というべきか。友人はもう長いこと、深い穴の奥底に居続けているのだった。  友人は恋に落ちる(・・・)体質で、ここ数年は同じ高さで顔を合わせた記憶がない。まあ、私自身がひっきりなしに浮かれているせいもあるだろうけど。  私はふんと鼻を鳴らす。  恋に浮かれたことのない者のやっかみだ。浮かれる人と落ちる人の割合は1:9程度。自分が稀だという認識はある。  だけど己の恋がうまくいかないからといって、人の恋路に口出しする輩は馬に蹴られてしまえばいい。隣にいたなら自分で蹴飛ばしていただろうけど、どんなに長い脚でもここから穴底には届きやしないのでやらないけど。  ちゅんちゅんちゅちゅんと二羽の雀が横切ってゆく。つがいだろうか。チュンチュンワールド、二羽の世界。私も先日ジムで知り合ったあの人と空中散歩できたならどんなに素敵だろう。  妄想という広大な空に私の翼は大きく広がり、どんどん上昇する。  テレビ塔よりもスカイツリーよりも富士山よりも高く高く高く。  不意に視界が陰り、顔を上げれば白い鯨の腹じみたのっぺりした筐体が眼前を塞いでいた。  旅客機!――あわやぶつかりそうになり、慌てて飛び退る。世界初のヒューマンストライクとなるところだった。自動車ならばクラクションとブレーキ音、そして怒声が飛ばされていただろう。  ということは、およそ高度一万メートル。こんなに高く浮かれるなんて最近では滅多になかった。本物の恋心の顕れに違いない。  今度はふふんと、〝ふ〟を一つ多くして鼻を鳴らし、友人を見やる。けれど眼下は雲の海。当然、友人は見通せない。おーい、ばかー、無視するなー、と呼べど叫べど悪態つけど、返事はない。  なんだか肩透かしを喰らった気分になり、ころり仰向けに寝転んだ。水泳の補習授業でしていたみたいに。プールに並んで浮かび眺めた雲と空のコントラストは変わらない。いつかの夏のクリームソーダ。寄り道した喫茶店でひとつのオーダーを分けっこしたなあと思い出す。  私は水底に潜る心地で、もう一度空に顔をつけて地表を見やる。やっぱり見えない。じゃあしょうがないと今度はジムのあの人を捜すけど、こちらも見当たらない。  あれ、順番逆じゃないと訝しみつつ、ふわふわさらに上昇した。  対流圏を抜け、成層圏を突き破り、流星の消滅を見送り、ぐんぐん昇って、巨大な銀色の蟹のような建造物に出くわした。  地球のいわば宇宙派出所。すなわち各国の賢い人たちが色々な研究してる有人実験施設だ。確か高度は四百キロメートル。いつのまにか最高記録を更新していた。  さすがに疲れたので、ドラム缶じみた円筒に体育座りして恋の翼を休ませた。  ぼんやりと地球を眺める。薄青にうっすら真白い粉糖がまぶされたキャンディみたい。  宇宙派出所は秒速7.7㎞、約九十分で地球を一周する。せっかくここまで来たのだからお月見ならぬ地球見でもしていこうか、でも・・・・・・  三百六十度、上も下もなく見渡せど、当然ながら誰の姿もない。    恋をしても、一人。    こういう時、恋に浮かれる体質は恨めしかった。ほとんどの人は落ちるから、二人して落ちた穴底で蜜月(いちゃいちゃタイム)を堪能すれば良い。でも、恋に浮かれる人は元々少数だから出会い自体が稀であり、その少数派たちもふよふよふよふよ糸の切れた凧そのままに漂うから、浮かれる人同士が恋に落ちる確率は極めて低いのだ。  恋は盲目という言葉がある。相手以外見えなくなり常識や道徳を逸脱するという意味だけど、私の場合、逆に相手が見えなくなって、成就しない。  ふいに思う。では、友人の恋はどうなのだろう。今頃、穴の底でいちゃいちゃしてるのか。私を一人っきりにして、他の誰かと。想像するとムカムカした。フケツ。  