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三
勤め先の社長、桜井可憐が僕のことを知っていた一九九九年秋の出来事。誰も覚えていないと思っていたニュースを社長だけは知っていて、入社の際にこの嫌な過去に触れられた。同い年の可愛い顔した女社長なのに、第一印象はとても悪すぎ。
でも社長はそんな知的さだけでなく、行動力や社交性も長けていた。あらゆる業界に顔が効く切れ者。若くして成功しただけある美人さんだ。
そんな人がまさか僕とは違う事件への攻め方をしてくるなんて。女子大生の袖野雪を雇う前から始めていたある計画に、僕は気づかないまま日々過ごしていた。
◆
二〇一九年十二月。
気持ちの整理がついた寒空の午後、街はクリスマスのイルミネーション一色で彩られていた。もう十二月なのかと忘れていた時間が動き出す。
あれは十月末から始まった悪戯と殺人。ハロウィンの時期に重ねてきた刃物による一連の事件だった。僕の妻と娘もそのサイコパスな犯人のターゲットとなる。
そんな家族の不幸を保険屋のおばさんに伝えると、保険会社から多額の生命保険金が記された書類を渡された。そこに書かれた数字を見て、二人の命の代償なんてこんなものかと痛感させられる。三十二歳にして手にする金額ではないけれど、命というものがお金になるということをこの時初めて実感した。
目の前で妻が撃たれた瞬間を思い出すと、手汗が出てきて落ち着かない。持っている書類まで汗ばんでしまいそうだ。
「本当にその節は大変でしたね」
「はあ」
「でも犯人、捕まって良かったです」
「そうですねえ」
「噂で聞きましたよ。三浦さん、犯人逮捕に貢献なさったとか」
「いえいえ……」
保険屋のおばさんは僕に気遣って当たり障りのない言葉を選んで喋ってくれていたようだが、下手なことはこちらから言えない。有ること無いことネットで囁かれても迷惑だからだ。
「でも、あれですかね。今でも殉職すると警察官て二階級特進とかあるんです?」
「さあ? 妻なら警部から警視正ですかね。死んで昇級なんて笑っちゃいますよ」
「とにかく犯人逮捕できたのはお二人のお陰です」
「はあ」
僕はただ静かに頷いた。もうこれ以上事件のことを掘り返してほしくないという気持ちで一杯だったから。そしてメガネを外してハンカチを瞼にあてた。娘が転落し、妻が倒れる瞬間を思い出すだけで顔も心も歪んでしまいそうだったから。口元にあてたハンカチを緩め、ただ「ありがとうございました」とだけ小さく言った。
「では、これで書類すべてお渡ししましたから」
保険屋のおばさんは事務手続き用の書類を出して最後にサインを求めてきた。
これでようやく仕事に打ち込めそうだ。もう少しで完成するミステリー小説を社長と編集長に見せたら、帰りに父の見舞いを兼ねて介護施設へでも顔を出そう。もう呆けてしまった父だけれど、うちの家族に起こった事件だけは伝えておかなければ。
妻は知らない父と契約を結んだ僕の結婚秘話。そしてこの事件の解決と。それが成就したことを伝える義務が僕にはあるから。
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