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 本当に人が死んでいる!  今、僕は「本当に人が死んでいる」とそう自覚してしまった。その瞬間、全身に鳥肌が立つ。到底受け入れ難い現実に体中が寒気と嘔吐で苛まれる。ここから目を背けたいのに、一度組み合わされた頭の中のパズルは現実を拒絶するのを許さなかった。怖い、逃げたい、そう思っていると、背後から低い声で話しかけてくる聞き覚えのある声がした。 「大丈夫か?」  振り向いて低い声の主を見上げると、その男は先ほどまで僕に巻かれていた紐を左手で持って立っていた。あまりにも剛腕でラガーマンのような大男に、一瞬殺気のようなものを感じる。 「うわっ、殺さないで」  慌てて僕は窓際の方へと逃げた。 「もう大丈夫だ。助けに来てやったぞ」と冷静な声で僕を落ち着かせるようにその声の主はゆっくりと喋ってくれた。どうやらこの人が紐を解いてくれたらしい。  そして部屋の片隅を見ると子供のように丸くなり小さくなった人影がもうひとつ見えた。助けられたのは僕だけではなかったようで、スマホを持ってその人影も座り込んでいる。そんな人影は僕の動きに気づいたのか、スマホで小さな明かりをこちらに灯してくれた。 「娘と妻を助けてくれるんじゃなかったんか?」  その人影は弱々しい擦れた声で尋ねてきた。スマホの明かりは僕ではなく、隣の大男を照らしている。人影は父の声に似ているけれど、いつものような張りのある声ではない。 「すまん。奴を抑えきれんかった」  図体の大きいその男は申し訳なさそうな返事をして背中を丸めた。よくよくその男の顔を見ると、最近家に出入りしている刑事さんだと気づいた?名前は黒岩厳(くろいわげん)と名乗っていたような気がする。確か警部さんで、いつもトキと呼んでいる長髪若白髪の大男、土岐海山(ときかいざん)という刑事さんとつるんでいた人だ。土岐さんはお菓子をくれる優しい人。それに比べて黒岩さんは野生熊のように目つきが悪く怖そうな人だった。二人とも本当に大きかったが、黒岩さんは色黒で腕っぷしが太かったからそう見えたのかもしれない。そんな黒岩さんを見ると筋肉隆々の右腕に深々く斬られた傷痕がついていた。そこから血がドクドクと流れ落ちている。傍には土岐さんの姿は見えない。 「刑事さん。そりゃあ、ないって」  弱々しい声の人影が切羽詰まった声へと変わった。涙と嗚咽が止まらず、言葉を繋げるのがやっとの思いで、僕の方には見向きもしてくれない。 「本当にすまん。精一杯やったんだが、奴が一枚上手だったよ」 「身代金もちゃんと用意したっていうのに……」  弱々しく揺れる人影は、もう体中から生気を失い、生きる屍のように佇んでいた。 「そうなんだが、なんせ相手は古流剣術家、不振二刀流(ふしんにとうりゅう)の師範、剛田鉄心(ごうだてっしん)だったんだ。きっと師範である剛田は一千万なんて大金、二の次だったんだろうよ」 「ああ……」  断末魔のような叫び声を上げた人影は更に小さくなり、頬を濡らす大粒の涙を隠すように伏せてしまった。 「でも、もう大丈夫だ三浦(みうら)さん。奴は我々警察が抑えたし、誘拐されたお子さん、辰巳くんも無事保護した」  そう言うと黒岩さんは右手に持っていた脇差ほどの刀を落ちていた太刀と同じ場所へ置いていった。血まみれになっていく二本の刀が月夜に鈍い光を放つ。そして刃先についていた血が糸のように細い線を作り僕の影へと伸びてきた。  本当にここは我が家なのだろうか? 倒れている女二人に丸くなった生気のない人影は本当に僕の家族なのだろうか? 現実が受け入れられなくて心が割れそうになる。早く部屋の電気をつけて確認したい。できれば夢であってほしい。波打つ感情が錯綜する。僕も生気のない人影と同じくらい正気ではいられなかったから。  そのまま僕にも頭を下げてきた黒岩さん。まるで仕事を終えたサラリーマンのように後ろを振り向くと、もうそれから振り返ることなく駆け込んできた部下たちに指示を出していた。 「やっと羽柴たちが到着したか。とりあえず容疑者死亡。土岐巡査長は首を斬られ重体。あとは鑑識の森下たちに任せる。一刻も早く遺体の収容と生存者の確認を。そんでそこの親子をすぐ保護してカウンセラーをつけてやれ」と言い残して。  これは所詮、黒岩さんからすれば一つの事件であり仕事の一環だったのだと気づかされる。その業務的な優しさと横柄な態度に僕との温度差を感じてならなかった。ただ感謝はしている。僕にとって命の恩人であるには違いないから。でも…… 「くそっ」  誰にぶつけていいのか、さっぱり分からない悔しさだけが心に残った。感謝しているのに心の奥にどうしようもない憤りを感じてならない。明かりに揺れる打ちひしがれた人影すら直視できずに項垂れて。その人影はきっと僕の父に違いないけれど、それすら今の自分には受け入れられなかった。人影は人影としてしか認識できない。倒れている女二人も今は母と姉貴なんて思いたくもなかった。  希望を失った僕はその人影を見ながら「お父さん、ごめん。お母さんや姉ちゃんを護れなかった僕を許して」と絶望感を嚙み締め、もう昔のような頼もしい父の姿は見られないものかと更に思い詰めた。  ただそれでも僕の中に諦めきれない自分もいた。窓ガラス越しに映るその人影に指を差し伸べ「もう一度だけ笑ってくれよ」と力無し気に撫でてみる。そして奥歯をグッと食いしばり、自分の頬を引っ叩いて今の気持ちを静めた。  助けてもらったのにどこか嬉しくない。剛田という犯人は黒岩さんによって裁かれたというのに。何とも言えない気持ちが込み上げてくるのは何故だろうか? 犯人の顔をはっきりと見ていないから英雄気取りの黒岩さんの顔だけが脳裏に焼きついて怒りの矛先がそちらに向いてしまう。単なる逆恨みというやつか、はたまた自分の手で犯人に一矢報いたかったと思う恨めしさからだろうか。  刑事さんたちに僕の前でかっこつけるのは止めろと言いたい。それより死んだ家族をちゃんと弔えと。まあどちらにせよ十二の僕は混乱して冷静ではいられなかったから、この時は何も言えなかったのだが。
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