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その子が泣きながら私に向かって叫んだ。
「こ、この人はねぇ! っう、ひっく。わた、私の、こ、婚約者なのよ〜〜〜! うぅ、」
しゃくりながら泣いているその子を見て、私の視界から急速に色が失われていく。
昂っていた気持ちがシュウゥゥと呆気なく萎んでいった。
「……婚約者なんていたんだ」
ぽつりと溢れた言葉がプールサイドに反響した。
そっか、昨日は私を婚約者に間違えていたのかな。
眼鏡をかけていなかったから、ちゃんと見えていなくて。
勘違いしているから、私のことなんて何一つ覚えていなくて。
ーーーーなぁんだ。
言いようのない虚しさが私の心を支配した。
乱暴ながらも優しさに満ちたあの手つきも、甘さと切なさを孕んだあの声も言葉も、劣情を隠しすらしなかった彼の欲望そのものですら、私に向けられたものなんかじゃあなかったってことね。
別に何かを期待していたわけじゃない。
だけど確かに昨日、私はとても気持ちよくて幸せだった。
それら全てを踏み躙られたみたいで、悔しさに下唇を噛み締めた。
『伊織さんは一人でも生きていけるでしょ?』
こんなときに元彼の最後の言葉なんか思い出したくもないのに。
鼻の奥がつんとして、でも絶対に泣きたくはなかったから、必死に平静を装った。
こんなんだから、私に可愛げなどないんだって知ってるよ。
だけど傷ついた心をそのままに他者に見せるのはとても怖いことだ。
私にはそんな強さも勇気も覚悟も持ち合わせてはいなかった。
じゅくじゅくと痛む心を抱えて、私は声が震えてしまわぬようにお腹に力を込めた。
「そう、だったんですね。だけど私はーーーー」
彼とは関係ないですよ。
そう言いかけた私の言葉を遮るように、彼がプールに飛び込んできた。
大きな水飛沫が上がって、水滴がきらきらと光を帯びて落ちてきた。
それはまるで祝福の花びらのように綺麗な舞いだった。
私を抱いたその腕で、彼は再び私の身体に触れる。
ぎゅっと安心させるように力を込めて、肩を抱き寄せると、はっきりとした口調で宣言した。
「紬、悪りぃな。こいつ、俺の女なんだ」
紬と呼ばれた彼女はとても驚いた顔で私たちを見ていた。
「……その、口調。え? だって、そんなはず……」
何やら言いたげな彼女を残して、彼は私の膝裏に腕を差し込むとそのままぐんっと私を持ち上げた。
所謂、お姫様抱っこという姿勢だ。
そして、彼は私を抱えたまま、その場を離れた。
後に残ったのは、呆然と私たちを見送る彼の婚約者だけだった。
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