でも、と思い直す。奈落の友人はいつも不機嫌だ。  それは多分、痛かったり、苦しかったり、悲しかったりするのを隠すため。怪我した野良猫そのままに毛を逆立たせる、素直じゃない性格だということを共に過ごした高校三年間で知っていた。道ならぬ恋でもしているのだろうか……不倫とか? だめじゃん。  と、彼方地球の表面にじわり光がたゆたう。それはまるで風になびく緑光のオーガンジー・リボン。妖精の忘れ物。  太陽から放出されたプラズマ粒子が地球の極地方の高層大気と衝突して生まれる光の帯――オーロラだ。理屈はともあれ、美しく幻想的で、ポケットからスマホを出して何枚も写メ(この古い言い回しも友人の口癖でうつってしまった)した。SNSアプリを起動させて送ろうとするが、慌てていたものだからうっかり落としてしまう。  一瞬、地球に落下してすわ大惨事と取り乱しかけたけど、スマホは手漕ぎボートのようにゆっくり進むのみ。とある名前とそのアイコンを示したまま。  追いかけようとして、だけれど思うように進まず、指先は空ならぬ宙を掻く。  あれ、と振り返れば、翼から羽根が抜け落ち始めていた。はらはら、はらはら、はらりはらり。  漆黒に舞う純白の羽毛は桜の散り様にも似ていた。別れと出会いの季節に咲くこの花は見る者の心を映す。  ああ、また恋が終わる。こんなふうに何も伝えられないまま、いつも私の恋は散ってしまうのだ。  嘆息を吐いて俯けば、すっかり夜に入っていたことに気付く。地表に灯る明かりは橙色。灯籠流しの様相にも似ていたけど、私の脳裏には別の情景が甦った。  ……宵祭、きのこ船。  それは地元の夏祭りで、といっても無形文化財に指定されている由緒正しく盛大なもので(著名な浮世絵師にも描かれている)、通っていた高校のすぐ近くの公園で毎年催されていた。確か、日本三大川まつりの一つにも数えられていたはず。  きのこ船というのは正式名称ではない。幾百の提灯を五艘の船にドーム状に並べて飾り付けるのだが、さながら巨大なきのこのような様で勝手に名付けたのだった。私と友人が。  私たちは高校で出会った。    私は高校のあるT市出身だが、友人は隣のS市から通っていた。だからというか、友人はこの祭りを知ってはいたけれど、実際に見物したことが無かった。私は案内役を買って出て、でもあまりの人混みに気圧された友人はいつもの毒気を消してもう帰ろうと袖を引いた。私はその手を握って離さず、人の荒波を泳いだ。  だって友人と見たかったから。あなたに見せたかったから。  そうしてようよう岸辺に辿り着く。  堰き止められて久しい漆黒の川面に船が漕ぎ出し、揺れる提灯が水に映え、鈴なりの光が倍に膨れて。  私たちはその幽玄の景色に圧倒された。友人はともかく、私はもう何度も目にしているはずなのに、なぜだか、ひどく胸が高鳴った。  笛の音、花火の打ち上げ、見物人の歓声。  周囲があんまり騒がしく、かえって世界に二人きりという錯覚する。つないだままの手は汗ばんでいて、なのにぎゅうとさらに強く力を込められて隣を向けば、光の加減で陰影濃く、いつもと違う人のような友人が笑う。そうして見つめた口元が〈 あ、り、が、と、う 〉と動いた。  高三の夏の出来事だ。  どうして、思い出すの、そんなこと。  私にとっても、友人にとっても、今や不要の記憶なのに。  だって、友人はそのすぐ後に恋に落ちた。たった一人、奈落の果てに行ってしまった、私を置いて。だったら、私は私で恋に浮かれるしかないじゃない。   恋の翼は徐々に舞い落ち、ゆっくりと地球に引き寄せられる。でも、帰ったところで独り。私はぼんやり漂うに身を任せた。  うつらうつらまどろみ、どれほどの時間が経ったのか。  