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その日、珍しく航は朝からいなかった。
どうしても確認しなければならないことがあると言って出かけた。
彼が出て行ってからしばらくした後、インターホンが鳴った。
私は身体中が怠くて、眠くて、しんどくて、だから出なかった。
航も無理しなくていいと言ってくれている。
だから、布団を被ってやり過ごそうとした。
のだけれど、インターホンを鳴らした人物は何故か鍵を持っていたらしい。
私が来客に対応しないと察すると、そのまま勝手に上がってきたのだ。
そのことに気づいたのは、彼女が私のいる寝室にどかどかと入ってきたあとだった。
「貴女の、貴女のせいで! 航様が仕事をしなくなったから!! そんなんでNATORIホテルグループの代表の妻だとよく言えますわよね!」
古鷹紬だった。
航の元婚約者であり、幼馴染でもある彼女はその華奢な肩を怒らせて私を睨みつけている。
それでも私がぐったりとベッドから起き上がらないので、彼女はさらに声のトーンを上げた。
「分かっておりますの! 私が、航様のお母様が! どんな思いで企業を運営しているのか。どれほど航様のことを思っているのか。貴女如きに分かりますの! 所詮、身体で寝取っただけですのに!!!! 航様のこと、何一つ知らないくせに!!!! 身体の相性が良かっただけなんでしょう。そんなの、運命でも愛でもなんでもないわ。ただの畜生ではありませんか! 穢らわしい!!!!!!」
紬さんの言っていることは全部が本当のことだったから、私が胸を痛めるのは当然の罰なのだ。
本来あるべき婚約者から、彼を寝取った畜生の私は、下品で愚かで穢れていて、だから地獄に落ちなきゃいけないのだ。
紬さんも真っ当じゃなかったら良かったのに。
それなら、私も受ける罰が少なくて済んだのに。
紬さんは真っ直ぐだから。
彼女には分からないのだろう。
正義や正論が無に帰すこともあるのだと、努力が報われないこともあるのだと、彼女は知らないのだ。
知らないままで生きてこられた側の人間なのだ。
本来、航の隣に立つべき人。
航の元婚約者。
航の幼馴染。
私より航をよく知っている人。
彼女を表現する言葉なんて幾つでも思いつく。
そして、そのどれもが私より航の妻に相応しいことを示していた。
ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた心臓がどくんどくんと激しく脈を打つ。
瞳孔が開ききって、このまま死んでもいいかもって思う。
いっそのこと消えたいって。
今の私には紬さんの前で取り繕う元気も、やり返す気力もなかった。
ただ黙ってベッドの中に潜り込むばかり。
その姿に何を思ったのか、何やら彼女は更に激しく私を叱責して、それから部屋を出て行った。
私は航が戻ってくるまで、じっと蹲っていた。
どうしようもない無力感が、まるであの頃の私のようで自己嫌悪に死ねそうだ。
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