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 出かける前に家族写真を見ながら平穏な小学校へ通っていた頃の娘を思い出した。 ◆  それは二〇一九年十月三十日の水曜日、少し肌寒くなってきたハロウィンの前日だった。  都内西部にある閑静な住宅街で暮らす僕はいつも朝一に起きては朝食の用意をして、それから妻の沙耶(さや)と娘の愛美(まなみ)を二階まで起こしに行っていた。  愛美は起きてきた早々、いつも不機嫌そうな顔をする。 「おはよう、愛美」 「……うざっ」 「朝の挨拶くらいしろよ。大人になって痛い目見るぞ」 「うっせえなあ」  もう反抗期が始まっている愛美は、くそ生意気な口を叩く小学五年生の女の子だった。女子は成長が早いと言うけれど、早いのは態度だけで、体の方はまだまだ幼い。唯一クラスで背が高い方なのだけれど、それは祖父譲りなだけ。大人の僕から見たら大したものではない。きっと中学になると背が止まるタイプだろうか。背が低い沙耶を見れば想像がつく。 「何食べる? 食パンでいいか?」 「ヤダよ、まずいもん」 「じゃあ何?」 「ご・は・ん」  愛美の機嫌が損ねないようにご飯を用意して、いつものように納豆とみそ汁をテーブルに並べた。 「早く食べて、とっとと学校行け」 「ああ。もう髪グチャグチャ」  洗面所の前でいつものように時間をかけて髪を弄りだす愛美。何をやっても大して変わらないというのに。 「そんなの後にして飯食えよ」 「はあ? ちょっと待ってよ。髪の方が大事なんだから。分かってねえな、オヤジは」  口の悪い愛美に僕も段々とイライラした口調になる。それでもなんとか愛美は食卓について食べ始めた。僕もそれに合わせて向かいの席に座り一緒に食べ始める。 「ご飯、いっつも少なめって言ってるのに……納豆も以前の味が良かったなあ……みそ汁の具が多い」 「文句ばっか言ってないで、とっとと食え」 「うっせえなあ」 「それより宿題やってあんのか?」 「……ああ」と間の空いた返事をする。  文句を言いながら食べている愛美は、僕の前に納豆半分とみそ汁の具だけを残してすぐにテーブルを後にした。そしてまたあまり長くもない癖毛をいじり始める。 「残さず食えよ。お父さんが残さず食ってんのに、子供が残すバカいるか?」 「だから、ブクブク太んじゃねえの。ちょっと最近腹出てんじゃない? オ・ヤ・ジ」 「うっせえ。まだそんなに太ってねえわい。こっちも好きで残飯処理してんじゃねえんだよ」  いつもこんな調子だ。父親としては口喧嘩なんてしたくないけれど、どうしても言う事を聞いてくれない。そこへ沙耶が眠そうな顔をして二階から降りてきた。長い癖毛をかき上げながら、気だるそうな顔で何かの用紙を片手に持っている。 「マナ! あんたまた宿題やってないじゃない」 「ママ。勝手に他人(ひと)のランドセル開けないでよ」 「私はね、あんたの『やった』なんて信用してないんだから。女刑事(デカ)なめんなよ」  そう、妻の沙耶はこう見えても警察官だ。それも警部なんてなかなかの肩書きまで付いている。沙耶の父が警察の警視監だから、きっと上手いこと仕事を熟しているのだろう。キャリア組というやつかもしれないが。 「愛美! お前、またお父さんに嘘ついたのか。髪ばっか弄ってねえで、とっとと宿題やれ」 「うっせえなあ。オヤジみたいにサラサラヘアだったらこうは苦労しねえんだよ」 「なんだ、その口の利き方は!」  小学生のガキ相手に怒りが爆発しそうになる。 「寝癖の苦労はママにしか分からないもん。ねえママ」 「まあねえ。辰巳(たつみ)さんは髪が立たないくらい元気ないのよ。お疲れなだけ」 「何それ、どういう意味?」  あまりにも二人のくだらない会話に切れそうになっていた堪忍袋が萎れてしまった。男を馬鹿にされた気がして腹立たしいけれど、こういう冗談を真に受けるほど馬鹿でもない。ただ単に愛美に対する愛情が薄れていくだけだ。  それを察してか沙耶が愛美と僕の間に割り込み頭を下げてきた。 「あ、申し訳ありません辰巳さん。私があんまり家にいないばっかりに、あなたにばかり迷惑かけさせちゃって」 「ホントだよ。ったく。もっと厳しく育ててりゃあ、こうはならなかったぜ」 「まあまあ。家の血筋ですかねえ。父にあたしも随分逆らってましたから。三浦の人たちは素直でよろしいこと。是非今度お父様から育て方を習いたいものですわ」 「家の血筋なんか……少なくとも三浦の家じゃあ、こんな奴いねえ」  僕が強く愛美に叱ろうとすると沙耶がいつも下手になって謝りだす。最後にはいつも自分の血筋を理由にして。言われているこっちは我が家を馬鹿にされている気分で嬉しくなかったのだが。そんな僕らの間をすり抜けるように、愛美は宿題を片付けて、さっさと学校へと登校した。 「マナ、帽子帽子!」  いつも被っている赤い野球帽を手渡すため、沙耶が慌てて追いかける。常日頃から走っている沙耶は「これくらい楽勝よ」と戻ってくるなり僕の腹を叩いた。 「辰巳さん、誤解しないでね。本当に私もマナも感謝してるんだから」 「別にいいよ。お前らがどうなろうと知ったこっちゃねえ」 「はあ? まだ怒ってる」  僕を宥めながら沙耶も急いで身支度を済ませ玄関を出て行ってしまった。僕には「残さず食べなきゃ、今後娘に残しちゃダメなんて文句言えないよ」と言い残して。もう文句言おうが言わないとこうが関係なく、愛美は好き勝手しているじゃないか。「僕に注意する暇があったら自分の娘に注意しろ」と言い返したかったのに、出勤したら最後、警察の仕事は忙しいのか、ろくに定時なんかに帰って来やしない。また夕方も家事と愛美の相手をするのかと思うと気が滅入ってしまいそうだ。  僕はしがない物書きだから、沙耶より時間に余裕があるから仕方がない。  家事や娘の学校行事はもっぱら僕に任されている。愛美が風邪を引く度に仕事を休むのも僕ばかりで、週末になって出かけるのも愛美と二人でが多い。世間からはシングル家庭と誤解されるほどだ。  ただ愛美と僕とは血が繋がっていない。年上の沙耶はバツイチで連れ子だった。その連れ子が物心がつく前、ちょうど僕が新人賞を取り大学卒業した頃に出会い結婚したのが沙耶との馴れ初め。たぶん前の夫は沙耶の父親が怖くて逃げ出したのだろうが、僕はあの父親から逃げるわけにはいかなかった。  せっかく赤い糸で結ばれた相手をやっと見つけたのだから、この機を逃すわけにはいかない。
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