ぐだっていてもしょうがない。帰ろう、次の恋を探さなけりゃと顔を上げて目に映った光景に、私は息を呑んだ。  くるくる寝返りをしていたからだろう、いつの間にか頭上となっていた地球を覆う、白く巨大な渦――台風。  ぞっとして仰いでいると、未だ近くを漂っていたスマホが光り、メッセージの着信を知らせる。けれど伸ばした指先はわずかに届かない。  もしも、友人の穴底に、台風による大雨が流れ込んだら。  助けて――脳はそんなメッセージを友人の声で再生する。  私はもがいた。もがいてもがいて、地球へ近付こうと試みるが、中途半端に残った翼がそれに抗う。  もがいてもがいてもがいて、純白の羽毛を撒き散らし、でもちっとも進まず――腕を肩から回し、力任せに翼を引っこ抜いた。  めりめりと嫌な音がして血が吹き出たけれど構っていられない。痛みよりも焦りが勝った。恋の呪縛から解き放たれて、地球に引き寄せられる。真っ逆さまに、ものすごい勢いで。もっと速く、速く、速く!  分厚い積乱雲を突き抜け、地上の景色がはっきりと捉えられるようになる。灰色の景観、荒ぶる風、打ち付ける雨。目を凝らし友人がいる穴を捜して――奇妙なものが目に留まった。    長い長い長い、長大な梯子。    ビルより、山より、積み上げた草履よりも高いそれ。強烈な風雨の中、一段一段登る人がいる。風に煽られ、手足を滑らせ、肩で息をして、なんとも危なっかしい。どうしてそんな馬鹿なことを――その食い縛られた口元には、一枚の羽根が咥えられていた。  宇宙で舞い散った、私の恋の残骸。  そんなものが降ってきたから、おまけに血に染まってたから、恋の重力振り切って這い出たの、あなた。  そこでようやく悟る。高校時代から今日にいたる一切合切。長いすれ違いと、大きな回り道と、時間の無駄遣い。都合の良い妄想かもしれないけれど。    高速で落ちる私と、梯子を登る友人。  またすれ違うのか――そんなのはいや。  雨粒にさらされて泣いているようだった悲壮な顔が、こちらを認めて驚愕に変わる。同時にぐらりと梯子が傾いて。  最後のチャンスだ、すり抜けながら、かっさらえ!    そう、恋は奪うもの、なんて。  心の中の女海賊に叱咤されて、覚悟する。大丈夫、うまくやれる、金ローで放送されるたびに観ているから。  倒れゆく梯子から(くう)に放り出された友人の腕を引っ掴み、間一髪、抱き止める。もちろん、落下しながら。このまま心中というのも一つの道だけれど。 「死なないし、死なせない。だから、心を決めて!」 「決めるって」  久しぶりに合わせた友人の顔は呆然としていて、そんな表情も懐かしく愛おしかった。あばたもえくぼとは、よく言ったもの。握った手を少し緩めて、次に絡め直す。  高所から落下したなら、下が水面だとしても、衝撃に耐えられるはずがない。  でも、心を決めたなら。人は恋に浮かれて、恋に落ちる。だったらいける、やってのける。その先の岸辺に泳ぎ着いてみせる。  こんなに回り道したのだから、これから何十年先、ひいては老後、看取りまでの時間をもらわなきゃ帳尻合わない。  水泳の補習も、クリームソーダも、オーロラも、宵祭も。あなたとなら、あなたと見たい、あなたと何度でも。  絡めた指に力がこもり、強く固く結ばれる。返事はもらった。これからきっと大変、浮かれる私と落ちるあなた、苦労は目に見えている。でも、今、この固結びを実感したなら。先人たちは言った、恋の力は偉大だと。 「大きく息を吸って、5、4、3、2、1――」  ――ゼロ!  どぶんっと甘く重くかぐわしい水に包まれて。私たち、恋に溺れる。
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