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六
どこへ連れて行ってくれるのかと思いきや、そこは僕の行きつけである行列のできるラーメン屋だった。
「なんだよ、いつものラーメン屋か」
「まあね。ツミッチ行きつけの店が喜ぶかと思ってさ……雪ちゃん、悪いな」
「いえいえ」とあからさまに苦笑いを浮かべている。
まだ昼前だというのに長蛇の列が既にできているラーメン屋。行列待ち客のほとんどがオタク風の中年サラリーマンたちだ。
「嬢ちゃん、どうして長蛇になってるか分かるかい?」と僕はおもむろに訊いてみた。
「先生、嬢ちゃんは止めてください。袖野とか雪とかで構いませんから、そっちの呼び名でお願いします」
「じゃあ袖野、長蛇の理由は何故だか分かるかい?」
「美味しいからですよね」
「まあ、それもある。だけど、それだけじゃあねえんだ、これが」
僕の言葉に袖野が不思議そうな顔をした。そして小さな声で「客席が少ないから?」と改めて訊いてきたが、僕は首を横に振った。
「その謎めいた顔がミステリアスだねえ」
「そうですかあ?」と眉間を歪める。
「そうだとも。謎が謎を生めば、もうそれはミステリーさ」
そう言って、今度は前から三番目の客を注視させた。
「じゃあ、あの欠伸してるサラリーマンは何で欠伸してると思う?」
「眠いから」
「まあ、それもある。だけど、それだけじゃあねえんだなあ」
「え?」
「アプローチが違うんだよ。直球過ぎるというか……欠伸はそもそも脳細胞が酸欠してるから起こる生理現象でね、脳卒中の患者さんでも同じように見られるんだ。つまりは眠いからじゃなくて、起きたいからなんだよ。脳に酸素を送り続け、眠気から打ち勝つための努力の結晶なんだ」
長々と馬鹿みたいな話を熱弁してしまった。サスペンスを考えるうえで、ミステリアスの視点を変えるのが一番手っ取り早い方法だったから。それを袖野に教えたかっただけなのに、こちらが少し気恥ずかしくなる。
「うっわあ、そんな風に考えたことなかったあ」と目を大きくして頭を掻き出した袖野。
意味が分かりづらかったかもしれないが、それはそれでいい。すべては勉強だ。だが、今どきの若い子はこちらが熱くなると冷めやすい傾向がある。袖野もそういう類の人種ならあまり喋りたくないのだが。
ふと袖野の方を見ると、新しいものを発見したかのように嬉しそうな顔でペンを握りメモを取っていた。そのあたりが初々しく思えて「教えて良かった」と心の中で嬉しくなる。
「雪ちゃん。ではこの俺がツミッチの出した最初の答えを解説してやるよ」
いつも二人で来ているから知っているのは当然なのに、正木がもったいぶった言い方をする。
「マサ。とっとと言っちゃえ」と背中を軽く叩いた。
「行列はオタク風の中年サラリーマンばかり。そこに注目!」
「ええ。この辺、会社多いから」
「会社にはOLさんだって多いんだぜ。なのに一人もいない」
正木が行列を指さしながら、ぐるっと見渡す。
「味がこってり豚骨とか背油たっぷりとかなんですかねえ」
「それも違う。昔ながらのさっぱり醤油味さ」
「はあ」と溜め息のような声を袖野が漏らした。
「だとすると答えは簡単……店内に癒し系の美人さんがいるからなんだぜ」
パチパチパチパチと正木は一人で拍手を始めた。可哀想なので遅れて僕も拍手をする。だいたいオタクのような男衆だけが集まるようなところは地下アイドルのサイン会か看板娘がいるかに決まっている。ここのラーメン屋も店主が結婚して若女将をカウンターに据えてから行列ができ始めた類の店で、味は驚くほどでもなかった。つまりはラーメンよりも愛想のいい美人さんの笑顔に癒されたいサラリーマンたちが集いたがるお店なのだ。
「なるほど。勉強になります。じゃあ先生も癒されたいんですね」と思わぬツッコミを入れられてしまった。
袖野は僕の泳いだ目線を追うように体を揺らしながら一人で頷き、またメモを取り始める。くだらない情報を与えてしまったものだ。
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